Last moment

 目をひらくとカーテンを揺らす光が眩しい。今日を与えられたことに感謝と感動を覚えながら、天井を分ける光と影の輪郭を眺めていた。そのうちに寝起きでぼおっとしていた意識が焦点を結ぶから、俺は最期になるかもしれない一日を始める。

 幸い、体調は悪くなかった。もっとも俺は体調の悪さに慣れてしまっているから、健康な人からすれば最悪この上ないような状態なのかもしれない。それでもベッドから起き上がれたし、少しなら自力で歩けた、だからカレンダーまで歩いて今日の日付に丸をつける。
 七月七日。
 俺の誕生日は七月二十三日で、崇史の誕生日は二十一日だった。
 いつからか、毎年間をとって二十二日にふたりでお祝いする習慣がある。それまで生きられるかな……まだ二週間もあるから、分からない。死期が近づくと人は一瞬だけ元気になるというけれど、ひょっとしたら俺の場合は今日がそうなのかもしれない。
 だったら、出かけないといけないな、となんとなく思った。
 ソファで絵を描いている崇史に声をかける──崇史の髪は俺たちが出逢った頃と同じくらいまで伸びていた。崇史本人に確かめてはいないけれど、たぶん、俺が生きているあいだは切らないことにしたんだと思う。
「ねぇ、散歩にいかない?」
 崇史は鉛筆の手を止めて、俺を向く。案の定、心配げな返事だ。
「大丈夫なのか」
「大丈夫だよ。青空を眺めながら死ぬのも悪くないし」
 本気で俺はそう考えている。天井を見つめて命を終えるよりも魅力的に感じた。普通の人なら、俺のそんな言葉に眉をひそめたり、冗談でも言わないでと止めるかもしれない。
 だけど崇史はやっぱり今日も「そうか」としか言わなかった。
 そんな崇史が俺は大好きだ。
 俺たちは外出の支度をした。俺はシャツにカーディガンを羽織って、崇史は薄手のパーカー。お互いにラフなパンツにスニーカー。
 さすがにたくさん歩くのは辛いから、車椅子に乗せてもらう。崇史は力強いからこんなとき助かる。もちろん、車椅子も後ろから押してくれる。
 東京からついてきてくれた使用人と崇史のお祖父さんに見送られながら、俺たちは門扉の外に出る。外気は爽やかで、七月だなんて信じられない。日本でいうと初夏くらいの気温だ。
 崇史の母親の故郷であるスウェーデン、俺は此処で死ぬことにした。幸い、この国は終末期医療も整っている。
 大学には休学届を出したけど、きっと戻ることはないだろう。
 スウェーデンで死ぬと決めたのは、崇史のルーツに触れたかったから。夏でも柔らかな陽射し、空に伸びる幾つもの尖塔、幾つもの島から成り立つ「水の都」と呼ばれる首都ストックホルム、その島々を繋ぐ橋と、お伽話の世界のようなガムラスタンの街並み。
 国土の半分以上を覆う深い森は、特定の誰かの土地ではなく、皆のものと憲法で定められている。これは「自然享受権」といい、人々は誰でも平等にピクニックに出かけたり、ベリーやキノコを採る。みんなで自然の恵みを分けあうのが、北欧の人々のスタイルらしい。日本人の俺にとっては、風景も文化も興味深いものばかりだ。
 石畳を上っていくと民家は途切れて丘の上に出る。草原を走る風。その風は崇史の髪も巻き上げて揺らす──草原の彼方に小さな教会があった。散歩の折に見かけても、そういえば中に入ったことはない。
 俺は指をさして「あそこまで行こうよ」と笑った。
 舗装された道はなくとも、ミサに通う人々のおかげなのか、踏み慣らされた一筋の道が出来ていて向かいやすい。スムーズに教会に到着すると、扉は開いていたけど、誰の姿もない。
 勝手に立ち入っていいのか……俺は迷っていたのに、崇史が無言で当然のように建物内に入っていってしまう。
 相変わらずな崇史に、俺はくすっと吹きだした。
 内部は、ごてごてとした装飾のない、シンプルな空間で「静謐」という言葉がよく似合った。
 高いアーチを描く天井を見上げたあと、俺は車椅子を降りる。
 誰もいないのをいいことに祭壇に近づく。崇史は空の車椅子を引いて俺の後に続いた。
 これは神様がくれた、崇史とちゃんと話をする機会なのかもしれない……柄にもなくそう思う。祭壇のそばで、視線を動かしてあたりを観察している崇史に話しかけた。
「ねぇ、崇史、俺の話を聞いてくれる?」
 崇史の視線が俺を向く。
「……子どもの頃ね、ずっと悩んでいたんだよ。どうして俺は生まれてきたのかなって……」
 脳裏に蘇る、あの頃毎晩夢のなかで俺を追いつめた死神。
「ただ苦しむために、皆に迷惑をかけるために、悪口を言われるために生まれてきたのかなって……思ったりね……こんなに脆弱な身体じゃ家業を継ぐこともできないし……」
 死神の悪夢は、崇史と一緒に眠るようになってから少しずつ頻度を減らして、いつのまにか全く見なくなった。
「だけどね、いつだったかな、分かったんだ。俺はね……」
 自然に微笑みがこぼれる。あたたかな確信に満ち溢れている。
「俺は、崇史を愛するために生まれてきたんだよ」
 歴代の当主のように事業で結果は成せなかった。学校生活も満足に参加できたとはいえない。だけどひとつだけでも生まれてきた理由を感じられるのなら、それで十分だ。
 崇史も微笑う、優しい光のなかで。
「そうか」
「そうだよ」
 俺は笑ったままで頷き、さらなる告白を伝えることにする。きっと今日は残り少ない俺の日々のなかで、それを伝えるのに最良の日だ。
「……それでね……実はね……崇史に内緒でお城を買ったんだ──」
「……な……」
 崇史の綺麗な二重の切れ長の目が、少しだけ見開かれる。
「なにを言っているのだ……」
 めずらしく狼狽えた感情を滲ませる崇史に、俺は言葉を続ける。
「森の奥深くにある湖のそばの古城だよ……ちょっと高かったけど、買っちゃった」
「黎生!」
 崇史は俺のそばに寄って、俺の肩を掴む。その力はちょっと強くて、弱った俺には痛い。だけど崇史の真剣な顔を見つめていると、離れてと訴えることもできなかった。
「あれは物の弾みと言うものだ。冗談に過ぎん、確かに、そういった場所は俺の好みだが、お前にそんなことをさせるつもりは──」
 崇史の虹彩に映っている俺を見ながら、俺は最期の願いを告げる。
「俺が死んだら、そこに埋葬してほしい」
「……黎生……!」
 崇史の手から力が抜けた。その顔は呆気に取られているようでもあったし、錯覚でなければいまにも泣きだしそうな表情にも見えた。
「崇史も死んだら……来てほしいな。どれほど未来になっても構わないよ、いつまでも待っているから……それから、舞花も誘っていいかな? 可愛い妹をひとりきりには出来ない。だから、将来は三人でお城で眠っていよう?」
「……黎生……!!」
 崇史は崩れ落ちる。俺の靴にキスをさせられるときみたいに。うつむき長い髪に綺麗な顔は隠れた。崇史は自分の肩を抱き、がたがたと震えだし、そんな崇史を目にするのは生まれて初めてだった。
 声を上げて泣きだす崇史を、俺は静かに見下ろす。
 生まれて初めて激しく感情を発露する崇史をこうして眺める俺に湧く想いは、驚きや哀しみよりもなぜか嬉しさのほうが大きかったし、もう崇史は人形じゃなくて人間になったのだと、感慨深かった。
 俺もその場に頽れる。立っているのがそろそろ辛くなってきた。
 眼を真っ赤にして泣きじゃくる崇史の頭を、ぽんぽんと撫でてあげる、小さな子をあやすみたいに。
「ねぇ、強力な呪いをあげるから、そんな顔をしないで」
 崇史の首に両手をかけた。
「これは透明な首輪、誰にも見えないし、触れられない、存在を知覚することもできなければ、お金で買えるものでもなくて、だからこそ朽ちることも失われることもない、実に素敵な首輪だよ」
 ぐすっと鼻を啜って、食い入るように俺を見つめる崇史の首から手を離した。それから俺は鎖を手繰る仕草をする。物理法則を越えた鎖はずっと俺の手のなかにある。
「ふふっ、もう、逃れられない……」
 崇史は雑に瞼を擦った。
「逃れるつもりなどない……」
「俺もだよ……誕生日プレゼントで貰ったときに、ずっと大事にするって決めたんだ」
「大事にされた」
「なに、それ……あははは……」
 透明な鎖を握る手の甲に、忠誠のキスを受けた。俺の手を握ったままで崇史は告げる。
「俺はお前のすべてを忘れない、俺が死ぬまで、お前は俺の心のなかで生きている」
「ありがとう」
「それは……俺が言うべきなのだ」
 やっと崇史は微笑ってくれた。
 俺を抱き上げて、車椅子に乗せる。そろそろ帰ろうと俺は言った。
 立って話して疲れたから、少し、お昼寝をしたい。
 草原を戻る帰り道、俺はなんとなく友人を思いだす。
「了理君、元気かな」
 すっかり平静に戻った口調で、崇史は呟いた。
「舞花に連れて来させればいい」
「あはは、強制連行なの?」
 来週にはまた舞花も来る。ずっと付き添ってくれていたけど、大事なピアノの演奏会まで欠席して欲しくなかったから、まだ生きるから大丈夫だよと言い聞かせて日本に戻した。舞花にはそう言ったものの、ひょっとしたら、俺には来週も、明日すらも──七月八日も来ないかもしれない。
 だから、俺は後悔しないように今日も伝える。
「……愛してるよ、崇史……」
 崇史の返事は聞かなくても分かる。
 俺の予想通りの言葉を伝えてくれた。
「あぁ、俺も愛している……」
 やっぱりそう言ってくれたから、きっと俺は最期の瞬間まで幸せなのだろう。澄みきった青空を見上げる。
 どこかから鐘の音もする……



皇帝円舞曲 END