半夏生

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 色褪せはじめた紫陽花。
 梅雨明け近づく日、春江は洗濯物をひなたへ干した。濡れそぼる長雨でずっと屋内干しだったけれど、やっぱり、外に干すと気分がいい。乾きも早いし、取りこんだときふわりと陽光の香りがするのも、いい。

(お天気もいいことだし。だんなさまもお出かけなさったし、私もお買いものに……)

 物干し台での作業を終えると、春江は居間を覗いた。ひょっとして、と思って……しかし、健次のために用意した朝食はそのまま残っている。蝿帳(はえちょう)がされたまま。まだ健次が起きて来ていないことを示す。

 無理もない。昨夜も壮一の客人に、遅くまで嬲られていたのだ。春江はため息をひとつ零し、台所に戻る。学校に行くようになんて言えるはずもなく、それどころか、部屋に起こしにいくことすら遠慮する。自然に階段を下りてくるまでは黙って待っていたほうがいい、というのが、長年、健次の世話をして身につけた対処の仕方だった。

 とはいえ、心配な気持ちから、いてもたってもいられなくなって声をかけてしまうときも多くて……その度に怒鳴られたり、手をあげられる。分かっているのだけれどつい駆け寄ってしまう、愚かな自分が、いつも恥ずかしい。

 時間をかけて健次なりに心を整理し、落ちつきを取りもどしてくれるのだが……懸命に落ちつこうとしているさまもまた、春江にはけなげに映った。乱雑に扱ったことを謝られれば、声をかけた私が悪いのにと申し訳なくなるばかり。

(私はほんとうにだめな女……、今日は、今日こそは、そうっとしておかなければ……)

 春江は割烹着を脱ぎ、外出の支度をする。白銅色の着物に、塩瀬の帯を締め、翡翠のかんざしをつけて──ハンドバッグを手にしたとき、足音を聞いた。健次のものだとすぐにわかり、はじかれるように廊下へとでる。

「おはようございます、健次さま」

 十時をまわっていたが、春江はそう挨拶した。
 健次は高校の制服に着替えていた。開襟シャツに、紺色のスクールバッグを肩にかけて歩いてくる。だるそうな様子で。当然ながら機嫌良くは見えない。

「ご飯、食べていかれますか? ご用意はしてあるのですけど……」
「いや、いらねぇ……」

 健次はそっけなく顔をそむけた。元気ではないけれど、苛立ってはいなさそうだ。ほんのすこし、春江はほっとした。

「……お前はどこか行くのか?」

 健次は春江の外出着に気づいたのか、足をとめ、振り返る。その瞳に頷く春江。

「はい。お夕飯のお買い物に」
「俺も春江と行くか…………」
「! えッ、健次さま──」

 春江は驚いた。まさか今日、そんなことになるとは考えてもみなかったから……表情に滲ませてしまった様子がおかしかったのか、健次は微かに笑う。疲れを滲ませた顔つきではあったが。

「嫌ならいい」
「そんな。嫌なわけがありません。でも、でも、学校にいかれたほうがいいとも思うのに……私は家政婦失格です……」

 両頬を押さえ、春江は困ってしまう。保護者のような立場としては、いけないとわかっているのに。女としてはいっしょに出かけたい、という気持ちを抑えられない。

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 横座りで、健次の自転車の後ろに乗った。まだ昼間なのに、近所をこんなふうに走るのも本当は良くない。住民の目に止まれば、ひそひそと噂にもなってしまうだろう。健次も春江も、この辺りではただでさえ好奇の目で見られている。

 けれど春江はもう、気にすることに疲れていた。疲れきっているから、逆にずうずうしく、堂々と振舞える。なにを言われても、思われても、構わない……。

 健次の背にもたれて、陽射しのなかで瞼を閉じた。こんなにも頼りがいのある広い背中。ずっと触れていたい。

(でも……私には、本当は、そんな権利なんてない……)

 壮一の子を産み、それを隠している、罪深い女。健次のそばにいられるだけで嬉しく、そして申し訳ない。
 健次に好きな女性が出来ても、春江はひきとめないだろう。健次がこの街を、相沢の家を出て行ってもいい。むしろ、本当はそうなることがいちばんいいとさえ思う。

「ハラ減ったな」

 うつむいていると、健次が喋った。春江は顔をあげる。

「健次さま、さきほどは食べないとおっしゃられたのに」
「漕いでたら減ったんだ」

 ぶっきらぼうな言いように、春江は過ぎ去る町並みを眺めながら微笑った。

「私は、重いですか?」
「……俺は平気だけどな」
「答えになってません」

 健次の背中をかるく小突く。健次はそれを避けるように、立ち漕ぎしだした。ガタン、と揺れて春江はすこし怖い。

「重いッつったら痩せるのか?」
「そのほうが、健次さまのお好みなのでしたら……」
「俺はガリガリの女なんて、嫌いだ」
「じゃあ、痩せなくてもいいんですね、私」

 良かった、と呟く春江に、健次は笑う。健次は凄惨な育ちをしている割には感情があった。決して豊かではないかも知れないが、笑ったり、拗ねたり、悲しそうにもしてみせる。

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 普段、春江は近所の商店街におもむくことが多いが、今日は健次が連れていってくれるというので、すこしばかり遠出をした。街中の市場だ。

 体裁は商店街と変わらない。タイルの細路地に、アーケードがかかっている。だが所狭しと並んでいる野菜や魚、惣菜などは豊富で、質もいい。地元民に親しまれ、最近では観光客も多く、修学旅行先にも選ばれるらしい。今日も人々で賑わい、活気づいている。

「どうする。何を買うんだ」

 自転車を停めて歩きつつ、健次は尋ねてきた。白色の開襟シャツに、スクールバッグを掛けた姿は当たり前だけれど学生そのもので、あたりではしゃいでいる、修学旅行生と変わらない。

 そんな健次と日中外出していることに、いまさらながら春江は嬉しくなった。制服の健次と行動することは、母親代わりに出席する三者面談の帰りなど、学校絡みのときばかり。

 たまにはさぼってもらって、街に出かけるのもいい……と思いかけて、いけない、と言いきかす。ただでさえ遅刻や早退が多いので、家政婦がそれを助長するような真似をしてはいけない。

「オイ……聞いてんのか、てめー」
「きゃっ、聞いています……!」

 健次に手首をつかまれた。そのまま握られて引っぱってゆかれる。春江とぶつかりそうなすぐ横を、外国からのツアー客がぞろぞろ通りすぎていった。
 
「ボーッとしてんな。危ねぇだろ……」
「そんな、健次さまに心配していただかなくても……」

 大丈夫です、といいかけた春江だったが、手を握られていることが嬉しくて、口ごもってしまう。さりげなく絡められる指、大きな手の温もり、感触は決して知らないものじゃない。けれど、いまでも、いつでも、触れられるたびに惚ける。

 魚屋では通常の鮮魚だけでなく、魚の串焼きが並んでおり、食べ歩きをする観光客が買っていく。健次は春江から手をほどき、カバンから財布をだした。去年の誕生日に春江がプレゼントした、シンプルな黒の長財布だ。

「健次さま、払います」
「俺が食うから俺が払う」
「でも……、家計から出しますよ」

 そんなふうに話しているあいだに、二、三人いた前の客が去り健次の番になった。健次は鱧(ハモ)を炙った串をかじりつつ、夕食の魚を選ぶ春江を眺めている。

 野菜と漬物、生麩、壮一の晩酌用にと珍味を買って、春江の用事は終わりだ。

「もういいのか?」
「はい。すみません、付きあわせてしまって」
「食ってただけだろ、俺は」

 健次は自転車まで買い物袋を持ってくれた。つきあってもらったときは、いつもそうしてくれる。春江は申し訳なくも、ありがたかった。

「免許とったら、もっと遠くにも連れてってやる……」

 帰り道での健次の呟き。春江は薄笑む。もうすぐ盆地の暑い夏がくる、炎天の前の束の間の余韻、熟れそうな紫陽花。願うことを相変わらずに罪深く感じつつも、こんな時間がずっと続けばいいと願わずにはいられない、春江なのだった。

E N D