Rumble Fish

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 壁に貼られた一枚の色褪せた写真。其処に写るひとりの外国人が、少年の父親だった。
 母親は彼を《クロヤナギ》と呼び、いつかクロヤナギが迎えにきてくれるわ……と、毎日のように呟きつづけた。いつまで経っても迎えに来ないクロヤナギを待ったまま母親は病死した。少年が十五歳のときだ。

「ヤナギ、今日も仕事か?」
「もちろんだよ」
 スラムの売店主に話しかけられてヤナギは頷く。母が繰り返し口にしつづけた名はいつしか、なぜだか息子のあだ名になり、ちぢんで、ヤナギになった。
 本名がなんだったのかヤナギ自身は忘れてしまったし、周りの人々も気にしない。戸籍の有無さえあやふやな街では、出生名など、どうでもいい情報にすぎない。
「働きすぎだよ、ヤナギは。いまに身体壊しちまう」
 瓶のぬるいコーラを買い、その場で飲み干してしまった。カブで職場に向かう。土気色の空の下、ごったがえす人と人のあいだをぬって走ることなんて慣れきっている。
 ヤナギは貯金をしていた、日本に行ってみたいから。
 母のように父を信じているわけじゃない。本国には妻子がいて、のんきにくらしていることだろうと思う。遠く離れた異国に愛人を作ったことは無かったことのようにして。
 それでも、自分に流れている血の国にいちど行ってみたい。
 きらびやかな路地が見えてきた。ヤナギが働いているのは観光客も多く訪れるメインストリートからは一本裏にあるキャバレーで、それなりに豪奢であり、この界隈では格式も高い。
 裏口にカブを停め、建物に入った。控室や、廊下や、就業前の店内では年若い少女たちが化粧をしていたり、今宵の衣装を選んでいる。
 彼らはまだ幸運な少女たちで、金銭的にも恵まれていた。学校に通えている者もいると聞く。また清潔で、少女にあてがわれる客も紳士なほうだった。
 此処より酷い場所をヤナギはいくつも知っている。
 たとえば10代の頃、おそろしく低賃金な工場で働きながら、路上に立って売春をしていたときに何度も見た──朝の街角、娼窟から出てきた大人が放り投げたゴミ袋に子どもが詰められていて、他のゴミと同じく回収車に積まれていった。
 レイプの際に感染された悪質な病気で命を落とした初恋の少女。
 挙げればおびただしく、日常茶飯事で、ヤナギもその現実と背中あわせではあった。
 けれどヤナギは死を迎えるほど飢えることはなく、中等教育までも受けられた。それは父親からの仕送りのおかげもある。ずいぶん前に途絶えてしまったけれど。
 ヤナギは白のワイシャツに黒いスラックスを履く。タイも結んで、前髪をあげる。日本人など裕福な外国人の宿泊する高級施設のホテルマンや、ボーイと比べても遜色しない容姿だ。なおかつ、母に教えてもらった日本語を話せるのでヤナギは雇われている。
「ヤナギならメインストリートの星付きホテルでも働けるのにねー」
 めかしこんだ少女たちがタバコを吸いながら話す。
「マダムのお気に入りだから、マダムが離さないんだよ」
「ねえねぇ、ヤナギはマダムの情夫(イロ)だってお話、本当なの?」
 マダムとはこの娼館の経営者のこと。女は何歳でも、根も葉もないウワサ話が好きだ。
「ほうら、オープンの時間だぞ」
 彼女たちを追い払いかけたヤナギだったが、ひとりの少女の髪飾りがずれていることに気づき、手早く直してやった。

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 ライトの下で少女たちが踊る。ダンサーよりも幼年の女の子は給仕をしたり、料理など雑務の手伝いをこなしていたが、指名が入ればステージの娘たちとおなじように客席に座り、客の相手をしていた。客は金を積むことで愛らしい従業員を店外に連れだすことができる。そこからは『自由恋愛』で、店の感知するところではないのだ。
 ヤナギはいつものようにウェイターとして働いた。カウンターではシェイクを振ってカクテルも作るし、銀色の盆にグラスや皿を乗せて運ぶ途中に、客に呼びとめられて「あの子を」と告げられたりする。その場合、腰を折り、希望の『商品』を席に連れてくる。
 今宵はひときわ目を惹く美男の客がいた。
 日本人のビジネスマンらしき集団にいるひとりの男。長身で大柄、長い足を持てあますように座り、色素も薄い。日本人にはあまり見えなかった。
 容姿だけでなく、行動も特異だ。気に入った女の子を席につけている他の客たちとは違い、ひとり、ワインを味わっている。
 退屈そうだった。
 気に入る子は、いないのだろうか。
 遠目に見ていたヤナギは彼のテーブルに呼ばれる。
 男は驚くべきことばを告げた。
「ひと通り眺めたが、きみがこの店で一番の上玉だな」
 ……耳を疑った。
 青年のヤナギにそんなことを告げる者はこの場所にはいない。
「は?」
 思わず目を見開いてしまったヤナギに男は命じた。
「座れ」
「真堂社長、男色を嗜むという噂はあったが、此処にきても貫くのかい?」
 周りの男達は笑っている。場はほがらかだ。
 ヤナギはいまだ突っ立ったまま、男の左手に結婚指輪を見つけた。
「ワインを注いでくれ。駄目か?」
 いつまで経ってもたじろいでいるヤナギを、男が仰ぐ。端正な顔立ちを間近で見ると息を呑みそうになった。日本語を話してはいるが、やっぱり、日本人離れした容姿だと思った。
「……か、かしこまりました」
 ヤナギはやっと男のとなりに腰を下ろす。キャバレーの座席に営業中、座るのははじめてだ。
 他のウェイターたちも何事かとこちらを見ている。あとでからかわれてしまうだろうと、ヤナギは覚悟する。

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 暖色の灯りに満たされた高級ホテルの一室、ヤナギはシャワーを浴びている。バスルームだけでも、ヤナギの暮らす簡素なアパートとおなじくらいの広さだ。
 いまだに信じられずにいる。ウェイターの自分が『店外恋愛』を申しこまれ、抱かれてしまったことを。呆然としながら、タイルを伝う水滴を眺めている。
 同性に犯されたのはストリートで売春をしていたとき以来だった。
 女のように鳴いてしまったことも信じられずに半ば放心状態でいる。キスにも、男とする行為にもこんな快楽があるなんて初めて教えられた。苦痛でしかないはずだった。
「ずいぶんと長いシャワーだったな」
 髪を乾かし、私服を着てベッドサイドに戻ると、崇史はバスローブ姿で英字新聞を広げている。
「心境の整理をしていたものですから……」
「まさか、初めてだったわけでもないだろう?」
「こんなに感じてしまったのは、初めてです」
 正直に吐露すると、崇史は薄笑んだ。端正な顔がくしゃっと崩れるのもヤナギには魅力的に映る。
「きみの仕事の上質さは店で見た。子守りも得意そうだ。日本語も流暢で問題ない。どうだ、我が家の執事でも務めてみないか?」
「ご冗談はやめて下さい」
 とても真意には思えなかった。だが、崇史はヤナギを真顔で見ている。
「俺は嘘などつかない」
「……」
「先程、日本に来たいと話していただろう」
 確かに、酒の相手をしながら雑談したが、誘われるとは思ってもいなかった。
「日本人を信じるのは怖いです。母さんは日本の男を待ち続けて、ついに帰って来なかったから」
「俺はスウェーデン人の祖父を持つ、クォーターだ」
「だから信じろと……?」
 ヤナギは笑った。

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 クロヤナギは漢字で黒柳と書くとはじめて知った。ヤナギは崇史の屋敷の執事になった日から黒柳と名乗ることにした。
 粉雪の舞う日に父親の自宅を尋ねる。彼の家は横浜にあった。黒柳と表札のされた立派な一軒家から、四人家族が談笑しつつ出てくる。そのなかには母親が大事にしていたあの写真に写っている男の姿もあり、もちろん、写真よりも老けている。
 男の子と女の子、美人の妻、若気の至りで異国の女とのあいだに子どもを作ってしまった彼。
 幸せそうな家族を遠くから眺め、気づけば黒柳も微笑っていた。何処に出かけるのか、歩き去る彼らに背を向け、満足して東京に帰る。
 あの男が幸せに生きているとわかっただけで母親は良しとするだろう。そういう女だ。
 そして、黒柳は母親によく似ているのだ。

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 性虐待を受けた後の大貴に、紅茶やハーブティーを供してやるのは執事としての習慣だ。
 ノックをしてから入室すると、ベッドでは父子が雑談している。小五の夏に真堂邸を出た大貴だったが、連休などを利用し、ときどき戻ってきた。
「あ! 今日のお茶はなに?」
 黒柳を見て、大貴はねそべっていた身体を起こす。ボクサーパンツにガウンだけを羽織った素肌にはキスマークの他、鞭痕もある。ただ、長期休暇ではないせいか手加減されていて、すぐに消えてしまうような刻みかただった。
「クリッパーのアールグレイティーでございます」
 サイドテーブルに一式を置いてやり、目の前でカップに注ぎこむ。
 幼いころにはお茶に鎮静剤を混ぜて落ち着かせたり、睡眠薬を飲ませてやったりもしたが、中学生になった大貴は泣きだしてしまうことはあっても、ひどく取り乱しはせずに辛い行為を受け止め、処方をするのは稀になった。飲ませるとしてもごく弱い薬である。
「ありがと。黒柳、俺の好みわかってる!」
 屈託のない笑みでそう言われると嬉しく、黒柳も素で口許をゆるめてしまう。崇史は紅茶を飲むこともなく、ベッドから立ちあがる。今日は地方支社に行く用向きがあり、夜明けとともに東京を発つスケジュールだ。
「もういくの? ぜんぜん寝てねーじゃん」
「移動中に仮眠する」
「はやく大人になって、親父の会社で働きたいなー」
 カップを両手で持つ大貴に、崇史は微笑した。
 黒柳の手伝いをそう受けることもなく、崇史は着替え、用意をして、私室を後にしてしまう。
 大貴もスリッパを履いて玄関までついてきた。
 素足をあらわに歩きながらも大貴は無邪気に崇史に話し、崇史は相槌をうつ。
 薄闇の廊下、彼らの背後を続く黒柳はいつもながらに羨ましくなった。黒柳は実の父親と会話した記憶がほとんどない。
「パパ、いってらっしゃい」
 靴を履く崇史に、大貴はすこしさみしそうに言う。扉はすでにお抱え運転手の桐島が開けている。
「昼にはお前も経つんだったな」
「うん……」
「令嬢にも宜しく伝えておいてくれ」
 崇史は大貴にキスをした。大貴の表情から翳りが薄まる。唇はすぐに離れた。
「いってらっしゃいませ」
 黒柳も見送る。玄関のドアが閉まると、大貴はくるりと踵を返した。
「……黒柳っ、俺に添い寝しろよっ。俺がさみしいだろ」
 不遜な態度で甘えられるのは、なんだかおかしい。
「二年生になられましたのに、まだおひとりで眠れませんか、大貴おぼっちゃまは」
「うるせーなー……おぼっちゃまってよぶなよ。次ゆったら、あたらしい道具の練習台にしてやるからな」
「大貴おぼっちゃまのご成長のためならば、悦んで犠牲となりましょう」
 胸に手をあてると、大貴は呆れた視線を投げてくる。
「……で、いっしょに寝てくれんの?」
 階段の前で大貴は立ち止まった。
「夜着に着替えてまいりますので、少々お待ちいただくことになりますが」
「やったっ。俺のベッドで待ってる!」
 ふふん、と笑って、大貴は機嫌よく上ってゆく。背も伸びて声変わりもして、年々崇史に似てゆく大貴の成長が末恐ろしいとともに黒柳には楽しみだ。
 若いころ、この国に来ることを目標に生きてきた。真堂家に仕えることができて幸せだと黒柳は思っている。故郷に帰るのはまだ先のことになりそうだ。

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