双魚の真昼

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 遊郭・四季彩。その広大な敷地内の奥まった場所にある洋館が芙蓉館(ふようかん)だ。
 郭に勤める娼妓達は様々な掟で縛られており、掟を破れば当然ながら罰を与えられる。その刑罰のひとつに“芙蓉館に収容される”といったものがある。
 此処に入れられた娼妓は四季彩会議にて下された年期を終えるまで、一切の外出を禁じられてしまう。閉ざされた空間で強要されるのは、ひたすら身体を売り続ける日々だ。
 きつい生活だが、性奴隷に堕とされるよりはマシだった。奴隷となれば劣悪な環境での生活となる。その名は娼妓名簿から抹殺され、衣服さえ身につけることを許されず、家畜以下の扱いをされてしまう。芙蓉館ではまだ〈娼妓〉として扱って貰え、人間としての尊厳を持ち、暮らすことができた。
 だが、芙蓉館の生活も過酷には変わりない。二十四時間営業のため、客が来れば昼夜問わずに仕事をしなければならない。睡眠時間やプライベートな時間を確保することも難しく、許可されているプレイは四季彩本館よりも多かった。娼妓達は四季彩時代には免除されていた、変態かつ過激な行為も押し付けられる。
 マニアックな行為も出来て、四季彩本館よりも大幅に値段が安い。おまけに人気娼妓の堕ちた姿を嘲笑えるときている。面白半分に来る客は後を絶たない。
 多くの収容者が正気を失い、心を病んでゆく。耐えきれず、自ら命を断つ者もいるほどだ。生きて懲役を終えたとしても、その頃には精神を壊しているので、まともな生活には戻れない。
 この残虐館、唯一の例外はあった。指名・売上ともにずっと一位を穫りつづけている──楓(かえで)という男娼だ。
 楓を目当てに来る客はゆったりとしたくつろぎの時間であったり、休息を求めて通う。もちろん男娼館なので行為もしていくが、楓の魅力の本質は肉体ではない。訪れた者に上質な癒しを提供してくれる。堕ちた姿を嘲笑いに行ったはずが、うっかり和んでしまった。そんな客は少なくなく、楓の指名数は今も増えるばかりだ。

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 スーツ姿の克己は白昼、芙蓉館を訪れた。鳥が翼を広げたようなかたちに建つ洋館の左翼が男娼部、右翼が娼婦部となっており、外と建物内部を繋ぐ唯一の扉は中心に開けられている。
 さながら老舗のホテルのような古めかしくもモダンなフロントを通り抜けると、左の男娼部へと進んでゆく。昭和初期に建てられたという洋館の最上階奥にその部屋はあり、仰々しく立派なドアを叩くとすぐに住人は開けてくれた。そう此処は楓の部屋だ。
 中は広く、豪奢だった。逃亡・飛び降りを防ぐために窓枠には柵が取り付けられているが、とても囚われている者の居室とは思えない。それはこの部屋が楓の自室であると共に〈仕事場〉を兼ねているせいもあるが、それにしても余りに美しい一室である。
「窓を拭いてたんだ。汚れが目立ったから」
 克己を招き入れた楓は洗面で手を洗い、ハンドソープを泡立てて指のスキ間まで清める。窓下にはバケツと雑巾が置かれており、本当に掃除をしていたらしい。
「そんな仕事しないでいいでしょう、楓さんが。芙蓉館のメイドさんにさせれば──」
「駄目だ、真希はつかいものにならん。ドジだし、雑だし……あいつが拭くと余計に汚くなるんだ」
 楓は苦笑しつつ、手洗いを終えてリビングに来た。黒いボクサーパンツを履いただけの身体にロングカーディガンを羽織り、サンダルをつっかけている姿を克己は目で追った。素足は少年のように滑らかで細い。楓は戸棚を開けると、何やら奥を探りはじめる。
「克己は日本茶が好きだったな」
「いいんですよ、なんでも」
「ああ、玉露があった。ティーバッグだけど」
 克己の座るソファの前にはローズウッドの角卓があり、器に盛られた菓子と灰皿、ポットが置かれている。茶器を持ってきた楓は克己の向かい、猫足のスツールに腰を下ろした。慣れた手つきで湯呑みにお湯を入れ、急須にティーバッグを落として茶の準備をしている。
 楓は此処を訪れたどの客にも、こうして応接しているのだろう。常に部屋を美しく保ち、好みの飲み物を振るまい、居心地の良い空間を提供する。芙蓉館の娼妓でこんなことをしているのは楓しかいない。克己は楓のそういった面には尊敬の念さえ覚える。男娼とは身体を売るだけが仕事ではない、楓はまさにそれを体現する男娼だった。
「なんだかお客様みたいですね、俺」
「客じゃないか。菓子も好きなものを食べればいい」
「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきますね」
 克己は器から、餡を挟んだ黒胡麻のマカロンをひとつ取る。個装を破り、口に運ぶと美味しかった。楓は湯呑みのお湯を急須に移し替えている。
「……今日はずっとお掃除してたんですか」
 克己が尋ねると、楓は首を横に振った。
「四季彩の新人に実技指導。最近多いんだ、よく頼まれる」
「楓さん、休む時間ありませんね」
「ん、いいんだ。子供は好きだからな」
 そう言ってから、楓はべつに変な意味でなく、と付け加える。それが可笑しくて克己は笑ってしまった。
「わかってますよ。純粋に可愛いってことですよね?」
「そう。だけど、若い男娼と寝ると引退したくなる……肌の艶がちがう。色々気は遣ってるけど、老化は止められない。俺はもう歳だから」
「そのお姿でよくそんなことを」
 下手をすれば克己よりも若く見えるくらいである。楓は典型的な童顔だ。
「二十四だ。可愛く喘げる歳じゃない」
「まだ十分に、お若いですよ」
 湯呑みを差し出され、克己は早速味わってみた。流石玉露、ティーバッグとはいえ芳醇な味だ。
 それから二人はしばらく談笑した。楓はとびきりの美人というわけでもなく、客を惑わす傾城の魅力を誇るわけでもない。けれどこの部屋に客がつい通ってしまう気持ちが、克己にもなんとなく分かる。こうして話していると、此処が残虐館と言われる監獄であることも忘れて和んでしまうのだ。

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「で、今日来た理由は様子見だけじゃないんだろう」
 キャスター・マイルドをくわえ、楓は紫煙をくゆらせる。此処は幽閉している娼妓に嗜好品を支給してくれるような親切な場所ではない。欲しければ客にねだって外から持って来てもらわなければならず、この煙草もそうして手に入れたものだ。
「ええ。貴方を抱いて来いと言われました。そして様子を事細かに報告しろと……」
 四季彩の一族に命じられたことを口にすると、楓はため息まじりに煙を吐いた。
「大変だな、克己は。……克己こそ休む暇がないな」
「仕方ありません。俺は越前谷家に魂を売った身ですから」
 そうか、とだけ答えると楓は灰皿に煙草を潰す。そしてスツールから腰を上げた。
「よし。じゃあさっさとしよう。どうする、向こうでするか?」
「あっさり過ぎますよ、そんな誘い方」
 とてもセックスを誘う言い方ではない。克己はスーツのジャケットを脱いでソファに置きながら、笑ってしまう。
「来い。克己」
 楓は何室か分かれているうちのひとつ、寝室に移動する。居間と同じく瀟洒な作りで、天蓋付きの広いベッドが置かれていた。ベッドに横たわれば、正面にガラス張りのバスルームとラバトリーが望める。浴槽と便器は白磁で、取手やレバーは金色に揃えてあった。異国のホテルを思わせる優美な作りだ。
 楓の後を追って足を踏み入れた克己の目に飛び込んでくるのは、あらわな浴室やベッドだけではない。棚に並べられたたくさんの玩具。性的遊戯を愉しむためのありとあらゆる道具があり、様々な色と形が寝室を彩っていた。棚に置ききれずに溢れた品は積み上げられた箱に詰められたり、無造作に床を転がっている。
 その横にはコスチュームをまとめたアンティークなラックもあった。愛らしいランジェリー、丈の短いチャイナドレス、黒いニーソックスに手袋、他にも様々な淫靡衣装が並んでいる。
「ドアを閉めてくれ」
 それらに気を取られていると、カーテンを閉めた楓に声を掛けられる。克己は従い、振り向くと寝室の扉を閉めてやった。部屋に差し込む陽光は翳り、日陰の密度が増す。
 この暗さになって、やっと楓は左目を晒した。ガーゼの眼帯を剥ぎ取るとサイドテーブルの上に放る。楓は両眼の色素が違う、オッドアイの持ち主だ。右は東洋人にありふれた濃茶の瞳だが、左のみが琥珀色。その左眼は光に弱く、日なたや明るい場所ではいつも眼帯をして護っている。
「ありがとう。……試したいものがあるのか?」
 戸を閉めてくれたお礼を言ってから、楓は克己に問いかけた。克己はベッドに近づき、いえ、と返事をする。
「正直に言えばいい。好きなのを使えば──」
「あの服も楓さんが着るんですか」
「色々だ。俺が着ることもあるし、お客が着ることもある」
 楓は笑って、ふわふわの羽毛に倒れ込む。
「克己も、着たかったら着ていいんだぞ」
「今日はやめておきます。またの機会に」
「そうか。じゃあこのままでしよう……」
 克己もまたシーツの海に沈むと、小柄で細い肉体を抱き寄せる。なぞってゆく、鎖骨から首、頬、唇。微かに匂うバニラの馨りは、楓のまとう体臭だ。フレグランスなのか、それともボディクリームの類いなのか。知らないけれど、克己はこの馨りを心地よく感じた。
 キスをして舌を絡め、煙草の後味を味わいながらカーディガンを脱がしてゆく。建物から出ることを禁じられているせいもあるのだろう、素肌は驚くほど白い。そのまま下着越しに指を這わせ、股間を軽く探る。玉袋とともに揉み込んで、愛撫を施した。
「大きくなって来ましたよ」
 しばらく弄び、膨張しはじめるとペニスを下着越しに摘む。鼻先が触れるほどに近くで見る左目は本当に琥珀石のようだな、と思いながら──光の加減では黄金にも見える、あまりにも不思議な瞳。
「脱がせちゃって、いいですか?」
「ああ。克己も脱ぐんだ」
 克己がボクサーパンツを引っ張ると、脚を動かし協力してくれる。あらわになった性器は処理しているのか、陰毛が薄い。
 楓もまた、克己のボタンを外して衣服を脱がせた。お互いを裸にすると、改めて肌を密着させる。自分自身を商売道具として磨き手入れを怠らない二つの身体。柔肌同士の触れあいは、このまま溶けて混ざってしまうのではないかと本人達も思うほどに心地よいものだった。馨るバニラがその空想を引き立てる。天蓋に覆われた薄闇のベッドで、克己と楓はとろけてゆく。

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 薄ピンクに色づいた尻孔は、十年以上凌辱されている器官とは思えなかった。締まりが良く、挿した克己の指にもペニスにも程良い弾力で食いついてくる。手入れも丹念にしているのだろうが、きっと生まれつきに名器なのだろう。
 そのいやらしくも見事な雄膣をいま、克己は下から突き上げていた。騎上位の体勢にし、楓の身体を打ちつける。手練の男娼同士の腰つきは絶妙に合わさり、リズムはぴったりと溶け合っていた。
「あぁ……気持ちいい」
 揺れながら、楓は汗ばむ額に両手をあてる。左手の薬指には今日もマリッジ・リングが嵌まっていて、克己の視線はその指輪に捕らえられてしまう。
 そう、楓はこう見えて四季彩の外に妻を持ち、ひとりの子供の父親でもある。色恋を使わないため、事実を客に隠さずに常に指輪を光らせているのだが──初めて知った者は例外なく驚愕するという。当たり前だ……克己は思う。楓自身が未だに子供のような幼さを残しているというのに、息子がいるだなんて信じ難いに違いない。
「何だ……俺を見て……」
 楓は両指を黒髪に流し、後頭部で手を組んだ。本人は意識していないようだが、まるで誘惑するようなポーズだ。腰は今もくねくねと揺れつづけている。
「いえ、余りに可憐なお姿をしていらっしゃると……思ったものですから」
「可憐? 俺が? はははっ、そんなわけない」
「魅力的な男娼です、楓さんは」
「どうしたんだ急に。お前のほうが魅力的じゃないか……」
 感じているのか、楓はとろん、とした目つきを泳がせて腕を解いた。そのまま瞼を閉じて顔を天井に向け、心地よくてたまらないといった様相で息を吐き出す。
「四季彩最高の男娼。誰もが、克己をそう褒める 」
 微笑して、楓は身体を崩した。前のめりに倒れ込み、片手は楓の胸板につく。克己も笑みながらその手を握り、指を絡めてオッドアイを見つめた。
「非の打ち所がない……妖艶で美しい花魁だって」
「貴方だって賞賛の嵐ですよ。芙蓉の楓に会わなければ、四季彩遊びを極めたことにならないと、お客樣方は皆仰ってます」
「芙蓉の楓か。……そう呼ばれるのは、慣れないな」
「未だにですか?」
「ああ……」
 楓は眉間に皺を寄せ、窓辺の方へと顔を向ける。
「本館は……昔と同じで、あの場所は華やかなんだ、ろう……」
「そうですね、たくさんの娼妓が色とりどりの着物を着て、夜毎偽物の恋が繰り広げられて」
「なつかしいな……」
 大きく息を吐く楓の絶頂は近い、克己は予感した。克己自身も昂りを感じていて、もうあと少しで其処に届きそうだ。
「悦いんですね、楓さん」
「お前が巧いから。いきそうだ……」
「俺も達しそうなんです、実は」
「じゃあ……このまま出せばいい。俺のなかに……ッ……」
 語尾が歪んだのは、いきなりに強く打ち付けられたからだ。克己は楓と両手の指を絡めたままで激しく突き上げてみせる。
「お言葉に甘えて……」
 克己は涼やかな表情のまま、乱れ打つように肉杭を出し入れする。激しさに、楓はぎゅっと瞼を閉じて苦しげな表情を作った。
「か、つみ……」
「受け止めて下さい」
「はっ、あぁ……!」
 次の瞬間、迸る衝撃を楓は感じる。結合した雄膣の奥で溢れた体液。揺さぶりが停止すると、つないでいた手を放し、臍のあたりを撫でた。その仕草はまるで胎内に子種を宿したかのようで、光る薬指のリングは何故か動作に妙に映える。
「妊娠してしまいましたね」
「馬鹿」
 二人は笑い合う。克己は後孔から抜かないまま、先走りを垂らす楓のペニスに手を伸ばした。
「貴方も……達して下さい」
 身体つきの割には立派なそれを握りしめると扱く。すぐに楓は追いつめられた。克己の上で乳首の起った胸を反らし、震えながら白濁液をとろりと零す。日常的に絶え間なくセックスをしているせいか、その量は少なく色も薄い。けれど昇り詰めたことには変わりなく、楓は倒れ堕ちると肢体を丸め、余韻を味わうかのように瞼を閉じる。引き抜かれた後孔から、克己に注がれたものを零してシーツを汚しながら。

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 楓は安らいだ寝息をたてて、眠ってしまった。朝から若い男娼に性を教え、疲れているのだろう。克己は一人ベッドを離れ、ワイシャツに袖を通した。薄暗い処にいたせいで、居間に出ると眩しさを感じる。目を細め、沁みる光にまばたきをした。
 スラックスにベルトを通し、ネクタイを首に廻すと窓際に寄ってみる。此処からは樹々に覆われて四季彩本館の姿は分からない。格子越しに広がる、深い森──楓が毎日見ているのであろう情景をなんとなく眺めていると、廊下に通じる扉がコンコン、とノックされた。
「かえでさーん、お昼ごはんで……えぇえ?」
 銀色のキャスターを引いて部屋に入って来たのは、少々レトロ調なメイド服を着た若い女。衣装は古風だが、この洋館にはよく合っている。克己は彼女がおそらく“真希”なのだろうと察した。
「きゃー、お客様ですか? わわわ、きゃーっ……札が出てなかったのに……すみませーん……」
 真希はどうやら、克己を客だと思ったらしい。仕事をしているときはドアノブに“来客中”を表す札を下げておくのが芙蓉館の決まりだが、それがなかったので入室してきたようだ。
 慌てた様子の彼女に苦笑しつつ、克己はネクタイを綺麗に締める。戸惑う女の目線を、指先に感じた。
「俺はお客じゃないですよ」
「えっ?」
「もう帰りますし。楓さんなら寝室で眠ってます」
 克己は窓辺を離れると、ソファに掛けておいたジャケットを手に取った。真希は未だに状況を把握出来ないといった様子で、ぽかんとしている。
「それが、昼食ですか」
 キャスターに乗っているのは、皿に何種類かの果物が彩りよく盛られたもの。共に用意された硝子の急須には深紅色の液体が充ち、花やつぼみ、草木の実などが浮いていた。
「あ、はいっ。フルーツ盛りと……」
「不思議なお飲物ですね。お茶なんですか?」
「そ、そうです。薬用茶の一種で……催淫剤の作用もあるそうなんです。飲まなきゃとても、やってられないって」
「ふうん……」
 興味を持った克己は真希に近寄り、茶器を覗き込んで観察する。真希はというと間近で見る美貌に狼狽してしまい、固まってしまうのだった。何しろ、こんなにも整った男性は芙蓉館にいないし、外の世界でも会ったことがない。
「……あの。お客様じゃないなら、どういう……」
 疑問に支配された真希は、訊いてみることにした。するとお茶を見ている克己の向こう、ドアを開いて楓が現れる。楓は元通りに左目を隠し、カーディガンに下着の姿に戻っていた。
「彼氏」
 克己の代わりに、楓はそう返事をする。克己は思わず少し笑ってしまう。
「不倫してたんですか? か、かえでさん」
「ああ」
「いけません! そ、それはだめなことですよ! お仕事なら仕方ないとして、そんな、そんなっ……」
 どうやら本気に捉えている真希に対し、楓も吹き出してしまう。
「嘘に決まってるだろう。はははっ。克己、帰るなら送ってくぞ」
「いえ、大丈夫ですよ。楓さんはお食事を」
「お前を送ってから食べる。真希、シーツを替えておくんだ。俺が帰ってくる前に。できるだろう?」
 真希は呆然としている。何が何だか分かっていない様子だ。
「は、はいッ……」
楓の命令に従い、真希は動き出した。楓は克己の開けた扉をくぐる。
「あんまり、いじめちゃ可哀相ですよ」
 連れ立って廊下を歩きつつも克己が言うと、楓はいじめてない、と返事をする。
「失礼な。鍛えてやってるんだ。家事も色々教えたんだぞ、俺が」
「そうなんですか」
「此処に来たばかりのときは何っっっっにも出来なくてな。……今もあんまり出来ないけど。あいつ将来結婚したら、どうするんだろう?」
「お父さんみたいですね」
 憂慮する楓に克己は微笑った。一階まで下りて中庭を横切り、廊下を進んで行くとやがて鉄檻にぶつかる。その傍らでは見張りの者が椅子に座り、暇そうに文庫本を読んでいた。男娼部の出口だ。
 本来、幽閉された男娼は此処までしか行動することができない。けれど楓は特別扱い。従業員達と親しくなっているし、売り上げにも貢献している。館の外には出れないまでも、ロビーまでは行くことを許されていた。
「またいつでも来い。今度はゆっくり話をしよう。午前中なら比較的、時間が空いてる」
 フロントを通り過ぎると、楓はそう言ってくれた。克己は頷く。
「はい。偵察でなくプライベートで……」
 会釈して、克己は館を出る。振り向くと、楓は小さく手を振ってくれていた。その様子にもう一度頭を下げ、門をくぐる。
 竹林を抜けて、敷地内の本館へと行かなければならない。楓の様子を細かく、越前谷の者たちに伝えるのが今日の任務。
 報告ついでに、今度は克己が抱かれるかもしれない。長老達は年老いてなお元気だ。あの深紅色のお茶を一杯、貰うんだった。今さらそう思う克己だった。

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