ノン・マスキュラン

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 改札を出ると、広々としたコンコースに迎えられる。天井は高くアーチ型になっていて、現代的で美しいフォルム。まだ陽が高いためか、行き交う人々に学生は少ない。ランチや買物帰りなのだろう、主婦らしき女性の姿が目立った。
 久しぶりに電車を利用した秋山は、様変わりした駅構内に感慨を覚える。最後に此処を通ったのはいつか、全く思い出せない。南口への通路には以前は無かったファーストフード店やパン屋、蕎麦屋等が軒を連ねている。飲食店街のように様変わりした道筋を抜けると、青空広がる駅前広場が見えて来た。
 広場をぐるりと囲むロータリーを左手に進んだ処に在る老舗のカフェ、其処が克己との待ち合わせ場所だ。約束の時刻は三十分以上も過ぎていて、秋山は腕時計をちらと見て歩みを速める。
 店前に行けばテラス席にその姿が見えた。臙脂(えんじ)のパラソルの下で本を開く美女。
 タイトスーツを纏い、組んだ足はベージュのストッキングを履いている。下に着ているのは薄い水色のシャツで、首元にはカルティエのネックレスが光っていた。黒髪はシニヨンスタイルに纏められており、その風貌は何処ぞやの秘書を思わせる。
 視界に克己を認めた瞬間、秋山の心はときめいた。年甲斐も無いと言われてしまえばそれまでだが、秋山は克己に対して恋心を抱いている。このような微熱を抱くのは、学生の頃以来。
「遅いですね」
 入店し、近づいてゆくと克己はやや不機嫌そうに言った。“女性”にしては低い声だが、違和感はない。清涼感のある爽やかな声質だからだろうか。
「悪い悪い。久々に電車に乗ったら、手間取っちまってな」
「電車?」
 意外に思ったのだろう、克己は驚いた表情を作る。閉じた本には書店のブックカバーが掛けられており、題名を窺うことは出来ない。
「いや、会社(おれ)の車乗って岸本がな。能登のほうに旅行いきやがったよ。私用はやめろと言ってあるんだが……」
「それで、社長(あなた)は電車で来たんですか」
「たまには乗ってみようと思ったんだ」
 ウエイトレスが歩み寄り、秋山の前に水とおしぼりを置く。アールグレイを注文すると女は笑顔を浮かべ、席を離れて行った。
 克己を見ると、飲んでいるのはカフェオレらしい。ひとくち味わってから、黒革の鞄へ本をしまう。その鞄は女が持つにはごつい感じもするが、角張った雰囲気は知的なキャリアウーマンらしさを演出もする。
「躾がなっていませんね。飼い犬の手綱は良く引いておくべきです」
 薄くラインを引いてマスカラで縁取られた目は、素顔の克己とはまた違う色気があった。深夜デートも愉しいが、こうして陽光の下で逢うのもいい、秋山はそんなことを思う。
「ねえ、和さん」
「ああ……」
「どうしたんです。俺の顔になにかついていますか」
 テラスにはちらほらと他の客もいる。談笑する女性達や書類に目を通すサラリーマン。けれど克己は憚らずに俺、と一人称を使った。
「いいや。見とれていたんだよ。お前ほど美しい女は他に見たことがない」
 秋山もまた、臆することなく歯の浮くような台詞を奏でる。その言葉に克己はふふ、と口許だけで微笑み、腕を動かして頬杖をついた。
「俺は男ですよ」
「じゃあどうしてそんな格好をする」
「貴方が望むからでしょう」
「俺が止めろと言ったら、やめるのか」
「ええ、直ぐにでも」
 克己は親指を顎の下に滑らせ、そっぽを向いた。横顔もまた美しく、容姿には非の打ち処がない。しかもその表情や動作は全てが妖艶で、対峙していると秋山は惑わされているような心地になる。もちろん、願わくばずっと惑わされていたいのだが。

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 ロータリーを喫茶店とは逆方向、右手に行くと美術館がある。そこで絵を見てから食事をするというのが、二人お決まりのデートコース。
 そして今、秋山は克己の部屋にいた。
 元々、このマンションは秋山が買い与えたもの。決して安い買物ではないが、住ませることで克己を少しは自分のものに出来た気がする。
 克己という存在には掴み処がなく、秋山は長く愛人契約を結んでいるのにも関わらず未だに十分の一も理解出来ていなかった。核心を突く質問をしてもうまくはぐらかされるし、この家に住んでくれているのかさえも実際の処は分からない。他に本当の家があるのかも分からず、いや、ひょっとすると違う愛人か、恋人と暮らしているのでは──そのような疑惑は尽きずに芽生え、とどまることを知らない。
 克己を擁する者は秋山一人だけでなく、パトロンは無数にいる。しかしそれを全く悟らせない克己に秋山は感嘆すると同時に忌々しくも思った。この女狐が、そんな風に胸の内で呟いてみたことも一度や二度ではない。
 けれど結局は克己の作る巧みな嘘に居心地の良さを感じている。おのれだけの相手をしてくれているような錯覚、それに酔っていたかった。錯覚だということを忘れるほど秋山も愚かではなく、克己が有能な男娼であることは承知している、けれども嘘に酔っていたい。
 嘘の世界に浸るうち、秋山は〈本当の克己〉を知りたいとは思わなくなった。
 以前耳にした艶聞──克己が本当に想い寄せる相手はあの越前谷の婦人だという噂。現在も彼女と月に一度は密会する、その話を聞いた時は裏切られたような心地になり、愕然とした。早速呼びつけると事の真相を尋ね、問いつめてみる。すると克己はいつもと変わらぬ涼やかな顔でええ過去の話ですよと言い、現在のことは否定したうえで、十代の頃に過ごしたという彼女との蜜月を教えてくれた。
 その時に感じた絶望感。未だに秋山の中では『聞かなければ良かった』と後悔の念が残っている。自分の理想の克己像が壊れてゆくような気がして怖くなった。秋山の〈克己〉は女性などに興味は無く、不義を犯すような真似もしない。
 もうひとつ、秋山が現実に目を背けるようになった原因がある。克己が本当に此処で暮らしているのかを確かめたくなって、酔った勢いでFAMILYのビルの下張り込んだ夜があった。物陰に隠れていると午前三時頃、青年姿でスーツを着た克己がエントランスに現れる。後を尾けようとしたとき、克己の元に一人の男が寄って来た。
「克己君!」
 男は夜更けだというのに大声を出す。縋り付くように克己の袖口を掴み、よろよろと地面に膝を落としてしまう。
「どうして電話に出てくれないの、ぼくを棄てないで。棄てないでください」
 泣きじゃくるように訴える彼の手。それを克己は叩き落とすように払いのけた。階段下の蛍光灯が照らす克己の顔は冷徹で、感情を表していない。
「駄犬」
 舌打ちとともに言い捨てる言葉は低く、立ち聞きをする秋山も戦慄を覚える。いつもの克己からは想像出来ない語調だ。
「盗聴器もお前だろう。つきまとうのもいい加減にしろ」
「だ、だって、ぼく好きなんだ、ずっと好きなんだ」
「金も無い癖に」
 克己は鼻で笑うと、跪く男の腹を革靴で抉った。
「俺を怒らせないほうがいい」
「克己く……」
 克己は人差し指で彼の眉間を押す。縁取られた影はその動作を儀式のように崇高にかたどり、秋山は思わず見入ってしまう。
「お前も、命は惜しいだろう。俺に深入りするのはやめろ。忠告しても、愚鈍なお前はどうせ……自滅するんだろうがな?」
「ああ、きれいだ、克己君……」
 男はこの期に及んでも、克己を見上げて恍惚としている。克己がため息を吐いたのが秋山に届き、伝わった。
「気違い沙汰か」
「かつ……」
「気が変わった。今日で終わらせてあげましょう」
 克己は携帯電話を取り出すと、その場で誰かと会話した。短いやりとりのあとすぐに電話をしまい、男に──さようなら。と一言告げる。
「待って。克己くん、克己くん」
   飼い主に捨て置かれた子犬のように男は鳴く。秋山は克己を追うことができなかった。もちろん、この後男がどうなるのかを目にする勇気もない。当然のごとく酔いは醒め、逃げるように帰宅した肌寒いアノ夜。
 克己という青年の本来の姿など、知りたくはない。真実などには興味は無い。男娼の仮面と設定で接してくれれば、作られた世界観と〈克己〉で逢ってくれれば秋山はそれでいいのだ。

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 克己と秋山は激しくもつれあった。手入れの行き届いた克己の肌は滑らかで、身を寄せていると心地が良い。とても無数の男達と性を貪っているとは思えない、清純ささえも感じる肉体だ。
 行為の余韻をたゆたいながら、秋山はシャワーを終える。腰にタオルを巻いて出ると、籐椅子に座る美青年の姿があった。
 素肌にバスローブをまとう彼は長い手足をもてあますようにゆったりとした体勢で背に凭れ、硝子の円卓にノートパソコンを開いている。キーボードを跳ねる指先、軽妙な運指が紡ぐ小気味良い打鍵音を聞きながら近づくと、克己は視線を画面に落としたままで口を開いた。
「能登は雨のようですよ」
「ん、」
「貴方の車を横取りした罰だ」
 部屋に置かれたTVには天気予報が表示されている。秋山はベッドの隅に腰掛け、ずらりと並ぶ本棚の書物を眺めた。
 本は持ち主の嗜好を語るというが、此処にある本は“本当に”克己の趣味で選ばれたものなのだろうか。秋山の理想に合わせ演じる〈克己〉の設定で集めたのか。そもそも克己は読書好きな青年なのか? 秋山の前だけで本を愛するのか? 確かなことは一つも分からない。
 部屋からして生活臭というものが存在しない。まるでモデルルームの一室のようで、此処で寝起きし日々を過ごす克己というものを秋山は全く想像出来なかった。
 でも、それで良い。
「そういう発言が女々しいんだ」
 秋山は笑い、サイドテーブルに置かれたパーラメントを手に取った。キン、と閃くデュポンの音。火を点けると克己は指を止め、立ち上がる。
「何か飲みますか」
「いや、いいよ。それよりおまえ、」
 質問が端折られたのは克己が隣に来たからだ。ウイッグも外し化粧も落とし、男の姿となった克己もまた良いものだった。清廉に整った顔立ちは極上の美貌で、左目下に添えられた泣きぼくろがまた秀逸な位置に有り、色香を醸している。
「他にも予約あるんじゃないのか。俺以外にも客が──」
「今日は和さんだけですよ」
 克己は寄り添うと秋山の手から煙草を取り上げた。己の唇に挟み、味わっている。娼婦じみた所作に秋山はまた心惑わされた。
「いいのか」
「何が?」
「俺だけで一日を潰して」
「貴方は特別ですから」
 いったい、どれだけの人間にこのような言葉を吐いているんだろう。煙とともに吐き出される嘘に秋山は微笑った。
「この仕事を辞めたら貴方の妻になっても良い。炊事も洗濯も……何でもします」
「はは、主婦は無理だろう。おまえはどう見ても娼婦だ」
 実現することのない架空の話。引退したら貯めに貯めた巨額を持ち、越前谷の女と逃げる癖に。秋山はそう思っていた。
「失礼ですね。俺ほど夫に尽くす良妻はいないと思いますが」
「そう自分で言う処が、娼婦型さ」
 克己は灰皿を引き寄せ、灰を指先で落とす。そして滑るような動作で秋山の口に煙草をくわえさせる。
「愛していますよ、和孝さん」
 耳元で囁き、克己はシーツに倒れ込んだ。秋山は瞼を閉じる。この部屋はつかの間の夢だ。きっと克己は或る日突然姿を消す。それは安易に予想出来る結末。
「俺もさ、克己」
 煙草を消すと秋山は克己を掻き抱いた。艶やかな素肌からは白蓮の香りがし、それは秋山を底なしの官能に誘い込む。
 砂の城はいつ崩れるのだろう?

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