1 / 1生徒指導室を出た頃には、すっかり陽が暮れていた。誰もいない校舎の廊下を歩きつつ──祥衛は眉根に皺を寄せる。授業が終わってからずっと今まで、二時間以上も叱られたのだ。 学年主任の河原に、髪の色のことやピアスのこと、欠席が多いこと、授業態度にいたるまで様々な注意をされ、ずっと椅子に座って聞いていた。 延々と続く河原の小言の中で一番癪に触った言葉は 『ずっと無表情で、話を聞いているのか、聞いていないのか、分からない!』 (……好きで無表情になったんじゃない) 進む廊下、暗闇の窓には自分が映っていた。祥衛は己の姿を見る。制服のポケットに手を突っ込んで、猫背ぎみに歩く顔は、いつも通りの仏頂面。 幼い頃、祥衛は周りの大人達にひどく虐待されていた。泣いたり痛がったりしたらウルサイと怒られるため、感じた痛みを表さぬよう必死で耐えていたら、いつのまにか常に無表情が張り付いて、こんなふうになってしまった。 まるで、心と表情をつなぐ糸が切れてしまったかのよう。この顔が動くなんて稀だ。大抵はずっと唇はこわばって、祥衛が何を思っても感じても、それが出る事は無い。 氷のような、鉄のような、生気のない、人形の面。 表情のことを指摘されるのは慣れている。今日の河原だけではない。小学生の頃はマネキンと言われ、同級生にいじめられていた。この顔にした張本人の親も罵って馬鹿にした。 (慣れているんだ……こんなこと) けれど、悲しさには慣れない。胸のあたりがしめつけられる。それなのに顔は悲しさを全く表してはくれない。もう一度窓を見て、変わらない表情に祥衛は嫌になった。鬱になりそうだ。 鬱がたまると手首を切りたくなる。表せない感情を表して発散したいとき、祥衛はカミソリで肌を刻んだ。走る痛みや溢れる血を見ると、心が落ち着く──氷のようで、人形のような自分でも生きているのだと再認し、安心もした。このままだとリストカットしそうだ…… (でも……切らないほうが良いって分かっている……だから……) 睡眠薬を飲んで泥のように眠りたい。眠りの中に逃げ込めば、手首を切ることもない。 祥衛は精神科の薬を客にもらっていた。以前は母親のものを盗んで飲んでいたが、一人で暮らす今はそうはいかない。だから、薬をもつ客から売春料金を値引くかわりに受け取っている。デパス、サイレース、レキソタン、セロクエル……他にも様々な薬剤が部屋のタンスにしまってある。 それらの薬を用いて早く夢へ堕ちたい所だが、残念なことに今日も仕事がある。8時から3件予約が入っていた。 (行く気がしない。犯られるなんて……気分じゃない) セックスをしたくないと思うのは、重症だ。いつもならどんなにだるくても、性行為を嫌だとは感じないのに。憂鬱に覆われながら、祥衛は下駄箱に近づく。 歩み寄ると、何か、黒い固まりが見える。あまり視力の良くない祥衛は、側まで言って正体が分かった。 下駄箱の並ぶ空間、大貴が座り込み、柱にもたれて目を閉じている。白い通学鞄を肩にかけて眠っていた。 (嘘だろ……) 祥衛は大貴が此処にいるのが信じられない。 確かに、一緒に帰る約束をしていた。けれど祥衛は呼び出しを喰らったため、先に帰っていいと大貴に言ったのだ。 それなのに、此処でずっと待っていてくれるなんて。6時間目が終わってからもう随分と時間が経っているのに── 「大貴」 名前を読んでみた。しかし、安らかな寝息を繰り返すばかりで、目覚める気配はない。 「……おい……」 祥衛は手を伸ばす。大貴の肩に触って、軽く揺らしてみる。すると、鬱陶しそうに大貴は首を動かした。わずかに姿勢も崩れる。 「起きろ」 「…………ん……」 大貴はゆっくりと薄目を開いた。天井を見てから、祥衛へと瞳を動かす。 「あれ……ヤスエ」 「なにしてるんだ、此処で」 「俺、いつのまに寝ちまったんだろ……ふぁああっ」 ごしごしと瞼を擦り、大貴はあくびをした。そのあと肩に触れ、顔をしかめる。 「痛てっ。身体痛っ。なんか、首もいてー」 「変な姿勢で……寝るからだ……」 「げーっしまった。痛った。あー、起こせよっ」 大貴は祥衛に向かって手を伸ばした。無言で祥衛はその手を掴み、引っ張ってやる。 「サイアクっ。関節がヘン!」 「……べつに、待てなんて言ってない。一言も……」 起き上がった大貴に、祥衛はそう言ってしまう。本当は嬉しかったのに、大貴が待っていてくれたことに感動すら覚えたのに。素直に伝えることができない。 「なんだよその言い方。だぃきくんありがとーとか、ゆうことあるだろ」 「…………」 「ったく、祥衛は素直じゃねーなー」 大貴は祥衛の背をポンと叩く。靴を変えにロッカーへ行く後ろ姿を、祥衛は目で追った。本当は嬉しがっていることがばれてしまったような気がして、何だか気恥ずかしい。 「もう外、真っ暗じゃん。河原のヤローまじうぜえな。なにゆわれたの、祥衛」 「ピアスのこととか。べつに、大した事じゃない」 「そんくらい全然いいのにな。うるせーおっさんだな、あいつ。メタボだし!」 コンバースを床に放り投げて、大貴は素足でそれを履く。 「てゆーかっ、帰りコンビニ寄ろうぜ。ファミ通買う。あー、でも祥衛今日、仕事早い? 時間無いなら寄んなくていいけど…… 」 「……今日は8時から」 「なんだ、俺といっしょだ。俺も今日8時に一件あって、11時から〜もう一人相手するんだ」 振り向いて、大貴は微笑んだ。人なつこいその笑顔は、祥衛の好きな大貴の表情。 「祥衛は何人とやんの。今日の予定」 「3人」 呟くように言って、祥衛もロッカーへ近づく。革靴を取って、上履きと履き替えた。 「祥衛ホント頑張ってるよな、えれー」 「べつに、えらくない……」 「あ! 学校でこうゆう話したらだめじゃん! やっべ」 気付いた大貴は口許に手をあてて、辺りを見渡す。 「誰もいない」 「そんならいっか……俺、まだねぼけてるかも。俺としたことがー、凡ミスだな!」 大貴は下駄箱を後にし、校庭へと出てゆく。祥衛もそのあとを追って歩みだした。誰もいないグラウンドは静寂で、二人の足音しか響かない。 「……疲れてるのか」 校門へと向かいながら、祥衛は問いかけてみる。 「へ? なんで?」 「あんなところで、熟睡するなんて」 「……んー、ちょっと寝不足かも。今週すげー忙しい」 「そうなのか……」 「家で寝てねえもん。朝帰りばっかだし」 祥衛は心配になる。寝不足についてや、体調のことも気になるけれど、あまり薫子と過ごしていないのではないかと思った。 「……大丈夫か」 様々な点が心配なのに、口から出るのはその一言のみ。祥衛は自分の口べたさに、辟易する。門をくぐり、アスファルトの道へ踏み出しながら。 こんなとき、友達をもっとうまくいたわれたら良いのにと思う。 「大丈夫だよ。こんくらいの忙しさ、なれてる、全然ヘーキ」 街灯の明かりの下、大貴は祥衛に笑いかける。 「それに明日は休みじゃん、昼に爆睡できる!」 やったー、と声に出して、大貴は万歳をしてみせた。 「寝過ぎるなよ。明日は……」 「分かってるって、パーティーだろ。俺が仕事の予定忘れたことなんてねーもん」 「あった。前。寝坊してた」 「そんなん、たまたまだろ、たまたまっ。終わった事だぜ」 「そうだけど」 「終わった事は気にしない♪ 気ーにしーなーい♪」 妙なメロディを勝手につけて口ずさみ、大貴は軽快に歩く。 「祥衛は寝れてる? さいきん」 振り向いた大貴に、逆に尋ねられてしまう。祥衛は頷いた。 「わりと……寝てる」 「ホント?」 「……ああ」 「ならいーけど。あんま、無理すんなよ。疲れて仕事出来ないときは、出来ないって怜さんにゆえよ」 並んで歩きつつ、大貴は真面目な顔をする。祥衛はまた、小さく頷いた。 大貴はいつも自分を気にかけてくれる。身体のことだったり、客との関係や行為だったりを、心配そうにいつも気遣ってくれる。 (大貴は優しい……河原とは、大違いだ) 脳裏に蘇る、先程の記憶。 ねちねちと棘のある言葉を聞き続けた、二時間。 知りもしないのに外面だけで内面まで決めつけられたり、登校したくない理由を聞きもせずに駄目人間よばわりされた。 (おまけに、この顔のことまでも……) どう直せばいいというのだ。 氷のような人形のような鉄のような仮面を、外せるものなら祥衛だって外してみたい。 ちゃんと笑ってみたい。 ちゃんと泣いてみたい。 大貴のように、紫帆のように、クラスメイトたちのように──感情のままに表情をくるくると変えることができたら、どんなにいいだろう? いつも思っているのに、願っているのに。 「ヤスエっ」 大貴に名前を呼ばれ、祥衛はハッとした。 知らないうちに色々と思考を巡らせていたことに気付く。 「どーしたんだよ。やっぱ、疲れてんじゃねーの」 「……そんなこと」 「わかった。さっき、河原になんか変なことゆわれたからだろっ」 「ちがう」 目線を地面に落とし、祥衛は呟いた。表情ならやはり、まったくの無表情を保ったままだったし、抑揚の無い声の調子も変わらない。 けれど、大貴には伝わってしまったらしい。しばらくの沈黙のあと、大貴は切りだした。 「今日の祥衛の客って誰だよ」 赤信号の横断歩道の前に立つと、突然そう言う。祥衛にとっては不意打ちで、会話の流れが繋がらない。 「なんで、そんなこと」 「いーから」 「……城っていう人と。鳴海さんと、門脇っていう人」 「じゃあ、門脇のおっさん俺にまわせよ。俺、お金いらないから。もらった代金は祥衛に渡すし」 「え……」 「いいから。祥衛は今日はラクしろよな」 大貴の申し出に祥衛は戸惑う。 「何を言ってるんだ」 「城ってやつは知らねーけど。鳴海さんは優しいから楽だろ。だからー、門脇のおっさんは俺が相手する」 「お前も自分の仕事あるだろ、そんなの……無理だ」 「時間ずらして調整する。門脇さんは俺とも仲良いから〜大丈夫だって」 喋りながら、大貴はケータイを取り出した。祥衛の傍らでメモリを呼び出し、電話をかける。相手は── 「もしもしカドワキさん? いま話してもいい?」 (……何を考えてるんだ) 大貴を眺め、祥衛は絶句してしまう。いつも、大貴は思いついたことをすぐに行動に移してしまう。 「祥衛がなんかー、調子悪いみたいなんだ。うん、風邪っぽいカンジ。だから今日、祥衛の代わりに俺じゃだめかなって……」 目の前で車が行き交うなか、大貴は巧みに嘘をつく。信号の色が変わって、祥衛と大貴は歩き出した。 「ホント? ごめんね、今日は祥衛の気分だったんだよね? ……ふふふっ。…うん、うん。……そっか、じゃあ何時にする?」 スムーズに進む会話。冬へと急ぐ季節の風は冷たく、二人の頬を撫でる。 「りょーかい。会うの楽しみ。あとでね」 会話が終わると同時に、ちょうど横断歩道を渡り終えた。 「らくしょう。大貴でも全然いいよ抱きたいだって」 「………」 「つーことで俺は前倒しして、今から仕事してくる!」 「な……」 ただただ、祥衛は呆然とする。大貴はまたケータイを耳元にあてがっていた。同時に片手を上げて、走ってくるタクシーを止めようとする。 「今からって。制服だし、何も準備してないのに」 「いつも持ち歩いてんだよ。イロイロ。それに学ランって逆に喜ばれるし」 (もちあるいてるって……) 一体何が入っているのだろう。祥衛は大貴の通学カバンをまじまじと見る。そうしていると大貴の前へ吸い寄せられるようにタクシーが止まった。 「また明日な! 祥衛っ」 開かれたドアに乗り込み、大貴は電話が繋がったらしく、相手と話しはじめる。 「もしもぉし。あのさ、今から会いたいんだけど。俺っ8時まで待てない──」 扉が閉まり、走り出してしまったため、その後の会話はわからない。 走り去る車を眺め、祥衛はまだ少し呆然としていた。 (強引すぎる) 力づくで事を進められてしまい、まるで置き去りにされた気分だ。 けれど、嬉しかった。 もし表情が自由に動くなら、一体自分はいまどんな表情をしているのだろうか? 闇に染まる街角で、祥衛はそんなことを思った。 (俺のことを、人形だとかマネキンみたいとか言う奴もいる。けど……大貴とか、俺のことを分かってくれる奴もいるから……もう、いい……) ありがとう。 小さく呟き、祥衛はFAMILYのビルへ歩き出した。 祥衛自身は気づいていないが、祥衛の唇はかすかに緩められている。 E N D |