Sugar Rose

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 男娼の仕事を終えて事務所に戻ると、すぐにワイシャツとスラックスに着替えた。けばけばしいドレスを脱ぎ捨て、網タイツも放る。装飾品の類いもすべて外すと、給湯室の流しで顔を洗い、化粧も落としてしまう。ついでに歯も磨いて念入りにうがいをした。一連の動作は習慣として身についていて、無意識の行動に近い。
 平行してお湯を沸かしているので、濡れた口許をタオルで拭くころには頃合いだ。ひとりぶんのインスタントコーヒーをつくると、ブラックを啜りながら自分の机に向かった。
「やっぱりな」
 カップを手に窓際に寄ると、思わずひとりごとが漏れる。同時にため息も零れた。ブラインドのスキ間から道路を見下ろせば、車が停まっている。闇に潜む黒色のセダン。忌々しさに眉根を寄せてしまうと、俺は指先で広げていたブラインドを戻す。
 客と逢瀬したシティホテルを出たときから、ヤツがつけていたことには気づいていた。撒いたところで、俺の帰る先はこのビルだと知れている。タクシーの運転手には無駄な迂回などさせず走らせた。
 仕事柄、ストーカーには慣れている。俺の営業方法が勘違いを起こさせやすいことも自覚しているし、扱う人数が多くなればひとりひとりに綿密なケアをするのは難しい。それをなんとかこなすのが一流の高級男娼なのだろうが、最近は経理・事務作業が忙しく色恋がおざなりになっていた。連絡の頻度が落ちているのも認める。そのせいで、繁盛期は必ずといっていいほど客のうちひとりふたり脳をこじらせる……梅雨時に湧く雑菌と似ている。
 さて、誰だろう。タクシーのバックミラーからではよく見えず運転手を確認出来なかった。最近のやりとりのなかでおかしな言動をしていた客はいないかと思考を巡らせかけたが、変態の男どもは平素から発狂しているんじゃないかというような態度の者も少なくないので、紛らわしく、わからない。
 推察せずとも、つけられているうちに正体はわかるだろう。俺はコーヒーカップをデスクに置くと、ノートPCを起動させる。

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 経理業務にキリがついたのは午前四時で、外を窺えばあの車はまだ停まっていた。警戒しつつも、俺に平常の生活サイクルを崩す気は毛頭ない。ビルに泊まり込むことはせず、一度は帰宅するようにしている。わずかな時間でもプライベートを過ごしたほうが疲れもとれるし、なにより気分転換になる。
 尾行されていることを四季彩に連絡する気もなかった。こんなことはしょっちゅうだし、彼らに頼るのはもっと事態が緊迫してからでいい。
 俺は裏口にタクシーを呼んだ。乗り込めばサラリーマンだと思われているのだろう、徹夜でお仕事ですか、と話された。ええ、まあ、と返し、俺は道順を指図する。
 パトロンたちに与えられたいくつもの住み処のうち、今日は海沿いのタワーマンションに行くことにした。
 いつもなら車内でわずかな仮眠もできるのに、例のセダンを警戒しているので瞑目することができない。少々の苛立ちを噛み殺しながらも、手帳を開いたり、仕事用のスマートフォンで簡単なメールを打ったりした。老人など早起きの客や、夜勤明けの客はこの時間に連絡してくる。
 幸い、ストーカーは追ってこなかった。なにごともなく目的地に着き、カードキーで厳重に管理された室内へと向かう。この住宅のセキュリティは警備員も常駐しているほどの念の入れようで、別宅に使っている芸能人などもいるという話だ。
 俺の部屋は七階に属し、室内に階段があり吹き抜けになっている。デザイナーズマンションの趣きで、ロフトがふたつあり、浴室の壁はガラス張り。
 与えられている家すべての掃除をするひまなど俺にはない。掃除は業者に頼んでいるため、いつ来ても清潔に保たれている。今日ももちろん塵ひとつ落ちておらず、仕事ぶりに俺は満足した。シャワーを浴びてバスローブに着替えると、少しだけワインを飲む。早百合様から頂いた白ワインは薔薇の香りだ。

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 起床して留守電を確認すると、昼に逢うはずだった客から断りの連絡が入っていた。急な会議だそうだ。
 使えない男だ、と舌打ちをして、代替の客を探す。だがすぐに思い直し、空きの時間を休息に使うことにした。今日は昼までゆったりと過ごそう。ストーカーのせいで若干の苛立ちを感じているので、神経の棘を抜いてやるのが良い。ストレスをためこむと仕事にも支障が出る。
 ストレッチを終えたあと、下着にワイシャツを羽織っただけの怠惰な姿でノートPCを開いた。ひととおりのニュースや株価などを見てから、客たちに連絡を取る。メールの場合は定型文を使ったりもして効率的に行う。
 本来ならば逢瀬の準備をはじめる時刻、ルーティンワークを終えた俺はブランチに出かけることにした。
 スーツの上着は羽織らず、スラックスとシャツだけで部屋をあとにする。エントランスへと降りたときに多少、警戒もしたが、あのセダンはいないし、不審人物もいない。
 俺は海沿いの道をぶらぶらと歩きはじめた。目の前の波間は観光用のものではなく、水色もよどんでいる。それでも一応遊歩道は整備されているし、海鳥たちが鳴きながら空を旋回したりもするので、悪くない雰囲気だ。たまにはこうやってのんびり散策するのもいいなと思う。
 港近くのカフェテリアに入ると、窓際の席に座った。注文するのはサラダとジェノヴェーゼ。食後にはエスプレッソを飲みながら、持ってきた文庫本を読みふける。
 ある瞬間、俺の隣席に座る客があらわれた。ストーカーの件もあったので、ちらりと相手を確認する。
 すると、その客は女優帽を深く被ったマキシドレスの女で、銀色の盆にはロイヤルミルクティーのグラスを乗せていた。

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 彼女に持たされているスマートフォンは、俺がどこにいるかの位置情報を逐一、彼女に送る。だからこうして不意に姿を現されることは稀じゃない。
「丁度良い。聞いてくれませんか」
 テーブルに放り出していた仕事用とプライベート用、二台の端末の横に、俺は文庫本を置いた。栞をはさみ、きちんとページを閉じる。
「厭だわ、克己ちゃん、眉間に皴が寄ると奇麗な顔がだいなしよ」
 早百合様は俺の額に人さし指をあてた。同時に、俺はため息を漏らしてしまう。
「尾行られていたんですよ、昨夜も」
「克己ちゃんったら、しょっちゅうだれかに追いかけ回されているわねえ」
「笑い事じゃありません」
 しばらくクスクスと笑ってから、早百合様は唇を閉じる。笑みのように歪めてから、思わぬ答えを俺にくれた。
「あなたを尾行けていたのはわたくしの愛人。最近の新入りなのよ」
「……それはそれは。きちんと躾を施して頂けませんか?」
「いま、お灸を据えているところ。あなたに嫉妬するあまり、衝動的に追いかけたんですって」
「俺に嫉妬ですか。下らない。俺も愛人に過ぎないでしょう、同じ穴の狢だ」
「克己ちゃんは本命よ。あの男たちとは全くの別物!」
 夫に先立たれてからというもの、若い男をはべらせて暮らす早百合様は俺の腕に腕を絡ませてそう言う。
 飽き性なために愛人集団のメンバーはわりと頻繁に入れ替り、ときには俺が適当な人材を見繕い、補充するときもある。性に奔放な早百合様も相当に変わっているが、好きな女に男の都合をつける俺もまっとうな神経の人間ではないのだろうなと自覚はしていた。
「あやまりにきたのよ、だから。ごめんなさいね」
「ただでさえストーカーには手を焼いているんですから、あなたの取り巻きにまで尾行されたくはないです」
「ごめんなさいって、言っているじゃないのよ。じゃあその子とは縁を切るわ。それでいいでしょう?」
「随分と簡単に言いますね」
 擦り寄られながらも呆れたように返すと、早百合様は爪をたてて微笑う。その表情は彼女の見せてくれる表情の中でもわりと好きな顔だ。
「だって、わたくし、克己ちゃんを困らせたくないもの……所詮あなた以外の男なんてすべて暇潰しでしかないのよねえ」
「怖い人だ。情夫たちが、不憫に思えてきました」
「克己ちゃんだって人のことを言えないわぁ。お客さまのこと物みたいに扱ってるじゃないの」
 責めるように、俺の腿を何度か叩く。その通りなので反論せず、俺はコーヒーカップに口をつけた。苦味を味わうと、ふいに甘いものを食べたいような気分になり、ドルチェの並ぶショーケースへと目線をやる。
「どうですか、奥様も」
「? なあに、克己ちゃん。……食べたいの?」
 早百合様はセンチュリーの腕時計を見て、少し迷ったようなそぶりを見せてから、いただいていこうかしらとはにかんだ。俺達は早百合様の愛人のひとりが迎えにくるまで、甘い舌触りと会話を楽しむ。
 思いのほかすっきりと正体が分かったので、もう苛立ちはない。午後の男娼業は集中して取り組めそうだ──

E N D