まほろば

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 総合病院の駐車場に停まる、遊郭の黒塗りの車。
 降り立つのは楓だ。ダウンジャケットを着て、スニーカーの足を踏みだす。
「こんな機会をいただいて、ありがとうございます」
 一礼して、楓ひとりで病棟へと入っていく。
 教えられた通りの道筋で、克己の入院している部屋に向かった。
 エレベーターに乗り、連絡通路を渡った先で手指を消毒し、奥まったフロアの病室をノックする。
 開けてくれたのは見たことのある初老の女性だ。越前谷家に使えていた家政婦で、早百合に従い、共に越前谷家を去っていった。
 お見舞いの箱菓子を渡すと申し訳なさそうに受け取る。
「お気遣いは無用です。いま、お茶を淹れますので……どうぞお話なさってください。奥様もじきにいらっしゃいますので……」
「申し訳ないけど、長居できないんです。じゃあ、せめてお茶だけでもすこし」
 楓に頷き、ホテルの一室のように広々とした室内、彼女はキッチンの方に消えていく。
 ダウンを脱いだ楓は、意識的に笑顔を作った。
「克己……具合はどうだ?」
 横たわる克己は天井を見つめている。
 美しい顔だちにも、パジャマから覗く首にも、点滴を受ける腕にも包帯と湿布がされた痛々しい姿だ。
 ベッド脇の椅子に腰かける楓に、克己は瞳だけを動かした。
「……楓さん……」
 地下牢で会ったときと違い、楓をちゃんと見てくれている。
 片目だけでも視力が戻ったのは奇跡でしかない──医師はそう言っているらしい。
「地下では、ずっと夢を見ていました。あぁ……身体は痛みますが、精神的には錯乱していませんから、大丈夫です」
「そうか、それは良かった」
 話しぶりにも克己らしさが戻っている。ほっとした楓からは自然にこぼれる言葉がある。
「おかえり。克己」
「……なんですか、いきなり」
「いや、その夢から戻ってこれてよかったなっていうか……」
 唇をゆるめた楓に、克己はとつとつと語る。
「長い夢です、幾度も季節が……廻って……夢の中で俺は花魁でした……もう過去形なんですけれど。楓さんの二の足は踏まない、この俺が、恋にうつつを抜かすわけはないと思っていたのに……ごらんの通りこの有様です」
 楓は苦笑してしまう、なぜだか、微笑ましい気持ちにもなる。
「俺も克己も人間なんだ。商品である前に。だから、恋愛するのは当たり前なんだ」
「人間……ですか」
 克己は物憂げに目を反らし、視線は天井へと戻り、伏せられた。
「……俺はこれからどうしたらいいのでしょうか。分からないんです、男娼以外……『長原克己』以外の生きかたが」
「ゆっくり探していけばいい、男娼をしながらでもいいじゃないか」
 カーテンからこぼれる午後の穏やかな光に、克己は長い睫毛に縁取られた瞼を瞬かせる。
「ええ、そうするつもりです……そうしなければいけない」
 誰に強いられるわけでも命じられているわけでもなく、自分の意志で進む道を見つけること。そのためにはいままで遊郭で過ごしてきたよりも多くの時間が必要かもしれない。
 それでも克己ならば、いつか見つける気がする楓だった。
 運ばれてきた紅茶を味わい、ほんのしばらく過ごしていく── 

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 街角に小さな花屋があった。病院を出た車は店前に停まり、楓を下ろし、都心の街並みに遠ざかる。
 夜更けにはまた迎えにきてくれるそうだ。
 貴重な時間を無駄にできないからすぐ花屋に入る。咲く、いくつもの花のなかで楓の目に止まったのはブライダルピンクの薔薇。
 店の奥から、長い髪をふたつに結んだ美砂子が来る。ワンピース姿にエプロンをして、クロックスを履いている。年齢より幼く見えるのは相変わらずだ。
「いらっしゃいませぇ」
 たれ目がちな大きな瞳は、楓を映すとさらに大きく見開かれた。
「……え……っ、どうして……」
 ひさしぶりに見るそんな表情に楓の微笑は誘われる。
「この花がほしいんだ」
 ピンクの薔薇を示すと、美砂子は白く細い指先で触れる。
「一輪。大切な人にプレゼントしたい」
「どうして、とつぜんに現れるの? 来るなられんらくしてほしかった……」
「ごめん……急に許可が下りたんだ。すこしだけなら家族に会っても良いって」
「それはとってもうれしいよ、でも、こころのじゅんびが」
 できてないよ……、と、美砂子は呟き、うつむいて、ラッピングの手を止めてしまう。
「……ごめんな」
 相変わらず謝ることしか出来ない自分が、楓には情けなく、申し訳なかった。
「いつも困らせて。泣かせて……さみしい思いをさせて……」
「さみしくないって言ったらうそになるけど、だいじょうぶだよ」
 レジ横の作業机にぽたりとこぼれた雫。
 目元を押さえてから、美砂子は改めて楓を見つめる。
「ミサはもう、施設にいたときみたいに『ひとりぼっち』じゃないから。セイもいてくれるし、へいきなの」
「そう、か……」
「かえでくんとも、離れててもこころはつながっている気がするよ」
 微笑う美砂子に頷いた。そしてふたたび、楓も微笑む。

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 セイとふたりぐらしになってから、美砂子は夜の仕事を辞めた。
 本人は花屋さんのアルバイトも楽しいと言うけれど、自分のせいで好きな仕事から離れさせてしまったことも楓には心苦しい。
 バイトを十五時で上がった美砂子の、クロックスから履きかえたパンプスと歩幅をあわせて、手袋の手をつないで歩き、辿りついたのは小さな公園。犬を連れたお年寄りのほかに、母子の姿が二組あった。
 公園の山に登っていく美砂子にも保育園に通う子どもがいるなんてだれも思わないだろう。
 それは楓もおなじで、父親と思われたことはまだ一度もない。
「ちょっと待ってくれ……ミサ……」
「あははは、おそいよー、かえでくんっ」
 美砂子はかろやかに頂上へとたどりついた。
「ずっとお部屋にいて運動していないもの、しかたないね」
「そんなこと……ないぞ……たぶん……」
 とは言いつつも、運動不足を実感する楓だった。
 陽だまりにふたりで座り、グラウンドと遊具の景色を見下ろす。
 楓は、改めて隣の美砂子を向いてみる。中学生のときは肩を並べて話していたのに、いまは楓のほうがわずかに高い。
「ミサ、プレゼントを渡したいんだけど……」
「……えへへ……お花だよね?」
 一輪の薔薇を渡す。受け取った美砂子の幸せそうな表情が楓を幸せにさせる。
「すきなひとにもらうお花って、やっぱりうれしいね」
「それだけじゃないぞ」
 楓はダウンジャケットのポケットに指先を忍ばせる。
 取りだしたリングケースに注がれる視線。
「えぇっ…………なあに……それ──…………」
 じっと見つめられながら楓は蓋を開けた。
 冬の陽光に照らされて輝くのは、シンプルな銀色の指輪だ。
「…………」
 美砂子は驚きのあまりか、もはや、言葉を無くしている。
「左手を出してほしい」
 手袋を取っておずおずとぎこちなく伸ばされる手に、楓は触れた。
「ミサ──美砂子のことは俺が一生守るからな」
 ゆっくりと薬指に指輪をはめる。
「……いまは、離れ離れになってしまったけど、そのあいだはきっと指輪が美砂子を守ってくれる。おまじないだ」
 ぽかんとしている美砂子の前、種あかしするような気持ちで楓も手袋を外した。楓の左手の薬指にもおなじ指輪がきらめく。やっと美砂子は声を漏らす。
「ありがとう。ありがとう。かえでくん……!!」
 公園で遊んでいる母子がなにごとかと楓たちに振り向いた。美砂子は泣きだしてしまったけれど、涙をこぼしながらも微笑む。そして楓の両肩を掴み、唇を重ねてきた。
「! ひ、人に見られてるぞ」
「だって、うれしいよう、ありがとう、ミサずっと外さないね」
「あ、あぁ……」
 頬にもキスをしたあと美砂子はぎゅっと楓を抱きしめてくれた。
 相変わらず人の目は気になる楓だったけれど、微笑みを感染されるのも事実だ。
「俺も……外さないからな」
 抱擁がゆるむと、楓は自分の指輪に触れて約束する。
「えっ? お仕事のときも……?」
「外さない。約束だ。それくらいは貞操を守りたいんだ」
「いいよ、きにしなくて、ミサぜんぜんきにならない!」
「俺が気にする。俺のしていることは常識から考えておかしいんだ」
「ほかのひとがなんて言っても、思っても、かんけいないよ」
 いつもは可愛い美砂子が時折覗かせる毅然とした一面は、出逢ったときと変わらない。
「かえでくんはミサのこと幸せにしてくれるし、こんなにも愛してくれているんだよ。常識とちがってたっていい、ミサとかえでくんが愛しあっている事実にほかのひとがくちをはさむ権利なんてないもの」
 美砂子の凛々しさに安らぎを覚え、楓は目を細めた。
「……そうだな。……じゃあ、俺も気にしない、理解されなくても、ののしられてもいいんだ」
 今度は楓からキスをした。美砂子の髪も撫でて指先にすべらせる。
「そうだよ。そのちょうしだよ、かえでくん」
「あはは……!」
 声を出して笑うと、美砂子もお腹を抱えて笑った。母子たちは戯れるふたりを気にするのをやめて穏やかに世間話している。
「俺がいい仕事できるのは、美砂子が理解してくれているおかげだな」
「ほんとう? そうなの?」
「あぁ。いつもありがとう。これからもよろしく」
 謝るのはもうやめた。手の甲にもキスをする。
 そろそろセイを迎えにいく時間だから、揃って立ちあがる。やはり美砂子は楓よりもかろやかに下りていく。コートから覗くスカートが風に揺れる。
「ミサもね、また夜のお仕事しても、指輪はずさないね」
「いや、そんな、いいのか?」
「ミサがそうしたい!」
 夕食をとる時間くらいならありそうだから、ひさしぶりに三人でカレーライスを食べたいと思う楓だった。
 保育園に向かう道のりを、どちらからともなく手を繋ぎ歩く。

楓篇 第二部 終……