雨情

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「それでは私、行って参りますので」

 玄関の戸を開ける前に、春江は振り向いた。
 今宵、春江が通っていた中学校の同窓会が行われるらしい。
 そのため、春江は華やかな装いをしている。
 よそ行きの着物に新調した帯を締め、髪型も化粧も普段より派手だ。

「なるべく早く帰って来ます」
「別にいい。ゆっくりして来れば良いだろう」

 見送る健次がそう言うと、春江は、でも、と言葉を続けた。

「私は相沢家の家政婦です、お勤めをおろそかにする訳には──」
「気にするな。……お前はいつも、良くしてくれている。息抜きも必要なんじゃないのか。たまにはな」
「健次さま……」

 優しい健次の言葉に、春江は一瞬、驚いたような顔をする。
 そして次の瞬間、嬉しそうに口元を緩ませて、頭を垂れた。

「ありがとうございます、私、わたし……」
「早く行け。遅れるぞ」
「はいっ」
 
 春江は顔を上げる。
 そしてもう一度柔和な笑みを零してから、くるりと前を向き扉を開けた。
 空は今にも雫が降ってきそうに重い、曇り空。
 傘を持って歩き出す春江の後ろ姿を見送ってから、健次は鍵を閉める。

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 春江が作り置いてくれた食事を平らげてから、健次は独り酒を飲んでいた。
 ──そのうちにうたた寝していたようだ、携帯電話の着信音で、健次は目覚めた。
 突っ伏した腕から顔を上げて、机に置いた携帯を取る。
 表示されている名前は“斉藤 怜”

『あー健次ぃ? 今さ、俺、健次の家の近くにいるんだよねー』

 通話ボタンを押すと、途端に溢れるのは独特の間の抜けた声。

『越前谷サンとこ寄った帰りでさぁ。あー疲れちゃったな、介護』
「介護?」
『クソじじいのお相手』

 その言い方に、健次は軽く笑ってしまう。
 四季彩を牛耳る、越前谷家の者達のことだろう。

『嫌になっちゃったから、克己くん置いて逃げてきたんだ』
「薄情なヤツだな。克己今頃輪姦されてんじゃねぇのか」
『そーだねぇー。あはは。可哀相だねぇ』

 全く可哀相に思っていなさそうな口調で、怜はそう言った。

『……よっ、と。んー、相変わらず健次ん家の駐車場って、停めにくいな〜』
「おい。何勝手に……」

 どうやら怜は相沢邸に上がり込むつもりらしく、勝手に車を停めているようだ。
 健次が眉間に皺を寄せると、次の瞬間。
 来客を知らせるチャイムが響いた。
 舌打ちしつつ、健次は髪を掻く。

 立ち上がる間にもピンポンピンポンと無意味に何度も押されるチャイム。
 廊下を歩いて玄関に行くと、引き戸を開けた。

「煩い。一回押せば分かるぞ、馬鹿かきさまは……」
「今晩はぁ。どうもお邪魔しまぁす」

 怜は敷居をまたぐと、靴を脱ぐ。
 健次は、怜の目的がすぐに分かった。
 どうせ、春江に食事を作ってもらうのが目当てである。

「春江さ〜んっ。いつもおキレイな春江お姉様は何処、何処?」
「居ないぞ、今日は」
「えぇええええっ!」

 廊下を歩きはじめていた怜は、目を見開いて後ろの健次を振り返る。

「えぇ、どうして?! 喧嘩したぁ? 春江お姉様、実家帰っちゃったぁ?」
「……お前の思考回路は何なんだ?」
「何があったのさぁ、健次」
「同窓会に行っただけだ」
「どーそーかい、ねぇ……」

 立ち止まった怜は肩をすくめ、ため息を吐いた。
 心底残念そうな様子である。

「そんなに春江のメシが食いたいんだったら日を改めろ。帰れ」
「ヤだよ、せっかく寄ったんだから。あ、じゃあ俺がごはん作ってア・ゲ・ル」

 怜は悪戯を思いついた子供のような微笑を零し、唇に人差し指を当てる。

「俺はもう食った。いらねぇ」
「え?」
「勝手に作って勝手に食ってろ」

 冷たく言って怜の肩を押しのけ、健次は居間に戻った。
 じゃあおコトバに甘えて、との返事を返し、怜は台所へと行ってしまう。

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 遠慮という言葉を知らない、怜という男。
 相沢家の冷蔵庫を勝手に漁り、鍋やらフライパンやら使って自分の為だけに夕食を作る。
 チャーハン・餃子・野菜とビーフンの炒め物・卵スープが完成すると、居間の机に並べて食べ始めた。

「頂きマース♪ あ〜やっとご飯食べれるぅ、朝から何にも食べてないんだよねー、忙しくって」
 
 嬉しそうに手を合わせて微笑む怜に、健次は(コイツ本当に作りやがった)と呆れながらも尋ねる。

「仕事だったのか?」
「ウン。AVの撮影と乱交パーティーの打ち合わせと越前谷サンとこの会議と」
「ほう……」

 興味がなさそうに返事をして、健次はリモコンを手に、TVのチャンネルを変えた。
 見ていたプロ野球中継も終わってしまって、面白そうな番組は何もやっていない。

「わぁ美味しい、やっぱ俺って天才かも、何でも出来ちゃうなぁー」

 自分の作ったおかずを食し、怜はご満悦といった様子である。
 健次はTVの電源を消した。

「あれ、テレビ見ないの」
「風呂入って寝る」
「えぇっ!」

 空になったビールの缶を手に立ち上がる健次の姿を、怜は驚いて見上げる。

「健次クン、客来てんのにそりゃ無いでしょー?」
「てめえが勝手に居座ってるだけじゃねえか」
「あー、ひどぉーい」

 部屋を出て行く健次の背中を眺めつつ、怜はわざとらしく拗ねた声を出す。

「健次クンったらツンデレなんだから。本当は嬉しいんだよね、俺が遊びに来て」
「……本当にお前の思考回路は腐ってるな」

 台所の流しに缶を置いて、健次は返事をする。

「それに今日月曜だよ、テレビ消しちゃだめだよー、紗季ちゃんが今週、長谷川先輩にコクられるらしいからさっ」

 もぐもぐと食べながら怜はリモコンを手にし、再びTVをつけた。
 画面に映し出されるのは9時から放送しているドラマ。

「うわ、長谷川先輩の車に乗ってる! 急展開じゃないかっ」

 一人で盛り上がっている怜をよそに、健次は風呂場へ向かった。

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「ねぇ健次、本当に寝ちゃうのー?」

 寝室に布団を敷く健次を、怜は襖の隙間から覗いている。
 そんな怜を気にすることもなく就寝の準備を終え、健次は部屋の明かりを消した。

「ちょっとー酷いよ健次ィ〜」
「煩い」
「健次〜……」

 暗闇の中でわざとらしくいじけた声を出す怜の前、健次は横たわり、枕に頭を埋める。
 健次は本当に眠ろうとしている──しかし、ここでおとなしく帰る怜ではない。
 怜はそっと襖を開けた。
 畳を踏んで部屋に入り込み、健次の傍らに腰を下ろす。

「俺さ、ヒマなんだよねー。もう少し起きててよ、おしゃべりしようよ〜」

 話しかけても、健次はもう返事もしてくれない。
 怜は拗ねた表情をつくり、唇を尖らせた。

「なんだったら、えっちしてもいいしさぁ〜。俺が女のコ役でいいから」

 ゆっくりと体勢を崩し、怜は健次に沿うように横たわる。
 健次の眉間に、鬱陶しげに皺が寄った。

「馬鹿だろ、お前……」
「悪いようにはしないよ。いいじゃん」

 顔を近づけられ、健次は布団から腕を出して怜を押しのける。

「いい加減にしやがれ、気色悪りぃんだ」
「わ、怒んないでよ!」
「居間で大人しくテレビでも見てろ!」

 怜を蹴り飛ばし、健次は頭から布団を被った。
 拒絶されたことよりも『帰れ』と言われなかったことが嬉しかった怜は、蹴られた腕を擦りながらその場でニコニコと微笑む。
 ……怜がこれで諦める訳がなかった。

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(…………)

 触れられた瞬間から健次の意識はすこしずつ眠りから剥がされていった。気づきながらも黙していると次第に大胆になり、舐め回される。
 股の間に舌の感触が走り、蠢く。

(この阿呆……)

 さすがに目蓋を開くと中途半端に下を脱がされ、健次のペニスは、怜に銜えられている。

「あ。起きたァ」

 口を離した怜は、健次の顔を見る。

「コッチももう起きてるよ、ふふっ、大っきくて舐めごたえがあって、美味しい……」

 唾液で濡れた肉棒をグチュグチュと扱き、怜は微笑を浮かべる。
 妖しい微笑み──

「……離れろ」

 快感が芽生えている中で、健次は怜を振りほどこうとする。
 しかし、怜は健次の腰に強くしがみついた。

「離れない」

 怜は仄暗い中で、クスリと笑う。
 その表情は妖しい。
 口元は柔らかにゆるんでいるのに瞳は氷のように冷たく、感情を宿していない笑み。
 それは、怜らしい表情だ。

「ねぇ健次。もうココまで勃起しちゃったら……ヌクしかないよね。俺が処理してあげる」
「……そんなに俺と犯りたいのか。頭いかれてるぜ」
「ウン。イカレてるよ。自分でも知ってる」

 怜は健次の上にのしかかり、唇を奪う。
 内部へと捩じ込まれる舌、絡み合う唾液。

(こいつ…………?)

 キスを交わしながら、健次は違和感を覚える。
 何かおかしい。
 怜の様子が。いつもと違う。
 しかし、健次は気付かないふりをした。
 口腔をまさぐる怜の舌を噛み、口づけを遮断する。

「あ、痛ーい。何するの?」
「……気色悪りィんだよ」

 健次は眉根を寄せた。
 この男が自分を頼ってくるなど、めずらしいことだ。
 
「……早くケツ出せ」
「やったぁ。俺としてくれるんだ、嬉しい」
「夜這だろ殆ど」

 健次は身体を起こす。
 シャツを脱ぐと、逞しく筋肉のついた素肌を晒す。  
 裸になり、既に衣服を脱いだ怜の腿に手を掛けた。
 薄闇の中で怜の裸体は白く際立つ。
 怜の性器も、健次と同じように勃起していた。

「……おい。俺のチンコ銜えて立ててんのか」
「え、そうだよ」
「変態が……」
「お褒めに預かり光栄さ、健次クン」

 健次は怜の身体を倒すと、己の性器を掴んで押し当てる。
 まだ何も慣らしもしていない尻穴は固く、健次のペニスなど挿入りそうもない。

「わ、ちょ、もうそんなぁ……無理、無理っ」
「てめえから誘ったんだろうが……」 

 孔を穿つよう、健次は強引に捩じ込む。
 走るのは、粘膜を裂く感触。

「慣らしもしていないのに挿れちゃったら、キツくて健次も痛いよー?」

 力づくで挿入され、普通ならば激痛が走っているはずだろう。
 しかし、怜は少しもそんなそぶりを見せない。
 喜怒哀楽が欠損している怜は、痛みというものも感じないらしい。
 怜は指先を舐めて濡らした指を後孔に伸ばし、塗り付けた。 

「ねえ、これでちょっとは滑るんじゃない」
「不便だな」
「ナニが?」
「男の身体は」

 喋りつつ、健次は腰を使いだす。
 ひと塊になって揺れる、二人の身体。
 肌と肌は交わり、境界を無くす。

「……あぁ俺、きもちよくなって来ちゃった」
「良かったな……」
「イイよ。すごく」

 健次の腰遣いは。
 
 怜は健次の耳元でそう囁く。
 続いて、耳朶を這う舌先──
 そんなことをされると、ぞくりとする。
 腰をくねらせながら、愛撫から逃れるように健次は上半身を起こす。

「余計なことをするな……寝転がってればいいんだ、お前は……」

 一度、結合を解き、健次は怜の腕を掴んだ。
 これ以上何もさせない為、強引に身体の向きを変えさせる。

「後ろ向け」
「あら、健次クンは後背位がお好み?」
「うるせえ。黙ってケツ出せ」
「えーん、怖いよぅう……」

 笑いながら、怜は言われた通りに這いつくばる。
 腰を突き出して、片手で自分から尻穴を開いた。
 そんな姿は酷く扇情的でなまめかしい。
 加虐者として君臨するFAMILYのQUEENらしからぬ媚態。

「あぁあっ、太ぉ……い」
 
 再び根本まで埋められると、怜は喘ぐ。
 シーツを掴み、今宵初めて表情を歪ませた。

「すご……っ、イイ、健次、あぁぁぁッ…………」

 長い、怜の髪。背中も綺麗で身体の線が細いこともあり、後ろから責めているとまるで女を抱いているように健次は思えた。
 抜き差しを繰り返して揺れて、揺らして。
 肌と肌をぶつけてゆく。
 荒れる呼吸と、滲む汗と、乱れる快楽。

「はぁ、あぁっ、出ちゃうよ、俺っ……」
「出せ。勝手に」
「つめたいなぁ、もお……!」

 高まってゆく快楽の中で、怜は自らのペニスを握りしめている。
 本当に達してしまいそうらしい。
 力づくで犯されているだけのセックスなのに、感じている。

「……一緒にイクか」

 怜の身体に覆い被さり、健次は呟いた。
 怜は目を閉じて、頷いてみせる。

 行為の果てに──二人は殆ど同時に弾けた。
 窓の外では雨が降り始める。
 闇を濡らしてゆく雫を、月が照らす。

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 ガラスを叩く雨を、怜は眺める。
 伝う雫の向こうに広がるのは、夜の日本庭園。
 手入れの行き届いた、相沢家の庭だ。

「雨降って来たねー」

 怜が振り返ると、健次は煙草を吸っていた。
 下着だけを履いた姿で布団の上に座り、けだるげに煙を吐き出す。

「健次って色気あるよね、男の色気」

 怜は微笑みを浮かべ、窓に背を向ける。
 健次は吐いた煙を目で追っていて、怜のほうを向きもしない。

「羨ましいな。俺、女顔だしさ。健次が羨ましい……」

 その言い方は、やはりいつもの怜とは違った。
 感傷を含んだ声。
 健次はちらりと怜を見てやった。
 薄いブランケットを素肌にまとわりつかせて立つ怜は、本当に女のようだ。
 寂しそうな顔をする怜を見て、健次は(そんな顔も出来るんじゃねえか)と思った。 

「……俺がか」
「ウン」
「羨ましいだと?」
「だって、色々なものを持ってる。俺とは違うんだ。だって俺はなんにもない」
「どうした」

 怜は俯いた。
 髪に隠れる表情。
 己の両肩を抱き、ぼそぼそと喋りだす。

「どういうカンジ? 好きな人がいるって」
「は?」
「健次は春江さんが大事なんだよね。そうだよ認識出来るよ。祥衛はさ、シホって子が好きなんだって」

 怜の言葉は突飛だった。
 健次は怪訝に感じる。
 何故、突然そんなことを言い出すのか。

「それでさ、薫子と大貴くんはつきあっているんだ。ウン、ちゃんとそれは分かるんだ……」

 怜はまるで自分に言い聞かせているかのよう。

「けど、けどさ。実際どういう感情が発生して、一緒にいるのかなぁ? わかんないんだ、俺には……」

 怜が心のうちを表すことは少ない。
 いつも道化の仮面を被っていて、わざとらしくへらへらと振る舞う。
 今まで数えるほどしか触れたことのない怜の素顔を、健次は見た気がした。
 そして、答えてやる。

「居たいから居る。難しく考え過ぎだろ」
「なんで? なんで居たいの……」
「春江には子供の頃から助けられた。俺も春江を助けてきた。これからもそうやって生きたいと思う、ただそれだけのことだ」
「……難しいね」
「何処が難しい」
「全部さ」

 そう言うと、怜は顔を上げる。
 その顔はいつもの作り笑いに戻っていた。

「ゴメン、変なこと言っちゃって。今日さ、克己くんと色々話してたんだ。克己くんって泥沼の恋愛してるんだよね、十代の頃に。そういう話しててなんか俺だけとり残されてるような気がしちゃったんだ、俺はそんな感情すら理解したことがないのに。それどころか、俺は、誰かと一緒に居たいだなんて思った事もない、ってねー」
 
 唇から紡がれるのは『怜』らしく軽い口調。
 微笑を浮かべつつ、怜は床に落ちている自分の服を拾う。
 ブランケットを布団の上に払い、衣服を身に纏いはじめる。
 健次は煙草を灰皿に押し潰した。
 紫煙は途切れ、枕元では健次の携帯が震えた。
 ディスプレイに表示される名前は春江。
 
『もしもし。健次さま。すみません遅くなって……今から帰ります』
「遅くねえ。まだ……十二時だ」
『遅いです。こんな時間まで留守にするなんて』
「家政婦失格だと言いだすのか」
『もちろんです! 急いで帰りますね』

 電話の向こう、春江の機嫌は良さそうだ。
 健次は口許を僅かにゆるめた。
 健次自身が気付かぬうちに。 

 怜は着替えながら、そんな健次を、横目で見た。

『今、タクシーを探しているんですけれど……』
「車出す。そこで待ってろ」
『えぇ! 悪いです、そんな、わざわざ』
「嫌か?」
『いいえ、嫌だなんて。……嬉しゅうございます』

 待ち合わせ場所を決め、すぐに会話を切り上げる。
 通話を切った健次は肩をすくめた。
 
「だるい。……何処かの馬鹿と犯ったせいでな」
「でも行くんでしょ。迎えに。面倒臭がり屋の健次が、だるいのにわざわざ」
「何が言いたい」
「──羨ましいのさ」

 怜はすっかり身なりを整えていた。
 先程まで艶事をしていたとは思えない、ぴしりとした姿に直っている。
 布団の上に膝を落とし、健次の口を奪う。
 重なる唇の感触。
 二人とも瞳を開けたままだ。
 有り得ないほどに近い距離で交わる眼光。
 怜に両肩を掴まれ、舌を入れられても健次は抗わない。
 好きなようにさせてくれる。
 舌同士はなまめかしく遊び、溢れ出る唾液は互いの顎を伝い首筋を流れる。

「何で逆らわないの?」

 口を離し、怜は真顔で尋ねた。
 刹那、窓の向こうでは雷が鳴る。
 光に照らされ、女性的な顔立ちが健次の間近に際立った。

「俺のこと可哀相って思ったでしょ……? だから抱いたんでしょ。哀れに思ったんでしょ、俺のこと」
「自分で分かってんじゃねえか」

 唇を拭うと健次は鼻で笑う
 怜も笑った。悲しい苦笑を。

「……健次は優しいね」
「お前はブザマだな」
「本当にね」
 
 怜は健次の頬に、かるく唇を押し当てた。
 
「煙草の味がするキスは好きだよ。健次の体温も好きだな。セックスできて良かった」

 甘えるようにすり寄ってから、怜は離れる。
 そして立ち上がった。 
 
「ありがとね。またFAMILYのビルで会おう」

 軽く手を振ると、健次の方を見ずに部屋を後にした。
 しばらく後に、健次も立ち上がる。
 玄関に行った怜と反対方向、向かうのは洗面所だ。
 辿り着くとシンクに唾を吐き捨てる。
 駐車場では、ゆっくりと動きだす怜の車。
 洗面所の窓からそれを健次は眺める。 
 怜はどこへ行くのか。
 まっすぐ帰るようには、健次は思えなかった。
 一晩限りの相手と絡み合うのかもしれないし、幾人もいる遊び相手のうちの誰かと戯れるのかもしれない。
 どちらでも、健次には別にいいことだ。関係が無い。

 勢い増して降り続く雨闇の中に──怜は消えた。

E N D