善悪の彼岸・下

 病院を出た了理は、まっすぐに帰宅せず、山手線を途中下車する。
 ロータリーから見える駅前の景色をひどく懐かしく感じた。なにしろ、両親に引き取られてからというもの、一度も訪れたことがない。
 一年半ぶりに帰ってきた、叔父の倫二(りんじ)と暮らした街。
(さて、どうしましょうか……)
 とりあえず来たものの、医院を訪れる勇気は湧かない。立ち止まって携帯電話のメモリを探り『東條倫二』の電話番号を眺めてみたりもした。
(通話ボタンを押すだけでいい、たったそれだけなのに)
 結局電話できないまま、商店街へと足を踏み入れ、ふらふらと歩きだしてみる。
 了理が暮らしていたころには定食屋だった店が薬局になっていたり、金物屋がブティックになっていたりと、ところどころ変化していたが、街自体は変わらない雰囲気を纏っていた。 
(……偶然、本人と……叔父さんと出くわせたら。踏ん切りもついて、話せるのに)
 上手く偶然が起こるはずもない。時間ばかり流れ、アーケードの下を行き交う人々の割合は、買い物袋を下げた主婦やお年寄りから、制服姿の学生、会社員らしき人々といった顔ぶれに移り変わっていく。
 腕時計を見れば、いつのまにか時刻は十八時。夜の診察時間が始まり、倫二と道端で会うことは完全にありえなくなった。
 ポケットでは携帯電話が震え、取りだしてみれば母親からのもの。
 立ちどまって画面を見つめていると、しばらくのち、諦めたのかぷつりと切れる。
 その後、間を置かずメールの連絡。早く帰ってきなさいの一言だろうと予想がつくので、読まずに放っておく。
 叔父に預けられていたとき、両親とは年に二、三度会えばいいくらいだった。だが、引き取られてからというもの一変して過保護になってしまった彼ら。
(兄さんを亡くして、もう僕しかいない、その気持ちは分かりますよ。ですが、少々、自分勝手ではないでしょうか……?)
 度胸がなくて、面と向かっては放ったことがない、了理の本音。
(兄さんも、いまの僕に対するように、強引に、過保護に、育てられてきたのかもしれませんね)
 あまり考えたくはないが、事故死は不慮のものではなく、兄の意志だったのかもしれない。
(……僕は、死をもって自由になったりなんてしない……)
 了理は眉根を寄せる。すっかり陽の暮れた通りを睨み、決意を握りしめるように拳を握った。
 携帯電話の電源を切り、弱気な自分はまだいたけれど、心を奮い立たせ、街燈の灯りつつある道を歩きだす。
 再開発の進む駅前や、賑わう商店街を離れ、民家の並ぶ昔ながらの光景に足を踏み入れていく。
 たった一年半しか離れていないのに、暮らしていた下町の情景は、駅前や商店街の風景よりもさらに懐かしく感じられた。
 小さなころ、この路地で自転車の練習をした。補助輪を外して走りだすとき、見守ってくれていたのはやはり倫二だ。独身を貫いてきた倫二は了理を実の息子のように扱ってくれて、了理も実の父親のように感じている。気難しく堅物で、ろくに会話すらしたことのない本当の父親より、気さくな叔父のそばにいるほうがずっと良い。
 夜闇に輝く、東條内科のネオンサインが見えてきた。入院設備のない、個人医院の割には立派な建物で、小児科も併設している。いまも幼い子どもを抱いた母親が病院の建物のなかへと入っていく。開いた自動ドアのすき間から一瞬だけ、病院の独特な匂いが漂ってきたような気がした。
(あぁ、僕の好きな匂いだ)
 再確認して微笑む。道端でへらへらと笑ってしまったので、すれ違った人が怪訝な顔で了理を見てくるが、気にしない。
 診療中の医院には立ち入らず、倫二の自宅で待つことにする。病院の裏手にある一軒家の敷地内、真っ暗な石畳を歩き、玄関前に辿り着くとその場に座りこんだ。
 合鍵は両親の元に引き取られるときに返してしまったから、此処で待っているしかない。
(いまごろ、母さんたちは大騒ぎでしょう)
 ドアにもたれ、薄闇を眺めながら思った。心配させてしまうのは心苦しいが、大学に行く以外は、黎生と会うくらいしか外出を認められない生活にうんざりしきっているのも確かだ。
 だんだんと闇に慣れてきて、倫二の趣味でしつらえられた日本庭園の輪郭をぼんやりと捉えられるようになってきた。池を形取る岩群、石灯籠のシルエット。広さこそさほどないが、風流さは見事だ。
 秋になると紅葉が落ちて、水面は真紅に染まる。倫二はそれを毎年のように『鮮血のように美しい』と形容した。子どものころは医者らしい例えだと感じたものだが、改めて考えると奇妙でもある。
『紅葉というのは、断末魔の悲鳴なんだよ。剥がれ落ちる瞬間が近づくほど赤く染まる』
 いつの秋だったか、倫二は縁側に腰かけ、煙草の煙をくゆらせつつ語った。
『残酷だと思わないか。人間どもは葉っぱの瀕死を鑑賞し、美しいねと溜息を漏らす』
『その理論で言いますと、春のお花見にも該当しませんか』
 了理が尋ねると、倫二はハンサムな顔に含み笑いを浮かべる。
『あぁ、そうだ。桜花の死に様だ。おまけに染井吉野はひとつの樹から繁殖したクローンと来てる。いっせいに悲鳴をあげるクローン。実に怪奇趣味だな!』 
 共に暮らしていたときは当たり前過ぎて気づかなかったが、距離を置き、こうして思いだす倫二の言動のひとつひとつは風変わりにも感じられる。
(所謂、一般の価値観とはズレたものの見方の持ち主だったんですね、叔父さんも)
 ひょっとしたら、了理が黎生たちの性癖に不快感を抱かないのも、知らず知らず、倫二の影響を受けたせいなのかもしれない。
 だとすればやはり彼は了理にとって父親のような存在だ。
(どうして僕を遠ざけたのか、理由を尋ねないと、すっきりしない……)
 さらに拒絶されてしまうとしても、ちゃんと話しあいたい。
 いつのまにか、不安な気持ちはどこかに消え去っていた。思いきった行動を取ってしまえば、心持ちも後から追いついてくる。
 夜の庭を眺めるのにも飽きた了理はそっと瞼を閉じた。
 街燈の輝きで昼間だと勘違いしているのか、どこかで蝉が鳴いている。犬の鳴き声もする。了理よりも年の若そうな少年たちが自転車で群れて談笑しながら家の前を通りすぎていったりもした。


   ◆ ◆ ◆


 いつのまにか、眠ってしまっていたらしい。
「了理」
 聞き覚えのある声で目が醒めた。微睡みから意識を引っ張られ、薄目を開ける。仄闇のなかに立つ革靴があった。
「こんなところにいたのか……」
 了理は視線を上げる。
 座りこんだ妙な体勢で寝落ちしていたからか、動かした首が痛む。
 黒革のカバンを下げた、半袖のワイシャツにスラックスをあわせた姿。端正な面立ち。随分とひさしぶりに目にする彼の顔は薄暗くてよく見えない。
「義姉さんから連絡があった。了理はそっちにいないかって」
 伸ばされた手に手を重ねると、引き上げてくれた。ふらつきながら了理は立ちあがる。
 首と同様、身体じゅうのあちこちが痛く、骨の音も鳴った。
「……それで、叔父さんはなんと答えたんですか」
 ひさしぶりに彼と口を利くなぁと思う了理のかたわら、倫二は玄関のドアを解錠する。
「もうじき二十歳にもなる男の帰りが、二十時過ぎたくらいで騒ぐなと言ってやったよ」
「ははは」
 もっともだと感じて、笑ってしまう。家のなかに入るとすぐに明かりをつけてくれる。
 長く夜闇に浸っていたせいか、眩しかった。
「ヒステリーを起こされませんでしたか」
 瞼をしばたたかせながら、出されたスリッパを履く。この家で暮らしていたときに了理が履いていたものだったので、嬉しかった。
「あぁ、電話をぶち切られた」
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや……」
 ふたりで廊下を歩き、リビングの入り口で倫二は立ち止まる。
「謝るのは俺のほうだ」
 その場で勢いよく、頭を下げられた。
「すまなかった」
「お、叔父さん……」
 まさか、そんな態度に出られるとは考えてもいなかった。了理は目を見開く。
「頭を上げてください、謝ってもらうために、来たわけじゃないんですから」
「実家に嫌気がさして来たのか?」
 背筋を正した彼は、切なげに眉根を寄せてみせる。
「それも多少はありますが、叔父さんと話したいという理由のほうが大きいです」
「そうか……」
 今度こそリビングに入ると、ソファに座るように勧められた。
 その前に手洗いを借りて、すっきりしてから戻るとローテーブルには冷たい麦茶が用意されている。
(なんだか、お茶をごちそうになることに縁のある日ですね)
 病室で飲んだダージリンも美味しかったが、馴染みのあるグラスに注がれたお茶も美味しい。
 飲み干すとすぐにお代わりを注いでくれる。
 喉を潤した了理は、親戚の家を尋ねてきたというよりも、やっと自分の家に帰ってきたという気持ちになれて、ほっとできた。了理にとっては実家のほうが他人の家に感じられ、落ち着かない。
「実は俺もな、了理と話したいことがあるんだ──」
 倫二はそう切りだしてから、驚くべき一言を告げた。
「了理、最近、真堂家の令息と親しいんだろう?」
「……はい。……どうしてそれを?」
 何故彼が知っているのだろう。不可解さに包まれながら、了理は目の前の男を見つめた。
「噂を耳にしてな。俺もあの一族とは、多少、縁があるんだ」
「縁?」
「おなじ界隈に属すと言うか、な……」
 リビングに響く、彼のため息。
「だから噂話も聞こえてくる。俺の甥が、妖しげなパーティーや邸宅に招待されていたり、令息の気に入りのオモチャを交えて三人でよく出歩いているとか」
(気に入りのオモチャ……)
 きっと崇史のことだろう。
「実はな、了理、ずっとお前には隠していたが、俺が診ているのはこの街の人々だけじゃないんだよ」
 倫二はとても言いづらそうに目線を落とし、告白してくれた。
「特殊な要望を持つ依頼者に応えている。普通の病院ではまず請け負ってもらえないような施術を行う。それが、彼らの望みであり、俺の愉しみでもあるからだ」
 耳を傾ける了理は、まるで崇史のようなことを言うんだなと感じた。なぜ黎生に鞭を打つのかと問いかけた了理に、『黎生が望んでいることだ』と、崇史は言ってのけた──。
『俺は黎生の望みを叶え、そして俺自身も愉しんでいる』
 思いだす、まっすぐに了理を見据えてくる崇史の表情。迷いはなく、その口許は不敵に歪んだ。
 あの夜はまだ、そんな罰当たりな行為をしてもいいのかと戸惑う心も了理にはあった。
 けれど、いまはない。多くの人には理解されずとも、常識を外れていようとも、黎生本人が悦んでいるのならば構わないと思えるようになった。
 了理は狼狽えることなく尋ねる。
「例えば……どのような施術を行うのでしょうか?」
「四肢を切り落として、ご主人さまの枕になりたい──」
 倫二は覚悟を決めたのかもしれない。顔を上げ、了理の目を見て話してくれた。
「骨格の形をいびつに歪ませてしまいたい。身体じゅうを孔だらけにしたい。皮膚上に鱗を貼りつけたい。眼の数を増やしたい」
「なるほど、叔父さんはクリーチャーを生みだしているというわけですか」
 納得して頷く了理に、倫二は苦笑した。
「ドン引きだろう?」
「いいえ」
 了理は首を横に振る。
「少々驚きましたが、僕は、その事実を受け入れることができます」
「本当か……」
 倫二はうわずった声を漏らした。
 よほど驚いてしまったのだろうか、しばらく、彼は無言になる。
 静かな室内、了理はグラスを傾け、麦茶を口にした。叔父のお茶は未だにまったく減っていない。
「……たいしたもんだ」
 やっと漏らされた言葉はそれだった。
「さすがは、真堂家の令息に好まれるだけのことはある」
「真堂家の方々は、異形を愛好する方々の界隈でも有名なのですか」
 答えは「そうだ」と、肯定が返ってきた。
「真堂の一族は何代にも渡り、さまざまに倒錯した性癖を抱えているからね。あの一族は皆、例外なく狂っているんだよ」
 一族の狂気に関しては舞花にも教えてもらった。禁忌など怖れずに近親交配も愉しみ果てた末の末路だと。
「邸宅の薔薇園には死体が埋まってるとか、おどろおどろしい噂もまことしやかに囁かれてるよ」
「ロマンがありますねぇ」
 平静のままで相槌を打つ了理に、倫二は何度目かのため息を零す。
「……俺はな、了理、お前には俺と違ってまっとうな道を歩んで欲しかった」
 それが彼の本音らしい。
「だから、両親が僕を引き取ると言ったとき、すんなりと返したんですか」
「あぁ」
 倫二はやっとグラスを掴み、麦茶を飲む。半分ほどあおって、テーブルに戻す。
「兄貴は堅物だし、義姉さんは口うるさいが、俺のそばよりはいいんじゃないかと思ったんだよ。俺と過ごしていたら、お前にとって良くないんじゃないかとは、ずっと悩んでいたんだ。それこそ了理が三輪車に乗ってたような年頃から」
 はじめて知る彼の想い。そんなことを考えていたとは知らなかった。
「下町の内科医と、裏世界の闇医者。ふたつの世界を奇妙なバランスで歩く、俺の生きかたは、まっとうじゃない」
 独白のように呟く倫二はソファに深くもたれかかり、了理ではなく、ぼんやりと虚空に視線を流す。
「兄貴は経済官僚だっていうのに、何処で道を違えたんだろうかな」
「人生に後悔しているんですか」
「いや。自分の性癖に背くことは出来ないさ。業みたいなものだ」
 そっと倫二は瞼を閉じた。
「業……ですか」
「そうだ、逃れることなんてできない。それこそ、正常な世界では叶えられない変身願望を持ち、俺を訪ねてくる患者たちのように」
 倫二は薄目を開いたかと思うと、右手を開き、眺めてみせる。
「この手で患者の望みを叶え、異形を造る。愉しくて仕方がない行為だよ」
「それなら、良いじゃないですか……」
 複雑な感情に揺れているらしい彼に、了理は自分の意見を告げてみることにした。
「だれにも迷惑をかけていません。叔父さんも満たされ、患者さんたちも満たされている。町医者も、闇医者も、人を救っていることに変わりないんじゃないですか。僕はそう思いますよ」
「……了理……」
 手を下ろした倫二は、ぽかん、とした顔で、了理を見つめてきた。
 しばらく後に苦笑する。髪を掻くのは照れたときの仕草だと、長年彼と暮らした了理は知っている。
「お前に認めてもらえるとは、嬉しいんだが、複雑な気持ちだ」
「叔父さんはやっぱり、俺には、父さんのように真面目な官僚になって欲しいですか」
「官僚とは言わない。だが、ありふれた幸せってものがあるだろう、普通に働いて、好いた女と結婚して、嫁さんや子どもと食卓を囲んで。休日には家族で出かけたりなんかして──」
「正直、そういう生きかたにはあまり惹かれないです」
 きっぱりと思いを明かすと、倫二はまた笑った。その笑みにはもう翳りは感じられない。
「そりゃあ、参ったな」
「地下室で錬金術に没頭するような、禍々しい生活の方が憧れます」
 了理も微笑む。気づけばふたりで笑いあっていた。
「お前には闇の仕事を見せたことはないし、俺なりには、普通に育てたつもりだったんだがな」
「似たんだなぁ」と、しみじみと呟いてから、倫二はグラスの麦茶を飲み干した。
「了理、今日からまた此処に住め」
 願ってもいない一言を与えられる。了理は姿勢を正した。
「医師免許のないお前に、表の仕事を手伝わせるのは難しいが、裏の仕事なら法律も免許もない。まずは助手から勤めてみるか」
「あ……ありがとうございます!」
 思いきりお辞儀をしてから、大きな懸念に気がつき、顔を上げる。
「両親にはなんと言いましょう」
「俺が説得するよ」
 事もなげに言ってくれるので嬉しい。だが、そう簡単に行くのだろうか。
「……僕や叔父さんの要求を飲んでくれるような人たちでは、なさそうですが…」
「大丈夫だ、俺に任せておけ。お前にはつらい思いをさせた。もうなにも気にするな」
 頼りになるなぁと感動したとき、了理の腹の虫が響いた。
 倫二とじっくり話せたので、安心してしまったのかもしれない。
「そういえば、夕食はまだでした」
 気づいて呟くと、倫二は席を立った。
「なにか作ってやる。飯を食ったら、俺の患者(クリーチャー)の写真を見せよう」
「それは楽しみです」
 隣接する台所、さっそく冷蔵庫を開ける姿を眺めつつ、了理もグラスのお茶を飲み干した。
(ひょっとしたら……黎生先輩は……)
 ふと、ある予感を抱いた。
 真堂家の人々は歪んだ性癖に浸っている、それならば黎生は知っていたのかもしれない。
 東條という名の闇医者のことを。
『なんだか東條君とは仲良くなれそう』
 五月にゼミの課外活動で訪れた旧公会堂、本当は医者になりたかったと打ち明けた了理に、黎生はそう言って微笑んだ。
「なるほど、そういうことだったんですね」
 嬉しさに顔をほころばせつつ、手伝うために倫二の隣に立つ。白衣でなく私服に着替えていても、彼の身体からはほのかに、病院の匂いがして、了理を幸せな気持ちにさせる。