MASK

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 生徒指導室を出た頃には、すっかり陽が暮れていた。
 誰もいない校舎の廊下を歩きつつ──祥衛は眉根に皺を寄せる。授業が終わってからずっと今まで、二時間以上も叱られたのだ。
 学年主任の河原に、髪の色のことやピアスのこと、欠席が多いこと、授業態度にいたるまで様々な注意をされ、ずっと椅子に座って聞いていた。
 延々と続く河原の小言の中で一番癪に触った言葉は
『ずっと無表情で、話を聞いているのか、聞いていないのか、分からない!』
(……好きで無表情になったんじゃない)
 進む廊下、暗闇の窓には自分が映っていた。祥衛は己の姿を見る。制服のポケットに手を突っ込んで、猫背ぎみに歩く顔は、いつも通りの仏頂面。
 幼い頃、祥衛は周りの大人達にひどく虐待されていた。泣いたり痛がったりしたらウルサイと怒られるため、感じた痛みを表さぬよう必死で耐えていたら、いつのまにか常に無表情が張り付いて、こんなふうになってしまった。
 まるで、心と表情をつなぐ糸が切れてしまったかのよう。この顔が動くなんて稀だ。大抵はずっと唇はこわばって、祥衛が何を思っても感じても、それが出る事は無い。
 氷のような、鉄のような、生気のない、人形の面。
 表情のことを指摘されるのは慣れている。今日の河原だけではない。小学生の頃はマネキンと言われ、同級生にいじめられていた。この顔にした張本人の親も罵って馬鹿にした。
(慣れているんだ……こんなこと)
 けれど、悲しさには慣れない。胸のあたりがしめつけられる。それなのに顔は悲しさを全く表してはくれない。もう一度窓を見て、変わらない表情に祥衛は嫌になった。鬱になりそうだ。
 鬱がたまると手首を切りたくなる。表せない感情を表して発散したいとき、祥衛はカミソリで肌を刻んだ。走る痛みや溢れる血を見ると、心が落ち着く──氷のようで、人形のような自分でも生きているのだと再認し、安心もした。このままだとリストカットしそうだ……
(でも……切らないほうが良いって分かっている……だから……)
 睡眠薬を飲んで泥のように眠りたい。眠りの中に逃げ込めば、手首を切ることもない。
 祥衛は精神科の薬を客にもらっていた。以前は母親のものを盗んで飲んでいたが、一人で暮らす今はそうはいかない。だから、薬をもつ客から売春料金を値引くかわりに受け取っている。デパス、サイレース、レキソタン、セロクエル……他にも様々な薬剤が部屋のタンスにしまってある。
 それらの薬を用いて早く夢へ堕ちたい所だが、残念なことに今日も仕事がある。8時から3件予約が入っていた。
(行く気がしない。犯られるなんて……気分じゃない)
 セックスをしたくないと思うのは、重症だ。いつもならどんなにだるくても、性行為を嫌だとは感じないのに。憂鬱に覆われながら、祥衛は下駄箱に近づく。
 歩み寄ると、何か、黒い固まりが見える。あまり視力の良くない祥衛は、側まで言って正体が分かった。
 下駄箱の並ぶ空間、大貴が座り込み、柱にもたれて目を閉じている。白い通学鞄を肩にかけて眠っていた。
(嘘だろ……)
 祥衛は大貴が此処にいるのが信じられない。
 確かに、一緒に帰る約束をしていた。けれど祥衛は呼び出しを喰らったため、先に帰っていいと大貴に言ったのだ。
 それなのに、此処でずっと待っていてくれるなんて。6時間目が終わってからもう随分と時間が経っているのに──
「大貴」
 名前を読んでみた。しかし、安らかな寝息を繰り返すばかりで、目覚める気配はない。
「……おい……」
 祥衛は手を伸ばす。大貴の肩に触って、軽く揺らしてみる。すると、鬱陶しそうに大貴は首を動かした。わずかに姿勢も崩れる。
「起きろ」
「…………ん……」
 大貴はゆっくりと薄目を開いた。天井を見てから、祥衛へと瞳を動かす。
「あれ……ヤスエ」
「なにしてるんだ、此処で」
「俺、いつのまに寝ちまったんだろ……ふぁああっ」
 ごしごしと瞼を擦り、大貴はあくびをした。そのあと肩に触れ、顔をしかめる。
「痛てっ。身体痛っ。なんか、首もいてー」
「変な姿勢で……寝るからだ……」
「げーっしまった。痛った。あー、起こせよっ」
 大貴は祥衛に向かって手を伸ばした。無言で祥衛はその手を掴み、引っ張ってやる。
「サイアクっ。関節がヘン!」
「……べつに、待てなんて言ってない。一言も……」
 起き上がった大貴に、祥衛はそう言ってしまう。本当は嬉しかったのに、大貴が待っていてくれたことに感動すら覚えたのに。素直に伝えることができない。
「なんだよその言い方。だぃきくんありがとーとか、ゆうことあるだろ」
「…………」
「ったく、祥衛は素直じゃねーなー」
 大貴は祥衛の背をポンと叩く。靴を変えにロッカーへ行く後ろ姿を、祥衛は目で追った。本当は嬉しがっていることがばれてしまったような気がして、何だか気恥ずかしい。
「もう外、真っ暗じゃん。河原のヤローまじうぜえな。なにゆわれたの、祥衛」
「ピアスのこととか。べつに、大した事じゃない」
「そんくらい全然いいのにな。うるせーおっさんだな、あいつ。メタボだし!」
 コンバースを床に放り投げて、大貴は素足でそれを履く。
「てゆーかっ、帰りコンビニ寄ろうぜ。ファミ通買う。あー、でも祥衛今日、仕事早い? 時間無いなら寄んなくていいけど…… 」
「……今日は8時から」
「なんだ、俺といっしょだ。俺も今日8時に一件あって、11時から〜もう一人相手するんだ」
 振り向いて、大貴は微笑んだ。人なつこいその笑顔は、祥衛の好きな大貴の表情。
「祥衛は何人とやんの。今日の予定」
「3人」
 呟くように言って、祥衛もロッカーへ近づく。革靴を取って、上履きと履き替えた。
「祥衛ホント頑張ってるよな、えれー」
「べつに、えらくない……」
「あ! 学校でこうゆう話したらだめじゃん! やっべ」
 気付いた大貴は口許に手をあてて、辺りを見渡す。
「誰もいない」
「そんならいっか……俺、まだねぼけてるかも。俺としたことがー、凡ミスだな!」
 大貴は下駄箱を後にし、校庭へと出てゆく。祥衛もそのあとを追って歩みだした。誰もいないグラウンドは静寂で、二人の足音しか響かない。
「……疲れてるのか」
 校門へと向かいながら、祥衛は問いかけてみる。
「へ? なんで?」
「あんなところで、熟睡するなんて」
「……んー、ちょっと寝不足かも。今週すげー忙しい」
「そうなのか……」
「家で寝てねえもん。朝帰りばっかだし」
 祥衛は心配になる。寝不足についてや、体調のことも気になるけれど、あまり薫子と過ごしていないのではないかと思った。
「……大丈夫か」
 様々な点が心配なのに、口から出るのはその一言のみ。祥衛は自分の口べたさに、辟易する。門をくぐり、アスファルトの道へ踏み出しながら。
 こんなとき、友達をもっとうまくいたわれたら良いのにと思う。
「大丈夫だよ。こんくらいの忙しさ、なれてる、全然ヘーキ」
 街灯の明かりの下、大貴は祥衛に笑いかける。
「それに明日は休みじゃん、昼に爆睡できる!」
 やったー、と声に出して、大貴は万歳をしてみせた。
「寝過ぎるなよ。明日は……」
「分かってるって、パーティーだろ。俺が仕事の予定忘れたことなんてねーもん」
「あった。前。寝坊してた」
「そんなん、たまたまだろ、たまたまっ。終わった事だぜ」
「そうだけど」
「終わった事は気にしない♪ 気ーにしーなーい♪」
 妙なメロディを勝手につけて口ずさみ、大貴は軽快に歩く。
「祥衛は寝れてる? さいきん」
 振り向いた大貴に、逆に尋ねられてしまう。祥衛は頷いた。
「わりと……寝てる」
「ホント?」
「……ああ」
「ならいーけど。あんま、無理すんなよ。疲れて仕事出来ないときは、出来ないって怜さんにゆえよ」
 並んで歩きつつ、大貴は真面目な顔をする。祥衛はまた、小さく頷いた。
 大貴はいつも自分を気にかけてくれる。身体のことだったり、客との関係や行為だったりを、心配そうにいつも気遣ってくれる。
(大貴は優しい……河原とは、大違いだ)
 脳裏に蘇る、先程の記憶。
 ねちねちと棘のある言葉を聞き続けた、二時間。
 知りもしないのに外面だけで内面まで決めつけられたり、登校したくない理由を聞きもせずに駄目人間よばわりされた。
(おまけに、この顔のことまでも……)
 どう直せばいいというのだ。
 氷のような人形のような鉄のような仮面を、外せるものなら祥衛だって外してみたい。
 ちゃんと笑ってみたい。
 ちゃんと泣いてみたい。
 大貴のように、紫帆のように、クラスメイトたちのように──感情のままに表情をくるくると変えることができたら、どんなにいいだろう?
 いつも思っているのに、願っているのに。
「ヤスエっ」
 大貴に名前を呼ばれ、祥衛はハッとした。
 知らないうちに色々と思考を巡らせていたことに気付く。
「どーしたんだよ。やっぱ、疲れてんじゃねーの」
「……そんなこと」
「わかった。さっき、河原になんか変なことゆわれたからだろっ」
「ちがう」
 目線を地面に落とし、祥衛は呟いた。表情ならやはり、まったくの無表情を保ったままだったし、抑揚の無い声の調子も変わらない。
 けれど、大貴には伝わってしまったらしい。しばらくの沈黙のあと、大貴は切りだした。
「今日の祥衛の客って誰だよ」
 赤信号の横断歩道の前に立つと、突然そう言う。祥衛にとっては不意打ちで、会話の流れが繋がらない。
「なんで、そんなこと」
「いーから」
「……城っていう人と。鳴海さんと、門脇っていう人」
「じゃあ、門脇のおっさん俺にまわせよ。俺、お金いらないから。もらった代金は祥衛に渡すし」
「え……」
「いいから。祥衛は今日はラクしろよな」
 大貴の申し出に祥衛は戸惑う。
「何を言ってるんだ」
「城ってやつは知らねーけど。鳴海さんは優しいから楽だろ。だからー、門脇のおっさんは俺が相手する」
「お前も自分の仕事あるだろ、そんなの……無理だ」
「時間ずらして調整する。門脇さんは俺とも仲良いから〜大丈夫だって」
 喋りながら、大貴はケータイを取り出した。祥衛の傍らでメモリを呼び出し、電話をかける。相手は──
「もしもしカドワキさん? いま話してもいい?」
(……何を考えてるんだ)
 大貴を眺め、祥衛は絶句してしまう。いつも、大貴は思いついたことをすぐに行動に移してしまう。
「祥衛がなんかー、調子悪いみたいなんだ。うん、風邪っぽいカンジ。だから今日、祥衛の代わりに俺じゃだめかなって……」
 目の前で車が行き交うなか、大貴は巧みに嘘をつく。信号の色が変わって、祥衛と大貴は歩き出した。
「ホント? ごめんね、今日は祥衛の気分だったんだよね? ……ふふふっ。…うん、うん。……そっか、じゃあ何時にする?」
 スムーズに進む会話。冬へと急ぐ季節の風は冷たく、二人の頬を撫でる。
「りょーかい。会うの楽しみ。あとでね」
 会話が終わると同時に、ちょうど横断歩道を渡り終えた。
「らくしょう。大貴でも全然いいよ抱きたいだって」
「………」
「つーことで俺は前倒しして、今から仕事してくる!」
「な……」
 ただただ、祥衛は呆然とする。大貴はまたケータイを耳元にあてがっていた。同時に片手を上げて、走ってくるタクシーを止めようとする。
「今からって。制服だし、何も準備してないのに」
「いつも持ち歩いてんだよ。イロイロ。それに学ランって逆に喜ばれるし」
(もちあるいてるって……)
 一体何が入っているのだろう。祥衛は大貴の通学カバンをまじまじと見る。そうしていると大貴の前へ吸い寄せられるようにタクシーが止まった。
「また明日な! 祥衛っ」
 開かれたドアに乗り込み、大貴は電話が繋がったらしく、相手と話しはじめる。
「もしもぉし。あのさ、今から会いたいんだけど。俺っ8時まで待てない──」
 扉が閉まり、走り出してしまったため、その後の会話はわからない。
 走り去る車を眺め、祥衛はまだ少し呆然としていた。
(強引すぎる)
 力づくで事を進められてしまい、まるで置き去りにされた気分だ。
 けれど、嬉しかった。
 もし表情が自由に動くなら、一体自分はいまどんな表情をしているのだろうか? 闇に染まる街角で、祥衛はそんなことを思った。
(俺のことを、人形だとかマネキンみたいとか言う奴もいる。けど……大貴とか、俺のことを分かってくれる奴もいるから……もう、いい……)

 ありがとう。

 小さく呟き、祥衛はFAMILYのビルへ歩き出した。

 祥衛自身は気づいていないが、祥衛の唇はかすかに緩められている。

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