真夜中の処方箋

1 / 5

「ン、風邪だね」
 体温計を見て、怜はそう告げた。
 祥衛はベッドの上で無表情に彼を見つめる。
 たしかに自覚症状はあった。身体が変に熱いし、頭痛もするし、意識がいつもよりぼおっとするから。
「怜、くん……」
「寝てなよ。今日の仕事キャンセルしといてあげるから」
「…………」
 怜はわざとらしい動作で祥衛に見せつけるように、錠剤の瓶を目の前のローテーブルに置く。
「お薬ちゃんと飲むんだよ」
「……あ……。あ、りがとう」 
 良くしてくれる怜に、なんとか感謝の言葉を伝えた。蚊の鳴くような声だったけれど、ちゃんと届いたらしく微笑まれる。ブレスレットと指輪の嵌まった手でくしゃくしゃと髪を撫でられた。
「明日も熱引かなかったら、病院いこうね」
「ん……」
 祥衛が小さく頷くと、怜は部屋を出ていく。じゃねー、と手を振ってから。ちゃんと合鍵で施錠もしていってくれる。
 ひとりきりになった自室、祥衛はいつもよりも熱量の高いため息を零した。

2 / 5

 なぜ風邪をひいてしまったかというと、昼間雨に打たれたせい。
 杏の見舞いに行った帰り道、突然の通り雨に襲われてしまい、濡れながら歩いた。あまり雨がきらいじゃない祥衛にとって、それは苦痛ではなく気にならない。
 銀色の雫を滴らせて、歩きながら思いだしたのは──小さいころに大雨や台風がくると、このまますべて水の底に沈んで、地球ごと全部滅びてくれないかな。とよく祈っていたこと。
 祈りは未だに叶わないな、そんなふうに胸の淵で呟いて、小学校の横を通り過ぎる。此処に通っていた頃は本気ですべて滅亡してくれと呪い続けていたけれど、いまはそうは思わない。
 この世界の良さも見つけつつあるから。
 FAMILYのビルの近くにさしかかったとき雨がやんで、見上げれば陽の光が美しかった。濡れた服はすぐに脱ぎ捨て、温かいシャワーも浴びた。
 それでも間にあわなかったのか、或いは病院ですでに感染されていたのか。
 夕方になり、38℃まで上昇した熱に苦しめられている。
「あぁ…………、」
 微睡みを彷徨うことは出来るけれど、熟睡は出来ない。
 祥衛はゲホ、と咳をしつつ身を起こした。ベッドに座り、額に滲む汗を拭えば、部屋が闇に包まれていることに気づく。
 もう真夜中だということを、引き寄せた携帯電話の時刻を見て把握した。紫帆からのメールと、大貴からのメールが届いている。指先で操作すれば二通とも祥衛を心配してくれる文面だ。
 やっぱり世界はあの頃よりもずいぶんと嬉しいものに変わっている。
 返信はせずに、静かに立ちあがった。いつもにも増してなにも食べていないため、身体がゆらいで転びそうになりつつも、冷蔵庫にすがりつく。
「…………」
 開けてみれば、なにも入っていない。ポカリスエットが飲みたいと、野菜室に顔を突っこんだ姿勢で思う。怜に頼んでみようかとも考えたが、風邪薬をくれたりしたので、これ以上世話をかけるのはいやだ。
 仕方がないから、自分で買いに行こう。
 決めた祥衛はボクサーパンツと裾の長いくたびれた白いシャツ一枚しか着けていない姿から、ジャージに着替える。

3 / 5

 秋口の風は思いのほか心地よい。家の中よりも涼しいくらいだ。
 祥衛はコンビニでポカリスエットとセブンスターのメンソールを買ったあとも、ふらりふらりと路地を歩く。
 無意識のうちに、杏の入院する病院への道を辿っていたらしい。国道にかかる歩道橋の上でそのことに気づいてハッとする。
 立ち止まり、しばらくのあいだ通り過ぎてゆく車のライトを目で追ったりもしたが、ずっとたたずんでいるわけにもいかないので、ふたたび歩き出す。
 やがて、薄暗い街の中に現れるのはデパートの配送センター。この時間はまだ閉まっていて、静かにトラックが並んでいるだけ。此処にときおりシンナーの売人が潜んでいることは、不良しか知らない秘密だ。
「おい」
 その場所にさしかかった祥衛は、声がしてもはじめは気のせいかと思う。けれどそれは幻聴ではなく、本物の声だと気づいた。足音をさせながら背後から浸り寄ってくるからだ。
「欲しいのか?」
 祥衛の外見を見て、真面目な子どもではないと判断したのだろう。中途半端にホスト系の服装をした、安っぽい雰囲気の若者が声をかけてきた。
 祥衛は一瞬なんのことか分からなかったのだが、何秒かのあとに『ああ、ここはあの場所か』と理解する。
「──へえ。中学生? 車に来いよ」
「いい……」
「なんでよ? スリーナインあるよ」
「……いらない」
 掴まれた腕を振りほどき、祥衛は立ち去ろうとした。だが男は祥衛を逃さない。
「いいじゃん、いいじゃん。それ目的で来たんだろ。こんな時間にこんなところ歩いて。もしかして初めてか?」
 ちがう。
 吸ったことは何度もある。スリーナインと呼ばれる、純度の高いトルエンも。時間の流れがおかしくなり蟻の行列がずっと目の前を行進していたり世界がどろどろと溶けて、とっても愉快だった。
 正直、最近もときどきは吸いたくなる。
 でも杏に約束した。もう、こういう悪いことはしないと。
「やめ……」
 男の力は強引で、祥衛の手からは買い物したビニール袋が落ちる。引きずられるように、停車している大型の外車に連れこまれた。
 後部座席は取り払われてマットレスに改造されている。ベッドと変わりがない。
 充満したシンナー臭いその空間になぜか押し倒され、祥衛は驚く。此処はシンナーの売買をする場所ではないのか。

4 / 5

「お前みたいな美人のガキが……、こんなところに一人でくるから悪いんだぞ……!」
 男は祥衛の性別を間違えているのかもしれない。確かに、間違われることは普段からちょくちょくあるし、今日みたいに身体の線が隠れるようなしゃかしゃかしたジャージを着ていると、家出少女に勘違いされることもあった。
「ちが、う……、俺は……」
「ほっそい身体だな、ガリガリじゃねえか!」
 のしかかってくる男は、祥衛の体を衣服越しに撫で回してくる。ラリっているせいで少年だと分からないのか、もしくは少年でも構わないのか。
 ニヤリと笑う男の歯は欠けて、溶けている。まぎれもなく常習者の歯だ。
「嫌、だ……!」
 逃げなければ危ない。祥衛は顔をしかめ、男の腹を肘で突いてみる。それを何度も繰り返したり、蹴ったりもすれば、男の動作がゆるんだ。その隙に祥衛は這い出し、車を降りて走った。ポカリスエットの袋も拾う。
 「待て!」だとか「おい!」だとかの声も聞こえた。けれど耳を貸さず、祥衛は逃げる。
 幸いなことに男は追ってこなかったので、大通りに出たところでスピードをゆるめた。呼吸を乱しながら振り返れば、ぽつぽつと外燈の光がある薄闇だけが広がっている。
「……はぁ…………」
 やられなくてよかった。安堵のため息をこぼすと、祥衛は身体の熱がすこしだけ冷めていることに気がつく。昼間寝込んでいるときはひどいものだったのに、いまはすこしばかりだるい程度。額に手をあててみれば、そこまで熱くない。微熱だ。
 とはいっても、ぶりかえさないとは限らない。早く帰ろうと思って歩き出そうとしたら、クラクションを鳴らされた。
 ──怜の車だ。

5 / 5

 助手席に乗り込むと、サングラス越しに冷ややかな視線を投げられた。
 当然だ。寝ていろと言われていたのに、こんなところで発見されてしまったのだから。
「……ホントにキミは、夜のお散歩が好きなんだね」
 あきれたように言われ、祥衛は外出した理由を説明しようとする。けれど、口を開く前に見破られた。コンビニの袋を持っているからだ。
「俺に言ってくれればさ、良かったのにねえ?」
「……だって…………」
「まあ、祥衛だからね。言えないよねー」
 怜は運転を始めた。ハンドルやギアを触る手には幾つかの指輪が、手首にはブレスレットが光る。さりげなくはだけたシャツの胸元では、揺れるオニキスのネックレス。
 艶々の黒髪を邪魔そうに掻き上げる、いつもながらの怜。
 認識して、なぜだか祥衛は安心して、ほっとした。さきほど襲われかけたせいなのかも知れない。
「どしたの、祥衛」
 様子がおかしいことに気づかれたのか、夜の街を疾走しながらも尋ねられた。祥衛は首を横に振る。
 ……怜は祥衛が答えたがらなければ、それ以上訊いてこない。それが怜の性格だ。
 そのうちに、一台の車にあからさまに煽られる。怜も法律違反の速度なのだが、相手もかなりのもの。外車に若者と、彼女とおぼしき女が乗っている。怜は「あらあら」と普段通りのあっけらかんとした表情で言った。
「喧嘩売る相手考えようよ、女連れなら特に。カノジョにまで危害加えられたら、どうすんだろうねー?」
 赤信号で停車したとき、怜は後部座席の足下に転がっている木刀を、運転席に座ったまま掴み出す。そして車を降りていった。
 こういったことは一度や二度ではないので、祥衛は慣れてしまっている。無表情のままでバックミラーを眺めた。
「…………」
 怜は罵声を浴びせながら木刀でガンガンと窓を突いたり、ドアを蹴ったりする。若者は窓も扉も開けないまま頭を下げまくり、女は泣いているようにも見えた。
「──さ、行こうか。待たせてごめんよ」
 戻ってきた怜はヘラリと笑い、元の場所に木刀を収める。サングラスを指で直し、青信号に変わると柔和な顔でアクセルを踏むいつもの怜に戻った。件の車は動き出さずに停車したままだったが。
「今日も良いことしちゃった。正義は気持ちイイね〜」
「せいぎ……」
「教育だよ、教育。意味もなく挑発したり、戦う覚悟無しに喧嘩を売るのはダメだよってね」
「どこに……行くの……」
 怜は「俺の家だよ」と答える。
「キミをほっとけないよ。なおるまで」
 真夜中の都心を抜ければ、怜の借りている高層マンションが見えてくる。
 優しさに触れて祥衛はビニール袋をぎゅっと握った。嬉しかったけれど、どうしていつも素直に甘えられないのかとも思う。甘えられないから、周りの人たちにこうして気を遣わせてしまってばかり。
 紫帆にも、大貴にも、ちゃんとメールを返そう。
 そんなふうに決めて、窓の外の月と風景を眺めた。
 怜の香水のにおいを感じながら。

E N D