楽園の涯

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 寄せて返す波は、砂浜をさらさらと撫でて、満ち引きを見せる。水面は驚くほど澄んでいた。

 都会をすこし離れただけなのに、美しい海が残っている。島といえど陸地は近く、対岸の港や建物群が望めるほど。
 
 来たばかりのときは驚き、感動して、一日中手すりにもたれて海辺を眺めていたりもした楓だけれど、近頃はすっかり慣れた。贅沢な慣れだ。

 逃亡者が居つく先は島と、相場がきまっているが、無計画に此処へたどり着いたわけではない。
 遊郭で聞いたことがあった。枕元で客の口から語られる夜伽話のひとつとして。

 いくつもの売春宿が、いまだ根強く残るちいさな島。娼婦にくらべれば数はすくないけれど男も身を売り、同性愛や、女性客の相手をする。そんな島があると。

 世迷言のような話を頼りに見つけだした場所。気候も穏やかで、島にたったひとつの医院は娼婦相手に慣れており、事情ある者の面倒も見てくれる。

 此処で美砂子の出産を過ごそうと、楓は決めた。

(……まぶしいな……) 

 日差しに顔をしかめ、光に手をかざす。検診にいった美砂子を病院へ迎えにゆく、砂浜沿いの石畳を歩きながら。

 すれちがう夏の風は楓のだぼついたシャツを揺らし、モルタルの民家に吊るされた風鈴も──チリン、チリン、と、涼やかな音色を転がした。
 軒先には三毛猫も転がっている。島の光景はのどかで、売春島などと呼ばれている事実は、昼間の日常を抜きとれば嘘のようだった。

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 島の人がおすそわけしてくれた野菜を、美砂子が切っている。いちょうの木のまな板も、有次と銘打たれた包丁も、前にこの家に住んでいたお婆さんのもの。亡くなってからずっと空き家だったモルタルの家を譲ってもらった。ふたり暮らしには広すぎる家のなかを、炊事の音が響きわたる。

 暮らしはじめたころよりはずいぶんとよくなったとはいえ、美砂子の包丁使いは危うい。不規則なリズムを刻む包丁の音を、二階の窓から海を眺めながら楓は聞いていた。ときどき、苦笑してしまう。怪我をしないかと心配でつきっきりだった時期もあったけれど、最近は「だいじょうぶだから!」と強く言われて、離れていた。なにかあったらすぐに駆け下りるつもりではいるけれど。

 ……夕陽に染まる小さな島の風景も、白昼とはまたちがう趣きがあっていい。オレンジ色にゆらめく波間。遊郭にいたころは見ることの出来なかった色彩だ。
 ふと眼下の細道にすこしばかり派手な装いをした女が、ピンヒールで港へと歩いてゆくさまが見えた。なじみの客を迎えにいくのだろう。

 日没とともに売春島の本性が目覚める。

「かえでくん! できたよ」

 瓦を伝ってやってきた例の三毛猫を撫でてやっているとき、美砂子の声がした。

「悪いな、いまからごはんなんだ」

 まだ構ってほしそうな猫から指を離す。最後に、喉元を撫でてやって。三毛猫は鳴いてから、屋根瓦を去っていった。

 階段を下りてゆくと、ちいさなテーブルに食事が並べられている。ふぞろいな形に切りそろえられたトマトやきゅうり、なにを煮たのかもはや具材の姿がわからない煮物など。お世辞にも上手な料理とはいえないが、楓には努力している姿が可愛らしく映る。そしてしあわせだ。

「おいしそうだな」
「おいしいよ。だって、味見しててかなりたべちゃったもの。だからミサ、もうあんまりたべられない!」
「……そうなのか。じゃあ、いただきます」

 背もたれのない丸椅子に座って、楓は手を合わせる。エプロンをほどいた美砂子も向かいあわせに腰をおろした。ふたりの素足が時折、じゃれるように触れる。

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 指名が入った夜は、日付の変わる少し前にぶらぶらと客のもとに行き、一時間のショートから、場合によっては朝方まで相手をした。仕事のない日も多く、そんな夜は美砂子とテレビを観て過ごしたり、飲み屋にいって島の人たちと談笑したりする。お金を使うことがあまりないし、ふつうの仕事にくらべたら高時給なので、たまの収入でもじゅうぶんだ。のんきで、おだやかな生活を続けていた。

「おしごと? なん時まで?」

 男娼喫茶店から連絡がきて、楓は受話器を置いた。電話機も前の住人のもので、ダイヤル式の黒電話。美砂子は畳に膝をついて、楓をのぞきこんでくる。
 
「ん、二時までだ」
「じゃあミサ、月世界で待ってるね。いっしょにおうち出よっ?」
「あぁ」

 島にはいくつものスナックや居酒屋があるが、なかでも美砂子が気に入っているのが月世界。働いている女の子とすっかりうちとけて、友達になったから。

「シャワーあびるけど、いっしょに入るか?」

 楓が尋ねると、美砂子は当然のようにうなずく。
 嬉しそうに笑って。

 浴室は、昔のつくりの家だから家のなかではなく、外にある。縁側を歩いて中庭の隅。

 素肌になると、美砂子の腹部は大きかった。体質でさほど膨らみはないほうだったが、それでも臨月となれば目立ってくる。

 水滴の舞う中、楓はゆっくりとそこに触れた。
 
 不思議な気持ちだ。自分の子どもなのだということに対してもだけれど、生命を宿すことのできる、女性の身体は神秘的だと思う。いったい、どうなっているのだろう? 遊郭には子を産み落とす娼婦もいたし、学校の授業で習って論理的にはしくみを知っているけれど、それでも不思議さは消えない。

「かえでくん、ピアス開けたらいいのに」

 胎児の鼓動を感じていると、思いつきのように美砂子が言った。無邪気な美砂子の言動は、楓にとって唐突に感じられるものも多い。

「きっと似合うよ。ミサが開けてあげるよ」

 あまり素行のよい生徒ではなかった美砂子は、二年生のときピアッサーを使ったらしい。施設の子たちで互いに開けあったとか。楓が出会ったとき、すでに孔があった。

「え……どこに開けるんだ?」
「みみ?」

 美砂子の指が両耳に触れてくる。楓は瞼を閉じた。唇に唇の感触を覚えたから、かるく舌を出し、舐めあげてみる。シャワーの音はすこしだけ乱れた。

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 男娼喫茶店の客はみんな楓の年齢に驚く。少年がいい、少年はいるか、と頼んでおいて、実際にほんものの少年が現われると戸惑ったり、感激したり、十人十色の態度を見せる。それでも驚かれるという点においてはおなじだった。

『昔は未成年もたくさん働いてたけどね、家出少女とか……あるとき警察の手入れがあってずいぶん逮捕された。それで若い子たちは一斉に保護されたんだ』とは、古株の男娼の話。

 彼は男娼喫茶アダムでいつも葉巻をふかしている。軽く化粧をして、柄シャツを着、いつも綺麗だ。彼がこの喫茶店の実質のマスターであり、喫茶店の本性である置屋と売春斡旋もまとめている。喫茶店は、島唯一のゲイ専門店でもある。

 シャワーを浴びて着替えた楓がアダムに行くと、蜂蜜をこぼしたような色彩を空間じゅうに垂らす、古めかしいミラーボウルがカタカタとまわる店内。カウンター席に中年男性が座っている。半袖にスラックスのこの男性が、楓の今宵の客らしい。

 男もまた、楓の若さに目をみはった。若いね、という言葉に慣れた笑みを返し、しばらく並んで座り会話をする。薄化粧のマスターは適度に話しに加わったり、目の前でコーヒーを淹れてくれた。楓もコーヒーを愉しむ。アダムのコーヒーは、甘党の楓なのに砂糖を入れなくても飲める美味しさだ。
 
 もうひとり、ぶらりと客がきた。タイプの子を聞いて、島で過ごしている男娼にマスターが電話をする。目の前で、いまから来れる? 来れるなら来て、と呼びだす。筒抜けの会話。おだやかな島ならではの光景。

「そろそろ、良いかな……」

 男は楓の手に手を重ねた。楓はもちろん頷く。プレイルームはアダムの上階にあるビジネスホテルを使う。
 湿っぽい部屋に入った瞬間、背中から抱きしめられた。薄手の夏用のカーディガンを脱がされ、シャツも、ゆったりとしたラインのサルエルパンツも下ろされて、ベッドに崩れる。片目だけ嵌めている黒色のカラーコンタクトが、チクリと痛んだ。

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 アダムと月世界はさほど離れていない。繁華街と呼ぶにはあまりに小規模だけれどそれでも島では繁華街と呼ばれている一帯、メインストリートにしてはあまりにわびしく猥雑な路地の同じ並びにあった。

 夜の磯の香りを感じながら、丸い街灯に照らされ、昭和じみた看板連なる道を歩いていけばすぐ。
 楽園ビルの三階、右奥の扉を開ければ月世界。

「いらっしゃーい……あら、楓くんだわ」

 ボックス席で女性週刊誌を読んでいたママが顔をあげた。ほかの席では島の漁師がひとり酒をしている。美砂子はカウンターで、店の女の子と話していた。それぞれが自分の家のように過ごしている、きままな空間だ。

「姫。だんなさまが迎えにきたわよ」

 緩慢な動作で、ママが立ちあがる。ロングスカートをひきずって。食器棚からグラスを出してくれた。美砂子と話している女の子が、そこに氷を入れてくれる。

「かえでくんっ、おつかれさま。いまUNOやってたの。かえでくんもやろ?」

 楓が美砂子の隣に座ると、女の子がはにかんだ。楓は詳しいことは知らないが、日本国籍ではないらしい。家出少女だというのはハッキリしていた。

 一斉摘発から時間が経ち、すこしずつ『若者』が戻ってきていた。事件以来、入島者の情報はすぐ島じゅうをまわる。船員は乗船する者をチェックし、民宿、ホテル、売春屋、飲食店、などにデータがすぐ行き渡った。

 鉄壁といえるほどの警戒心と団結で、売春島は、売春島としての機能をいまだ保ち続けている。

 此処は、借金つきで送られてきた者にとっては牢獄であり、逃げてきた者にとっては駆けこみ寺だ。

「ミックスジュースをつくってほしいんだけど……」

 カードを手にした楓の要望に、ママは「まぁ、おこさまだわ」と、わざとらしくふざけた。ひとり酒の漁師が「ママより三百歳くらいちがうんだから、そりゃあ子どもだろう」とさらにふざければ、「あたしは魔女か……!」と返す。その場のみんなが笑った。
 明るくなるまで、こんなふうに過ごす、いつもどおりの夜だ。

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 夏の朝にセイは生まれた。

 朝顔から露がしたたり、昇りはじめた太陽が眩しい、凛とした朝に。
 
 かなりの安産で、医者は『べらぼうに若いから』だと簡潔に理由を言った。少女ゆえ、骨盤がまだせまいことは懸念されていたけれど大丈夫だった。セイは健康な3000グラムの男児だ。

(……良かった。良かったって思っていいのか、わからないけど……)

 生まれたばかりのセイを抱いた楓の心境は、まず、それだった。琥珀色の瞳を持っていない。ふつうの目をしていた。両眼とも。そのことにひどく安堵する楓がいた。楓自身も驚くほど。

 この左眼を忌まわしく感じているわけではない。むしろいまでは、死んでしまった弟の形見のような、大切な気持ちさえある。
 
 けれど、自分の子どもに呪いが伝播していないことにほっとしてしまう。この瞳は不便も多いから、それを、わざわざセイにも負わせたくはなかった。親としてなら当然の気持ちなのだろうか……?

 看護婦さんに教えられたとおりに抱える、すやすやと眠っているまだあまりにも小さな生命。抱きかたには戸惑いもあり、慣れないけれど、そのうちにきっと慣れるのだろう。

 此処の透明すぎる水面に慣れてしまったように。

「ミサは……セイの目が何色でも良かったんだよ」

 潮風がカーテンを揺らす、老朽化したちいさな医院の一室、横たわった美砂子は呟く。瞼を閉じたまま。

「瞳の色なんて、関係ないもの。セイにとってはすこし大変になるのかもしれないけど、ミサは、セイをしあわせにするよ。それはね、セイだけじゃなくて、かえでくんのことも。かえでくんの目が何色でも、ミサはかえでくんをすきになって、かえでくんの赤ちゃんを産んだの……」
「…………」

 楓の目頭が熱くなるのは、すこしばかりツンとする潮風のせいではない。

「……ありがとう……ミサ……」

 ごめんな、とは、言ってはいけない気がした。妙な運命に巻きこんでしまったことを。それは生まれてきたセイに対しても。

 楓はしあわせを感じている。葵に『不憫(ふびん)』と告げられたように、可哀想な子、と思われるのが普通の人の感情なのかも知れないけれど。さげすまれるよりは、可哀想だと言われるほうが、いいのかも知れないけれど……でも。

 俺は世界一幸せだ。
 そう、確かに感じる楓が、八月十日の朝にいた。

 看護婦さんが、セイを隣のちいさなベッドに寝かせてくれる。楓は美砂子の傍らの椅子に座り、静かな朝の空気に微笑む。

 窓の外では海鳥の群れが舞いはじめた。ささやかな家族を祝福するかのように──

E N D