ミライイロブルウ

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 目覚めれば、登校時間はゆうに過ぎていた。いつものことなので恭平は焦らない。どれだけ遅刻してもとりあえず行けばいいだろう、というスタンス。のんびりとワイドショーを見ながら、買いだめしたスティックパンを食べて、それから学ランに袖を通す。

 母親はほとんど家に帰ってこない。十年前に離婚してから、借金を返すために朝から晩まで働きづめだ。ゆえに、恭平の生活は独り暮らしとほぼ同じ。

 アパートを出たところで、近所の主婦と出くわした。
 色々と気にかけてくれる彼女は、コンビニ弁当ばかり食べている恭平に、おかずを差し入れてくれることもある。ただし、おせっかいの気もあって、恭平は少しばかり苦手意識をもっているのだったが。

「ちょっと恭平くん、どーしたのよ、こんな時間に。また寝坊なの?」
「やべ、見つかっちゃったー……」
「おばさんが毎日起こしにいってもいいのよ?」

 彼女は、悪い人ではない。買い物袋を持つ姿に、恭平は微笑みかけた。

「だいじょうぶ、まだ昼前だし」
「のんびり屋さん! こまったもんねぇ……そうだ、ちょうど良かった、お話があったんだわ」

 制服の袖を掴まれると、いきなりに耳打ちをされる。

「──恭平くんの実のお父さん。見かけちゃったわー」

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 階段を昇る足音が、夕刻に聞こえてきた。恭平は寝返りをうつ。音は一人じゃなく、二人──?

 彼らは恭平の家の前で立ち止まり、チャイムを鳴らした。けれど面倒臭い、気だるくて起き上がりたくない。丸まった布団を抱きしめて過ぎるのを待つ。どうせ、セールスか宗教の勧誘だと思う。

「きょーへい! いるんだろ、オイっ!」

(!)

 ノックしながら響く声は、知っているものだった。恭平は驚いて飛び起きる。

「留守かしら、こまったわ〜…」
「えー、寝てんのかもしんねーじゃん!」

 担任の篠宮と大貴の会話だ。無視をするわけにいかず、あわててスウェットを着た。トランクス1枚で出るのも恥ずかしい。

「せんせい、だぃき……!」

 ドアを開けると、飛び込んでくる二人の目線。

「大丈夫?! 電話しても出ないから、どうしちゃったのかなぁって。クラスのみんなも心配してたわよ」
「し、心配?」

 ぽかんとしていると、篠宮は学校のプリントを手渡してきた。催し物のお知らせや、今日の宿題など。

「ほら、恭平くんはどんなに遅くなってもぜったい学校に来るでしょっ、無断で休むことなんて、これまで一度も無かったじゃない」

 語りかける篠宮の傍らで、大貴はというと何か言いたげにしている。学ランのポケットに両手を突っ込み、身体をもぞつかせていた。

「せんせー、早く帰れよな、俺は恭平と話があるんだー…!」
「なあにそれっ、あたしの前じゃ出来ない話なの?」

 篠宮の眉間には皴が寄る。恭平は大貴だけを掴んで玄関に入らせ、勢い良く扉を閉めた。

「!! 開けなさいよ〜!! また、あたしのことばかにして! 二人とも〜!!」

 しばらくはチャイムを鳴らしたり、叩いたりしていた篠宮だが、やがて諦めた。怒りながらも階段を降りていく。一部始終をレンズ越しに覗く大貴だ。

「はー、よかった、帰ってくれてっ」
「だぃきは正直すぎるんだよ、あんなこと言ったら帰るもんも帰んなくなるじゃん!」

 大貴はこの部屋に何度も遊びにきたことがあるし、泊まっていったこともある。慣れたように居間に踏み込み「おじゃまします」ときちんと言った。恭平は飲み物を出そうと思って、冷蔵庫を開ける。

「なんか……みんなに心配かけちゃったんだー?」

 ちょうど、ペットボトルのコーラがあった。注ぐのは紙コップ。洗うのが面倒臭くて、いつからか食器は使い捨てだ。

「いや、俺のせーだよな、ほんとごめんな。それを言いにきたんだけど。俺と遅くまでいたから、きょーへいが寝坊しちまったのかなって…──」

 昨夜は深夜まで一緒に、ファミレスで宿題を解いていた。大貴も恭平と同じように親の干渉がなく、自由時間が多い。

「ぜんぜん、休んだのはそんな理由じゃないし! ちゃんと起きて、いちどはせーふくも着たんだけどさぁ……」

 向かい合わせに座り、ちゃぶ台にコップを置いた。
 
 今、胸に渦巻いている感情を大貴になら言える、相談できると思った。きっとこの切なさも複雑な感情も共有できるはずだ……

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「近所のおばさんが……なんか、俺の親父を……見かけたって話しかけて来て……」

 話すと、大貴は驚いた顔をする。ずっと母子家庭なことは、学校の友人皆が知っていることだ。

「おばさん、昔からこの辺住んでるから、親父の顔知ってるんだけど。パチンコ屋から出てくるの見たっていうんだ。それも何度も……あ、パートの行き帰りに、そこの前よく通るんだって」
 
 恭平にとっては写真でしか見た事のない男。話しながらも現実感は湧かない。その人が、至近距離に存在している事実なんて信じられない。

「作業着着て、あたまにタオル巻いてるらしいから、工事現場?で働いてんのかなー。で、おばさんが……会ったらどうって。何ならおばさんが話つけてきてやるとかいいだして……」

 恭平の肩は震えた。

「……そんなんいまさら、どうしろってゆうんだよ。こっちはこっちでやってんのに、現れんなよ。考えたこともないし、親父に会うってことっ」
「どう……すんだよ……、恭平…!」

 大貴は真剣なまなざしで問いかけてくる。
 聞きたいのは恭平の方だった。決められなくて、分からなくて、ずっと悩んでいたのだ、鬱々と布団の中で。

「わかんねーよぉ! ……大貴なら、もし大貴が俺なら、どーする?!」
「……お、俺は──」

 空間は沈黙になる。大貴の戸惑いが恭平へと伝わってきた。彼の視線は畳を彷徨っている。切なげに。

「会うかもしんねー……、あいたいな……俺は……」

(そうだよな……! 大貴はそう言うよな……!)

 6才の頃に母親を亡くしたという大貴なら、そう答えるはずだ。悪い事を聞いてしまったような気がして、恭平の表情も曇った。

「二度と会えないと思ってた親に会える機会なんて、そう無ぇもん。今逃して、一生会えなかったら、後悔するんじゃねーのかな……」
「ごめん、大貴……いきなり変な事きいて……」
「……いいな、すげーいいな。よかったじゃん!」

 大貴は恭平に笑いかけてくれる。そんな風に笑いかけられても恭平の中の釈然としない想いや、感情や、複雑なうねりは一層渦巻いて止まらない。涙さえ滲んできそうになる。

「大貴、ごめん、俺、じっくりかんがえたい……大貴の意見も参考にするけど……!」

 言葉に詰まり、そう言うのが精いっぱいだった。

「おう。重大なことだもんな。恭平が決める事だし、かんがえろよ。そんかわし、つらくなったらいつでも電話してこいよ! 俺、すぐ飛んで来るぜっ」

 大貴は強くて優しい。コーラを飲んでから、笑顔のままで帰ってゆく。

 独りきりになった恭平が、泣いてしまったのは何年かぶりのことだった。

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 人生最大に苦しい気持ちだ、と恭平は思う。

 食欲もわかず、何も手につかない。あんなに楽しく遊んでいたはずのRPGも、まるで頭に入ってこない。今日発売の雑誌を立ち読みに行く気も起こらない。

 俺は、どうしたいんだろう。

 答えを見つけ出せないまま、深夜に自転車を漕いでいた。あての無いサイクリングは、家でボーッとしているよりは気が楽だ。繁華街を横切れば、週末だからか酔っ払いの姿がよく目につく。

(俺、こんなの、はじめてかもなぁ……)

 いつも、割と平気だった。授業参観に誰も来ないことや、両親がそろう家庭で過ごすクラスメイトとの会話にいまいち入っていけないこと。家に帰っても誰もいないこと。ずっと、コンビニ弁当で暮らしてきたこと。心無い同級生に母親のスナック勤めをけなされて、仲間はずれにされた時もある。

 それでも、いつでも、笑い飛ばして来れた。母親のことが好きだし、気付いた時から鍵っ子だから独りは苦痛じゃない。それに父親は暴力を振る人だったと聞く。そんな人間に、今更会いたいと思うのか。

(お父さん、かーーー…)

 ピンとこない。分からない。知らない。イメージもできない。アルバムの数枚に写る日焼けした彼を思い描きながら、坂道を上ってゆく。途中で漕ぐのがしんどくなり、自転車を引いて歩くことにした。

 ふと、耳をかすめる音。
 近づいてくると少しずつ爆音に変わってゆく。暴走族──すれ違う瞬間は鼓膜が破れるかと思ったが、祭りのような騒ぎは面白くもあり、つい見てしまう。彼らの後にはサイレンを廻したパトカーも続き、騒がしい。

 坂を上りきったとき、辺りはすっかり静寂を取り戻した。そして、信じられない人影を見つける。誰もいない大通り、バス停のベンチに腰掛けている少年。傍らに単車を停め、煙草をふかしている姿は神山祥衛だ。
 
 まさか、ここで出会うなんて。

「……神山! なにやってんだよ、どーした?」

 近づいても、祥衛は何も言わない。表情も凍りついたままである。いつも通りの祥衛だ。

「これ、神山のバイク? 中学生じゃないみたいだよなー、かっこいいなぁー……!」
「……もう夜中だ」
「?」
「ねたほうがいい」

 祥衛は恭平をちらと見ると、吸い殻をアスファルトにはじいた。

「神山だって、寝たほうがよくね」
「……俺は……、これから、用事がある……」
「そっか。じゃあ、俺と話してるヒマってないんだ?」
「……すこしなら」

 目線を合わせないままで、歓迎された。
 恭平は自転車を置くと、隣に座る。鼓膜はまだ爆音に麻痺し、キーンという耳鳴りがしていた。

 祥衛は座って何をしていたんだろう、恭平が尋ねようとすると、祥衛のほうから話してくれる。

「……さっき通っていったやつ、よかった」
「ぼうそうぞく?」
「ああ。あいつらは、良く、ここを通る。この先の……橋を経由して、港に……向かうんだ。俺は、それを観察していて……」

 祥衛は道の先を指差して、遠くを見るように目を細める。相変わらず無表情のままだが、心なしかうれしそうな顔にも見えた。

「神山は本当にすきなんだ、バイクとか、ぼうそうぞくとか。くわしいなー……」
「……」
「そうだ、神山にも相談してみようかな。俺、いますげぇ悩んでるから……」

 祥衛の家も母子家庭だったはずだ。大貴とは立場がちがう。神山なら、どう答えてくれるんだろう? 期待を込め、恭平は事情を説明してみる。

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「俺は……会わない……」

 バス停のライトの下、そんな台詞が呟かれた。

「会っても、意味がない。記憶もないし、知らない人だから」

 祥衛ははっきりと意志を表す──冷めた意見を。

「でも、実の親父って、どういう人なんだろうって。気になるじゃんかー……」
「知らない家族より、ずっといる家族のほうを、だいじにしたい。俺にとっては、妹だ……。友達……も、たいせつだ。……だけど、俺には……父親はいない、これまでも、これからもずっと……いない……感情は、わかない……」

 とつとつと語る祥衛を、恭平は見つめる。

 確かに、それも一つの選択だ。

(俺はどうしたいんだよ、一体……いろんな人に聞いてさぁ……けど、俺、自身は……?!!)

 会うと言われても戸惑って、会わないと言われても戸惑う。胸の中は様々な感情で溢れ返り、渦巻くばかり。表情を歪ませながら、拳を握りしめる。

「そっかぁ、すげーな、神山も、大貴も……すぐに決めれて、ちゃんと意志があって」
「……」
「俺、親父のことなんてかんがえたこともなかったくせに、いざ会えるかもってなったら、わけわかんなくなるくらい迷ってぐらついて……!」

 深いため息を零し、恭平はうなだれた。夜風が髪を撫でてゆく。祥衛は何も言わず、また煙草に火をつける。

 ……恭平は、何も言わない祥衛に居心地の良さを覚えた。へたに言葉を並べられて励まされたり、気休めを言われるよりも癒される。

 しばらくして、立ち上がる祥衛。彼の着ているジャンパーのボアも、風に細かく揺れている。

「行くの、神山」

 声を掛けると、祥衛は頷いた。綺麗な顔はヘルメットを被る前に「おやすみ」とだけ呟く。

「うん、おやすみ。ありがとうな、話聞いてくれてー……」

 エンジンを掛けると、その姿はすぐに彼方へ消えた。繁華街の方角に向かって。

「どうすっかな、俺は。俺は……」

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 ぐだぐだとした週末を過ごし、月曜日を迎えた。

 布団から起き上がれそうもない。今日もまた学校を休んでしまうのは決定的。窓の外から通学途中の子どもたちの声も聞こえてくるが、それを他人事のように聞く恭平だ。

(学校に、でんわ……しないとな……こないだみたいに心配されたらやだしー……)

 畳の上の携帯電話に手を伸ばした。玄関のドアが開いたのは、次の瞬間だ。

「あれっ、恭平?」

 母親の声だった。
 ……恭平は驚くとともに、やばい、と思った。こんな時間に寝転がっているところを見られたら、まずい。適当に言い訳をする。

「お、おかえり、おふくろ。俺寝坊しちゃって……!」
「ごめんね、恭平。毎日起こしてあげられなくて……」

 水商売のスーツに、コート姿の母親は部屋に踏み込んできた。香水の匂いが恭平に届く。

「気にするなよ。寝坊は、俺が悪いんだからさ」
「でも──」

 恭平は笑顔を作ったが、母は沈んだまま。彼女は明け方に仕事を終えてから、すぐに昼職に向かう。睡眠は閉店後の店で適当にとるという状態で、ろくに寝もせず働きづめだ。

 そのせいか、朝に彼女を見ると何とも言えぬ気持ちにとらわれた。ぞっとすることも多い。化粧の剥げた母親の顔は、目の下の隈や、疲労がありのままに出ていて、恭平を哀しくさせる。

 もっと休んでも良いのに。そもそも、借金の原因も以前の夫──恭平の父親が言いだしてはじめた商売が失敗したせいだ。

「おふくろ、ちょっとは休んだら」

 母親に、恭平は言った。

「俺も新聞配達とか、するからさー。あんまり無理すんなよ、もう……」

 母親は黙っている。何かを喋ろうとして、躊躇っている雰囲気だ。恭平も黙っていると、意を決したのか口を開く。

「じつは……母さん、好きな人ができて……」



 それは、恭平には予想外の、言葉だ。



「……彼が助けてくれるから、仕事を減らせそう。だからもうすぐ、毎日帰ってきて、恭平と、ちゃんと暮らせるようになるから……!」
「よ、よかったじゃん! そっか、彼氏、か……」

 気まずそうにうち明けた母親を見ながらも、戸惑いは止まらない。母に新しい男ができるなんて──実の父親のこと以上に考えたことが無かった。

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 しばらく経った或る日の昼休み、学校の屋上に大貴を連れ出す。本当は祥衛にも聞いて欲しかったが、彼は今日も欠席である。

「……またいつか、もしかして会えそうな機会があったら、そのときもう一度考える。今は、新しい親父となかよくなってみたいなーって、思ったんだー……」

 あれから、母と彼氏と三人で食事もした。店の客だという男は、恭平の目を真っすぐに見て話してくれる気さくな人柄だった。お互いにバツイチの二人は、結婚も考えはじめているらしい。

「俺は、だぃきみたいに会うぞ!って決めらんないし……かといって神山みたいに、すっぱり今の家族のことしか考えずに行く、っていうこともできないから……とりあえず保留、ってことにしよぅと思って……」

 実の父親に対する感情を消せるはずもない、けれど『未来』への期待に懸けたくもあって、その間で迷った結果、選んだ答えだ。

「……そっか、恭平がそう決めたなら、恭平にとってそれが正解なんだと思うぜ」

 手摺りに肘をついて、大貴は風に撫でられていた。広がる街並みを眺めながら。

「けど、ふくざつじゃね。新しい親父なんて……」
「いや、そんな嫌にはおもわねえよ。おふくろがうれしそうにしてると、俺もうれしいしさ」
「きょーへいって大人だな……俺、絶対ムリ。親父があたらしい母さんだとか言って連れてきたら、なんか、抵抗あるっつーか……!」
「大人じゃないし。事情がちがうだけだろ。大貴の家は亡くなってるけど、うちは離婚で、またちょっとさ」

 他のクラスメイトとは分かり合えない部分を分かり合えている気がして、恭平は大貴を好いている。大貴もまた、そうなのだったが。

「恭平っ、俺、恭平にもみんなにも、隠してることあるんだ。けど今は話したくなくて……」

 大貴は視線を風景に向けたまま、突然にうち明けた。

「けど、いつか、言いてーな。俺もそれは保留……ゆったらきらわれるかもしんねぇし、俺自身その事実をイヤだって思ってるところがあって受けいれられねーから、まだ言えねーんだ」
「きらうわけがないじゃん。俺が、大貴のこと」

 傍らを向いて告げると、大貴はほっとしたような、安らいだような表情を浮かべる。

 午後の授業を知らせる鐘が鳴った。二人は照れ臭さを感じつつも、笑い合って屋上を後にする。教室に向かう道程で交わすのは、今日の夜にも遊ぶ約束。

E N D