night fragrant flower

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 温泉街は夜も活気がある。大通りを離れても、路地裏には外灯や提灯がつらなり、小さな立ち飲み屋や小料理屋、スナックなどがひしめく。

 男は社員旅行で訪れている宿を離れひとり散策していた。浴衣姿に半纏で歩いていても、この街ならばおかしな目では見られない。似たような姿で飲んでいる者もいるし、桶を片手に湯屋帰りの者も目についた。

 そろそろ戻ろうかと思ったときだ。灯りの下に立っている女がちらほらと見られるようになった。佇んでいるだけでなく、民家の引き戸が開け放たれていて、中に何人かで座っていたりもする。
 客引きらしい、前掛けをした老婆に「寄っていかないかい」と話しかけられたり、目が合った女に手招きされたりもした。

 此処は──観光のガイドブックには載らない区域か。なるほど、と頷きながらも歩をすすめてゆく。立っている人間の中には女装の男も混ざっているとわかり、いかがわしさに興味がそそられた。

 そして見つけたのは、青白い灯の下の少年。ゆったりとしたシャツとパンツ姿で、中国靴のようなサンダルを履いていた。日本情緒ある裏路地に、三脚の椅子を置いて腰掛けている。

 少年は煙草を吸っていて──明らかに吸える歳には見えないのに──ふかす様がまた違法性を漂わせ、男を惹きつける。視線が交わると、少年は目を細めて微笑の顔をつくった。怪我をしているのか、なぜかガーゼの眼帯をしている。

「こんばんは」

 話しかけてきた声は、意外にも変声期を終えたものだ。年頃の見当もつかず、正体も掴めず、戸惑いながらも惹かれ、男は近寄ってみる。

「……きみも商売をしているのか?」

 尋ねてみれば、少年は「はい」と答える。少年の足元にあるアルミのタライには氷水が張られ、幾つかのラムネの瓶が冷やされていた。

「ひとつ百五十円です」

 灰皿に吸い殻を潰し、少年は言う。頭上ではチリンチリンと風鈴が鳴り、音は細路地の闇に吸い込まれてゆく。

「……ラムネ屋さんか」
「お疲れのようなら、マッサージもいたします。こちらは、十五分二千円になります」

 そう言われ、男の視線は少年の手へと注がれた。声とは違い、その指は体つきと同じくまだ大人になりきっていない子供の手だった。

 物珍しさもあり、男はラムネの瓶を買い、二千円も支払う。ありがとうございます、とお辞儀をする少年に案内され、界隈のさらに奥、古めかしい長屋の連なる一角へと連れられる。

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 瞼をこすりながら、セイは階段を降りる。三ヶ月前から住んでいるこの長屋は古く木造で、床を踏むたびにギシギシと鳴り、耳ざわりで怖い。だからはやく次の街に行きたいとセイは思っていた。

 土間に降りると、通りに面する六畳間を覗き込む。人影はなかったが、仕事がなされた形跡はある。長座布団が広げられていて、オイルの入ったガラス瓶も出されていた。やわらかな光を揺らす丸形の間接灯もつけられており、夜の闇を薄めている。

 部屋にいないということは路地に出ているのかなぁとセイが思った時だった。

「起きたか」

 楓が帰ってきた。玄関の引き戸を開けた楓は、ラムネの瓶をひとつ持っている。

「うー、おとうさん……」
「また変な時間に昼寝して。夜、寝られなくなるぞ」
「あのね、おれね、つぎのまちにひっこしたい」

 楓は注意するような口調だが、セイは気にしない。戦隊ものの絵柄がプリントされた水色のスリッパを履き、楓にまとわりつく。

「どうしてだ? なかなか、いいところじゃないか。毎日、温泉に入れるのもいいし」

 楓はセイの訴えに対し、意外そうな顔をする。土間と繋がっている台所へと歩きながら。

「かいだんぎしぎしするよ。二かいのおへやもぎしぎしいうよ。おれ、ぎしぎし、やだ」
「そんなに嫌なのか……」
「うん、こわいもん」

 台所の灯をつけた楓は「じゃあ早いうちに引っ越そう」と答え、栓抜きで開けたラムネをセイに手渡してくれた。ラムネをにぎりしめたセイが階段に腰掛け、足をブラブラさせていると、なぜかくしゃみが出る。楓は棚からティッシュを取り、セイに鼻をかませた。

「寝冷えしたな?」
「ねびえ?」
「ちゃんと布団かぶって寝たのか」
「わかんない。あっ、あのね、ゆめでおおきい魚においかけられて、ひっしでにげたから、おふとんほうりだしたのかもー」

 セイの言葉に楓は苦笑する。そうして、土間に掛けられた古時計を見ると、セイに問いかけてくれる。

「よし、いっしょにお母さんを迎えにいくか」

 とたんにセイの顔はぱあっと輝いた。早く行きたいので急いで飲もうと思うけれど、子供には量が多くてなかなか飲めない。無理しなくていい、と楓に言われたのであきらめ、残りは楓に飲んでもらった。

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 楓に手を引かれ、セイは路地を歩く。夜更かしをしたときはこうして楓と一緒に美砂子を迎えに行くこともある。セイにとっては楽しく、うれしい時間だ。

 途中、楓は前掛けをした老婆のところに寄った。いつもたばこ屋の前にいる彼女は、この区域の『元締め』らしい。その言葉の意味するものがわからないセイは、楓の腰にしがみつきながら、老婆の様子を窺う。今日の売上げから何枚かの紙幣を抜いて渡す楓に「あんたみたいな子供のどこがいいのかあたしにはサッパリわからないけどね」と感心したように言っていた。

「今日も儲かってるね、あんたは。いったいどんな手管使ってんだい。今度うちの娘たちに教えてやってよ」
「手管もなにも……俺はただのラムネ屋さんだぞ」
「ま! よく言うよ、この子ったら!」

 笑う楓はついでといった風に、キャスターマイルドを二箱買う。老婆は店のなかに戻って、磨りガラスの窓越しに手渡してくれた。その皴だらけの手は、セイにはいちごみるくの飴玉をくれる。

「わぁー、あめだー!」
「お礼を言わなきゃな、セイ」
「……ありがとうおばあちゃん!」

 楓に言われておじぎをすると、老婆は嬉しそうに手を振ってくれた。ばいばい、と手を振りかえすセイを連れて、楓は路地を歩きだす。

 薄暗くて細い道を抜けると、飲み屋が軒を連ねるいくらかは健全な大通りに出る。美砂子と待ち合わせをしているのは場末の中華料理屋で、電気が点いていなかったら営業しているのかいないのかがわからない風体の店だった。

 けれども味は確かなので、常連も多い。『金扇』と屋号の書かれた扉を開けると、油のぎとついたキッチンを囲むいくつかのカウンター席と、テーブル席三つのみの狭い店内がある。瓶ビールを傍らに新聞を読む中年男や、煙草をふかして雑談する、あきらかに水商売勤めの女性たちがいる。

 美砂子はカウンター席の一番奥に座っている。セイと楓の姿を見ると、携帯電話をバッグにしまった。

「おかあさんー」

 セイは駆け出し、美砂子のそばに行く。仕事上がりの美砂子は香水の匂いがするけれど、その匂いはきらいじゃない。美砂子はセイの髪をさらさらと撫でてから、換気扇のそばに座らせる。

「あのねこれおばあさんにもらったの、あめ」
「よかったね、セイ。お礼は言った?」
「いったぁ。おいしーい」

 口の中で甘いかたまりを転がすセイだったが、広げられているメニューにさっそく目を奪われる。もう、意識はいちご味から中華料理へと移ってしまう。

「お疲れ、ミサ」
「かえでくんもお疲れ。あっ、いいの? ありがとう!」

 楓は美砂子の隣に腰かけると、買った煙草のひとつを渡した。美砂子はそれも大事そうにカバンのなかにしまう。セイはというと、なにを食べるか本気で悩みはじめている。でもたぶんひとりでは全部食べられないから、美砂子と分けるのがいちばんいい。

「ね、おかあさんはなんにするの?」
「いっしょに食べよっか。セイはなにたべたい?」
「えっとね、まようー……」
「ゆっくり決めればいいぞ」

 見守るように言った楓は、紹興酒を頼んでいた。ウーロン茶と割る飲み方は、この店で楓がよく飲んでいるものだ。

 散々迷ったあげく、結局、セイが決めたのはふつうのラーメン。美砂子は春巻きも注文して、セイはそれも分けてもらった。楓は食べられるものがあまりないので、トマトサラダをつまんだりしている。

 最後は三人で杏仁豆腐を食べ、おなかいっぱいになったセイは眠気に誘われる。うとうととしだすと、夢の中では先程の魚が待っていて、今度は優しく話しかけてくれた。

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 温泉街の夜はふけてゆく。ひとつ、またひとつ明かりが消え、飲み屋の連なる区域もずいぶんと静かになる。シャッターの閉まった商店街を歩く美砂子と楓だが、楓はすうすうと寝息をたてるセイをおんぶしていた。

「交代しよっか?」
「いや、大丈夫だ」

 美砂子の申し出を断り、楓はずりさがってきたセイをきちんと背負いなおす。そんな風に動かしても、眠りの中にいるセイは目覚めない。

「セイ、お引っ越ししたがってるんだね。たしかにあのおうちは古いかなあ?」

 楓から話をきいたミサは、巻いた髪をいじりながらため息をついた。

「じゃあ、また旅に出よっか」
「いいのか?」
「いいよ。いまのお店はとってもいいかんじだけど……仲よくなった人たちにもきっとまたあえるし、この街も来たくなったらまた来ればいいもの!」
「……そうだな」

 微笑む美砂子に、楓も唇をゆるめる。あの日二人で飛び出してから、ずっと旅をして暮らしている。ひとつの場所に落ちつくことなく。

 もうセイも四歳だ。この先のことを考えると、何処かに居を構えるべきなのに、一ヶ所にとどまれずにいる。

 それは、立ち止まれば遊廓の追っ手に捕らえられてしまうかもしれない、という懸念もある。逃げた娼妓を放っておくはずがない、あの四季彩が。

 未来を考えれば不安ばかり。でも、美砂子の優しさや、セイの明るさがあればきっとなにがあっても乗り越えていけるのだろうと、楓は思う。

「ありがとう、ミサ」
「えっ、なあに、かえでくん……?」
「可愛いな」

 ほろ酔いも手伝ってそう漏らすと、美砂子はその場で飛び跳ねた。そして嬉しそうに、パステルピンクのパンプスでくるくると回る。

「あ、すてきな香りの花だよ」

 よく通るこの坂には五角形の花をつける夜香花が自生していて、美砂子は花びらをいじってから、鼻歌混じりにまた歩き出した。

 香りのなかで楓は──遊廓で美砂子と眺めたのと同じスピカとアークトゥルスを見つけ、嬉しくなる。楓のすこし前方で、とても子供を産んだとは信じられない、細くて白い少女の身体は妙なステップを踏んだりしていた。そんな動作も楓には、可愛らしく映る。

E N D