彼岸花

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 授業を終えて、美奈子は帰宅した。ランドセルに下げたいくつものキーホルダーが揺れてガシャガシャと鳴り、鈴の音もする。

「おかえりなさい、美奈ちゃん……」
「あ……ただいま」

 居間の座椅子に座っている母は夕陽を浴びながら、美奈子に微笑みかけてくれた。美奈子もおじぎを返して、自室へと向かう。何処にでもある家庭のよくある風景だ。

 実際、美奈子は何の不自由もなく年頃の少女らしく暮らしている。二階にある自分の部屋に入ったら、昨日買った少女漫画のコミックスを読んで、それから在籍する手芸クラブの宿題の編みぐるみを作る気でいた。

 まったくもってふつうの少女の生活だ。

 そんな美奈子の日常に影を差すのは、唯一……弟の健次と家政婦の春江にまつわる事象だけ。

(なんだか……うるさいなぁ……)

 縁側を歩いていると家中が騒がしいことに気がついた。幾人かの大人が話す声、歩く物音。父が客人を招いて酒宴を催すのはしょっちゅうだったので、またどうせそんな集まりだろうと思う。平日なのに、気楽な身分だ。

(わたしには、かんけいないことだもの……)

 半ば自分に言い聞かせるよう、美砂子は胸中で呟き、頷いてみせる。階段の一段目に足を掛けるとき──

 ね え ち ゃ ん 、 た す け て
 
 声がした。

 心底、振りむかなければよかったと美奈子は次の瞬間感じるのだった。無残に衣服を脱がされかけた姿で廊下に立つ弟を認識してしまったから。

「…………た、すけ、て……ッ……」

 幼い弟の表情は苦痛に歪められていた。涙を滲ませ美奈子に手を伸ばしてくる。
 彼の身体に刻まれている傷は酷い。今日もすでに殴られたのか顔は腫れてしまっていた。

「お、ねが……ぃ……ねえちゃ……」

 美奈子はまばたきも忘れて彼を注視した。
 重なりあう視線。

(いや……っ…………!)

 見開かれる、美奈子の目。
 
 怖い。

 怖かった。

 もしも助けたりしたら。

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(せっかく、いままで、なにもなくすごしてこれたのに……)

 凄惨な虐待を弟に向ける父親は、女の子の美奈子には優しい。むしろ、甘やかされているくらいだ。

 だけど弟の味方をしたら、どう転ぶのだろう。
 これまでとは違う日々になるかも知れない。恐怖は瞬時に美奈子を駆けめぐった。

 同じ屋根の下で暮らしているのだ。弟がどれほど残虐な目に遭わされているか、知っている。

 断末魔の絶叫といってもいいつんざく悲鳴を聞いたことは一度や二度ではなく、その度に耳をふさいで過ごす。

 実際に目にしたこともある。性器をあらわに歩かされ、尻を竹刀で叩かれて、縄で縛されて、庭の桜に吊るされて、日陰の一室で覆いかぶさられて──健次の嫌がり方がいちだんと酷いそれが、何をされているか美奈子は知っている。

「い、いやッ……!!」

 美奈子はありったけの力で健次を突き飛ばした。

 見て見ぬふりをすることは数多くても、直接的に拒絶したのは、はじめてだった。

 廊下の板張りに尻もちをつく弟の姿がスローモーションに見える。涙の雫を跳ねさせながらも、なにがおきたのか理解できていない、ぽかん、とした弟の顔が美奈子の瞳に焼きついた。

「おぉ、いたぞ。健次だ!」

 時を同じくしてドタドタと父の友人たちが駆けつけてくる。
 美奈子は前を向き階段をのぼった。心臓は早鐘を打ち、踏みしめる足は震えを覚える。振り返ってはいけないと痛いほどに思う。見てしまったら、きっと立ち止まってしまうから。

「コイツ、逃げだしやがって」
「いうこと聞けない子はお仕置きだ」
「おじさんたちと遊ぶのが嫌か、おう、健坊……」
「もう逃さんぞ、さぁ続きだ」

 暴力を振るう音がはじまった。容赦のない鈍い音が。反響する、男たちの笑い声。イヤだ、イヤだ、と弟の切羽詰まった悲鳴も混ざって聞こえた。

 美奈子は子供部屋のドアを閉める。背中でもたれ、ズルズルすべり落ちて座りこむ。

 ゆっくりと見てみる自分の手は、震えていた。

 助けを求める弟を振り払った手だ。

「……ご…………」

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 抱えた膝に顔を埋めて何度も、何度も、呟く。
 止まらない震え。滲む涙。罪悪感に押しつぶされそうになる。でも怖い、自分まであんな目に遭いたくない!
 それは……当然で必然の思いだ。
 助ける勇気など、ない。なけなしの勇気でできることは、自分の身を守ること。すなわち、ひたすらに見て見ぬふりをすること。

 美奈子は濡れた顔を上げる。どうしていいのかわからない。恐怖と善悪とが少女の心で揺れ、傍観者ゆえの苦しみに覆われていった。

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「相沢サンの弟ってなんかー、おかしくなぁい?」

 髪を脱色した不良女子に問いかけられたとき、ドキッとした。美奈子はセーラー服のスカーフに手を当てる。

 周りの空気も一瞬にしてはりつめた。休み時間でざわついていた教室が静まりかえる。それは触れてはいけないことで、禁句だ。生徒たちはおろか、教師までも口にしない。

「な、なにが?」

 うわずった声で美奈子は訊き返した。たまにしか学校に来ない彼女も驚いたようで、辺りを見回す。

「え、だっていつもケガしてるしぃ、なんかまわりの態度とかヘンじゃねって……てかなに、なにこの空気ぃ……」

 尋ねた女子のほうが戸惑い、バツが悪そうにする。美奈子は乾いた笑いをとりあえず零して、席を立った。
 自分のものよりひと回り大きな弁当包みを持って教室を出る。健次が弁当を忘れていったので、渡すよう、家政婦の春江に頼まれたのだ。

 これくらいの世話なら、美奈子はする。罪滅ぼしにもならないけれど。

(そうよ……私の家は、おかしいの)

 分かりきっている。まわりの人々に、腫れものに触るような態度は美奈子にもなされる。この地域で相沢という家は特殊すぎた。

(はやく家を出たいなぁ…………)

 来年は高校生だ。本当なら寮のある女子校に入学したかったけれど、父親に反対された。大学に入る年齢になったら親元を離れることを許してもらえるだろうか。年頃になった美奈子はひとり暮らしすることばかり考えてしまう。

 一年のクラスへと降りる途中の階段で、弁当包みから何かが落ちた。生徒たちとすれ違いながら美奈子は拾う。
 メモ紙を折りたたんだものだ。

(手紙?)

 見る気はなかったけれど……つい、開いてしまうと、やわらかな筆跡は春江の字。母親が病んでいるせいで、学校に渡す書類などはいつも春江の代筆だから、美奈子も見慣れた字だ。

 弁当箱を美奈子に預けた旨と、健次の体調への気遣いが記してあった。

(……いけない、急がないと)

 盗み見は良くない。それにチャイムが鳴ってしまう。美奈子はメモ紙を元に戻す。

 健次の教室に行くと、入り口ではしゃいでいた女子生徒たちに、健次を呼んでくれないかと声をかけてみる。
 少女たちは顔を見合わせてすこし困ったようにしてから、それでも呼びにいってくれた。

 健次は誰と会話することもなく机に突っ伏して寝ている。ご丁寧に枕代わりのタオルまで敷いて。

 立ち上がる健次に対し、教室の空気がはりつめる。健次には、美奈子以上に腫れ物にさわるような態度がなされているのだろう。

「健次、お弁当……」
「…………」

 差しだした弁当箱は引ったくられる。会話を交わすことも、視線も交わらずに。
 乱雑な動作だ。健次は無言で席に戻り、生徒達は遠巻きにそんな健次を眺めていた。
 美奈子は肩を落とし、踵を返す。
 態度を咎める権利など、自分には無い。咎められる理由はありはしても。

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 健次とはずっと話していない──手を振り払ったあの日から。ただ同じ家に住んでいるだけだ。

 ある休日、通りかかった部屋で物音がする。美奈子は覗いてしまった。廊下に面して襖がすこしだけ開いているから……目にしてから、見なければいいと感じるのはいつものこと。

 薄闇から聞こえる息遣い。ユサユサと、揺れている。時折蠢くようにもうねる。

 寝そべる男の股ぐらに健次は座りこまされていた。明らかに貫通していて、健次の腰にごつい手が添えられている。そうされながらも、また別の男の手に健次の顔は包まれ、接吻もされている。

 美奈子の経験したことのない、大人の口づけ。舌をからめて唾液を混ぜる、淫靡なもの。
 それがいま……間近でされている。
 弟と、初老の男によって。

 美奈子は目をそらせなくなった。健次の性器が勃起していることが、仄闇でもわかる。男に握りこまれ、扱かれ、グチュ、グチュ……と、音がする。

「感じとんのか。健次。ん……? こんなにチンポおっ起てて。だんだんおまえも大人の身体になってきて、愉しめるだろ」

 接吻を堪能した男は擦りながら、健次に密着し、耳元で囁く。表情にかすかな苦悶を表す健次の唇に指も這わす。

「おまえは一生ワシらの玩具だ。性玩具なんだ……気張って奉仕せえよ」
「精通して、春江チャンに筆下ろししてもらってから感度高くなったんじゃないか? スケベなガキに仕上がってきたなぁ、のう、健坊……」
「やらしいチンポには全剃りが、よう似あっとるわ」

 クスクス、ケタケタ、染み渡る笑い声。確かに健次のそこは無毛のようだ。中学生だからとっくに生えていてもおかしくないだろうに。
 
「…………」

 健次は何も言い返さない。布団に手をついて尻を持ち上げ、また下ろす。その動作の度に覗く、健次の尻穴に挿入されている、ぬめる肉棒。亀頭のみを咥えこむよう抜けそうなくらいまで腰を引いたり、くねらせて震わせたりもした。それらの動作のたびにさざめき立つシーツと浴衣の擦れる音と、卑猥な水音。美奈子の知らない性の世界が、襖の向こう側にあった。

 ある瞬間に怖気づいて、美奈子は後ずさる。
 そして足音をたてないように逃げる。
 いつも美奈子は逃げることしかできない。どの日も……どの時も……

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 冬の寒い日、窓から見下ろす雪化粧の庭にはそぐわない、裸身の肌色。全裸の健次がうさぎ跳びを強いられていて、父親の壮一が竹刀を手に監督している。幼い健次が転んでしまったりと粗相をすると、その竹刀は容赦なく振り下ろされた。

 パシィィイン、という音と同時に、声変わり前の悲鳴が響く。壮一の叱咤も。

 異常な光景だ。虐待、だ。けれど美奈子は見慣れてしまっていて、悲しさと罪悪感を抑えるのにも慣れてしまい、すぐに目をそむけてカーテンを閉めた。そして何事もなかったかのように宿題を解きつづける幼い日。
 
 あるときは畳に寝かされ、仏壇の蝋燭を傾けられているのも見た。日常茶飯事の竹刀痕など折檻の傷に蝋が滴るたび、痛絶な呻きが漏れる。複数人に押さえつけられて性器に垂らされ、下卑た笑いが屋敷を賑やかす。

『今日は離れにお客さんが来るぞ』、壮一がそう言う日、小さな健次は不安そうにしたり、怯えていた気がする。家事仕事をする春江の割烹着を掴んで、離れなかったり……子どもの頃の美奈子はなにか怖ろしいことがされるのだろうとしか分からなかったが、成長とともに詳細に感づき、理解していった。

 理解を深めると同時に、怖さも増して、見て見ぬふりを加速させる。触れないように、関わらないようにと心がける。夜中に健次がバシャバシャと異様なほど顔を洗い、ちくしょう、と呟いていても。荒れてモノを壊し、硝子を割り、破片を静かに春江が片づけていても。あれは小学生の低学年のころだったか。壮一の仲間内の病院に搬送された夜もあった。しばらくの入院生活、静かな相沢家で、美奈子はやはり隠れて泣くことしか、できなかった……

 どうしたらいいのか分からない。誰にも相談できず解決できない家庭の問題。行動を起こす勇気なんてない。つらく感じるこんな心壊れてしまえばいい。けれど一番つらいのは健次であって、自分ではない。

「美奈子さま……」

 どの夜だっただろう。啜り泣いて喉が渇き、階段を下りてゆくと。まだ起きていた春江がお茶を淹れてくれた。心配そうな顔を作って。

「わたしのことは……ほうっといてよ……!」

 心ない言葉をぶつけて、春江を追いだす。それでも春江には美奈子の心情が理解されているようで、それがまた思春期の美奈子には癪に障った。

 しぃんとした、ひとりきりの居間で傾ける、あたたかな湯呑み。

 窓のむこう、木々のスキマから覗く離れの明かりは薄くぼんやりとゆらぐ。
 だから春江はまだ起きていたのだと理解した。

 この明かりを眺めていたのだ。きっと春江もまた、身を切られるような想いで。

「……ごめんなさぁい…………」

 また、頬に零れる涙を止められない。どうしてこんな家に生まれてしまったのだろう。
 もう、嫌だ、嫌だ、と繰りかえし、呪った。

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 状況を変える行動を起こすことはできない。自殺をする勇気も、家出する勇気もない。病む心のまま、いたずらに手首を切ったりした。すこしは健次の痛みに近づけるだろうかなとも思ったが、それはただ罪の意識に酔いしれているだけだと自分でも分かっている。

 結局、大学に入っても一人暮らしは許されなかった。アルバイトもする必要はないと言う。壮一は美奈子を溺愛してくれる。だがそれは壮一の望む“愛娘”の姿を強いられているだけで、外れればどうなるのか、美奈子には想像するだけで怖い。

 だから、模範的に振る舞う。窮屈な日々。数少ない好転のひとつは、高校、大学、と進むにつれ、鬱屈した地元の空気や人間と離れられたこと。あたらしく出来た友人は閉鎖的な地域の事情を知らず、相沢家の顔色をうかがった付きあい方ではなく、美奈子自身と付きあってくれる。……大学生活は息抜きのように楽しい。

「ただいまぁ」

 門限も多少はゆるくなったから、学校近くのファストフード店で話しこみ、夜遅くに帰宅した。昼間買いものしたブティックの紙袋を下げてフリンジのローファーを脱ぐ。

 手洗いとうがいをするために洗面所へ行くと、隣接する風呂場の明かりがついている。壮一か、健次か、春江か。誰であっても出くわしたくない。壮一なら、こんな時間までなにをしていた、彼氏か、などと口うるさいし、健次や春江だとどこか気まずい。

 さっさと立ち去ろう、と蛇口を止める。同時にガラリと音がした。脱衣所の扉が開いた音だ。

「……あ…………」

 振り向いた美奈子は、十年以上前のあの夕暮れとおなじよう、心底、振り向かなければ良かったと後悔した。湯気を立たせた健次は濡れた裸身、腰にタオルだけを巻いた姿で現われて美奈子の手首を掴むと、その場に押し倒す。きゃああ、と、美奈子は大きな声をだしてしまう。健次の身体は重く、力強く、美奈子の抗える力ではない。

「やめて! 健次……なにするのッ?! だれか! 助けて!!」

 被っていたベレー帽が落ち、床に広がる巻き髪。美奈子はなにがなんだかわからないまま、ただ腕を伸ばした。健次はその手を叩き落す。無表情だった顔が、その瞬間口許を笑ませて歪む。バカにするように、嘲るように、美奈子を見下す。

 ぞっとする美奈子。血の気が失せる。背筋を包む恐ろしさ。こんな恐怖を覚えたことは一度もない。

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 ビリビリと引き裂かれるタイツ。健次の黒髪からの雫が、美奈子に滴った。はじめて間近で見る健次の素肌は鍛えられて引き締まっていたが、傷もある。虐待の凄惨さをありありと感じさせるものだ。

「こ、こんなことしてッ……は、春江さんのことが好きなのでしょうッ?!」

 胸元も強引にはだけさせられ、とっさに美奈子の口から零れた言葉はそれだった。

「春江は親父の女だ」

 そんなことも分からないのかと言外に告げられた気がする。美奈子に響く、声変わりを終えた硬質な声。健次の骨ばった大きな手に喉を掴まれ、顎のラインを指でなぞられ──異性にこんなふうに触れられるのははじめてで、健次の手がはっきりと男性のものになっていることにひどく驚く美奈子がいた。

 幼かった健次はもういない。

「今頃、アイツラは料亭でやってんだろ。じゃあ俺もこのクソアマを犯すか……」
「な……ッ……?」

 壮一と春江ふたりそろって留守だというのか。そう言われてみると、家のなかはいつもより静かな気がする。

 股間に、膝頭を押しつけられる。せりあがってくる恐怖。もがこうとしても、頭を振るのが精一杯。反抗にもならない。

「いやァ……助けて! 誰かぁ!!! 助けてぇッ!!」

 美奈子の身動きを封じながら、愉悦をにじませる健次の顔。心底楽しそうな残虐な笑みだ。

「ハハハハ! 馬鹿だろ! 誰も助けに来ねぇ……!」
「やぁあっ……」

 そうだ──祖父も祖母も助けに来ない。母親は痴れているから、助けるはずがない。
 近所の人々も関わってくれるはずがない。夜中に大声で叫んだとて、異変を感じたって、相沢の家には近寄ってもくれないだろう。そういう集落だ。

(健次……!)

 健次は、こんな気持ちだったのかと、理解った。
 いつも、毎晩、毎晩、物心ついてからずっと、十年以上も、ずっと、こんな気持ちを味わい続けてきたのかと一瞬で理解り涙が溢れる。

 美奈子は反抗をやめた。

 瞼を閉じて、ごめんなさい、と小さく呟く。あまりにか細く震えた謝罪は、届いたのかどうか美奈子には分からない。唇をやっと動かせただけかも知れなかった。

「………………」

 健次の力もゆるんだ。そして舌打ちが零される。

「気が削げた」

 そう聞こえた。美奈子はしばらく目も開けれず、立ちあがれない。気づけば健次は消えていたけれど、全身の緊張状態が抜けず、こわばっている。どれくらいそうしていたのか。自室に戻り、布団に倒れこむまでの記憶がない。かろうじてたどりつき、乱された衣服のまま放心状態のように眠った。次の日もずっと部屋から出ずに呆然として過ごした、美奈子だった。

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 冬の日に壮一が、死んだ。

 美奈子に驚きはさほどなかった。いつかこうなる日が来るような気もしていたから。誰かが、壮一を殺す。ひょっとしたら美奈子自身が刺し違える可能性もあった。もうすこし、心が病んでいたら。

 母親に罪を被せる手伝いは進んで行う。
 小細工も、供述も。
 健次にしてやれる数少ないことなのだから、と。

 そして、春を待たずに相沢家を出る。
 大学の近くにマンションを借りた。

「ほんとうにいいのですか、美奈子さま。お車をお呼びしなくても……」

 出て行く朝、心配性な春江はタクシーを手配すると言ってきかない。まだ怪我の治りきっていない家政婦に美奈子は苦笑した。

「大丈夫だってば。歩いていきたいの。駅まで」
「お荷物もあるのに、重うございます」
「平気……これくらいの荷物」

 既にあらかた送ってしまって、手元にはレトロなトランクひとつ。玄関先まで春江はついてきて、当然のようにいつも通り美奈子を見送ってくれる。無理やりに此処へ連れて来られて、愛人にさせられて……それなのに尽くしてくれる春江には頭が下がる思いだ。

 ある意味、そんな春江が母親代わりのような面もあった。相沢家は、つくづく妙な家庭環境だ。

「晴れましたねえ。じきに庭の梅も桜も咲きます、見に来て下さいな」

 引き戸を開けて微笑む春江。美奈子は敷石を歩みかけたが、立ち止まり、春江を見た。そして頭を下げる。

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「健次を……よろしくお願いします」

 顔を上げれば、春江は驚いて息をのんでいる。美奈子は続けざまに想いを伝えた。
 今を逃したら言う機会がない気がした。

「春江さんは健次を幸せにしてあげられる女性(ひと)だと思うの。どうか……お願いね」
「勿体ないお言葉です……そんな……!」

 戸惑う春江の両手を取る。

「善悪がきれいに割りきれるほど、この世界はやさしいものじゃない。混ざってる。そのなかで決断し、判断しないとだめ。私は選べずに決めれずにただずっと苦しんでるだけだった……」
「美奈子さま……」
「健次のしたことも、善いはずない。きれいごとを言うなら、もっと、建設的に、なにか、方法があったかもしれない。パパのしてきたことも地獄に落ちるような行い……それでもパパも優しいときがあった……」
「えぇ、ええ……わかります。美奈子さまも色々と大変でしたね……」

 ねぎらうように、慰めるように、春江はそう言い、美奈子を抱きしめてくれた。
 今度、驚いたのは美奈子のほうだ。
 白菫色の着物のぬくもり、首筋から白檀の香りが漂う。
 幾度となく感じてきた春江のにおいが、いままで一番強く、間近に薫る。

「美奈子さま、これからはどうぞ、ご自由に生きてください。お好きなように……恋をして、遊んで、好きな道を歩んで……」
「春江さんッ」

 美奈子は泣いた。嗚咽が、止められない。春江はずっと抱きしめてくれている。春江と美奈子にしか共有できないものがあった。同じ鬼の家で暮らしてきた女同士の想いだ。

「健次さまのことはご心配なく。私は、地獄まで、ご一緒する覚悟でいますから……」

 淡く響く声。それほどまでに健次のことを……と、美奈子は嬉しくも尊敬を覚えた。自分にはない強さが春江にはある。健次にはさらに──その強さも感情も狂気に触れるような種類のもので、人の道を外れる行いかも知れない。しかし、だからこそ平穏を勝ちとった現実がある。

 ゆらめく、善と悪。それはまるで鬼と桜の対比。

「……行くわね、私。いままで本当にありがとう」

 涙を拭き、美奈子は踵を返す。陽光が眩しい。春江だけが見送ってくれる静かな時間、朝露に濡れる日本庭園を抜けて、破風の門をくぐるのだった。

 顔を上げて、古い家並みがよく残るこの街を、出る。
 眺めているだけの彼岸から、自分の意志で生きていく此岸(しがん)へと、足を踏みだした。

E N D