稍寒

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 縁側に座って桜を眺めていた。
 花びらを纏う春はとうの昔に過ぎている。
 健次は、あの木に春になるたび吊られていたのをぼんやりと思いだす。全裸のときもあれば女物の襦袢を着せられるときもあれば褌(ふんどし)のときもあった。
 小学生の頃は泣いてしまったり、夜まで放置されて糞尿を漏らすこともあったが、成長とともに我慢を覚えると面白くないのか、利尿剤を飲まされたり、シリンダーで浣腸を施されたりした。
 濃度の高いグリセリン溶液をぶち込まれて吊られた身でもがく姿は鬼畜達にとっていい酒の肴だったらしい。笑われながら苦悶の顔を晒す。トイレに行かせてもらえるはずもなく、吊られたままで勢いよく排泄し続けた。腹の中のモノを出してしまった後も襲ってくる強烈な絶望感と繰り返す腹痛、嫌でも視界に入る排泄物、匂い、それを舐めさせられたり、ゲラゲラと大げさに囃し立てられたりして──くだらなさ過ぎてなんだか、逆に冷静になってくるのは救いといえば救いだったかもしれない。自分の意思で漏らしているわけではないから、仕方ないと割り切ることもできた。
 もう終わったことだから、どうでもいい。
 灰皿に吸殻を潰す。スクールバッグを掴んで立ちあがった。春江の作ってくれた弁当はもうしまってある。遅刻は決定的だが、急ぐ気はない。二時間目の終わりか、三時間目の途中には着くだろう。
 向かった玄関には発泡スチロールの大きな箱が転がっていた。和服姿に割烹着を着けた春江からサインを受け取った配達員は去っていく。春江は健次をやんわりと咎める。

「まぁ、健次さま。ずいぶんとのんびりされて。じきにお昼になってしまいますよ」
「そうだな。……何だこれは」

 急かされることをはぐらかすように尋ねる。届いた品が気になったのも事実だ。
 春江はつっかけていた草履を脱ぐ。

「お肉です」
「肉?」
「はい、先週、電話があったじゃないですか。旦那さまと親交のあった編集の方が、娘さんがお肉屋さんに嫁いだから和牛を送ってくださると……」

 健次は発泡スチロールの箱を抱え、台所に持っていった。結構な重さだ。くれるのはいいが、この家はふたり暮らしだと分かっているのかと健次は思う。後ろから春江がついてきた。

「私でも運べます、健次さまは早く学校に行って下さいな」

 台所に着いてしまい、作業台に置く。春江はちょっと呆れたように「ありがとうございます」と言って、てきぱきと梱包を解き、フタを開ければ案の定、大量の霜降り肉が詰められていた。
 
「とりあえず、ええと……今晩はすき焼きにしましょうか?」
「あぁ、良いな」
「お任せください。それでしたらお買いものに行かなくては。駅までご一緒します」

 健次はこのままサボってしまおうかと考えつつあった思考を断ち切らざるを得なくなる。割烹着を脱ぐ春江をちらと見た。

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 元担任と世間話をしにきた秀乃だったが、思わぬ収穫があった。今日、健次がめずらしく部活に出ていると職員室で教えられたのだ。
 話を切り上げ、空手部の道場に急ぐ歩は自然と早足になる。
 高校を訪れたのは卒業式以来だから、ちょっと懐かしい──自転車置き場を通りすぎるのも、古びた焼却炉を見るのも、渡り廊下の下をくぐるのも。

(やっぱり、俺と健次は運命の赤い糸で結ばれてるんじゃないか?!)

 見えてくる道場。健次は入り口の扉にもたれて水筒を直飲みしている。見慣れた制服姿ではなく、空手着なのが、秀乃の心をときめかせた。

(カッコいい……やばい……どうしよう!!)

「健次、俺だよ! こんにち……」

 挨拶を終える前に水筒の残りをぶちまけられる。麦茶だ。それほど量が多くないのは幸いだった。

「うわァ冷たいな!!!」
「急に来るな、クソメガネ」
「そ、そんな言いかたないだろ!」

 斜掛けのバッグからハンカチを出して、濡れた顔を拭く秀乃だった。健次はとても嫌そうな目で秀乃を見てくる。まるでゴキブリを見るような目だ。

(これでもいちおう……遊郭の主なんだけどな………)

 健次に威光は通用しない。秀乃はメガネも拭きながら、次に健次に会ったら伝えたいと思っていた事柄を打ち明ける。

「あ、あのさ健次ー、俺、健次に話したいことがあるんだよ」
「断る」
「まだ何も言ってない! あ痛!」

 今度は、フタを閉めた水筒を腹にめり込まされた。

「じゃあ早く言え」

(あっ一応、聞いてくれるんだ……)

 痛む腹部を押さえつつも、秀乃は嬉しくなる。

「実は、健次には全部決まってから伝えたくて、黙ってたんだけど……一人暮らしを始めたんだ。大変だった、一族を説得するのは」
「ほう……」

 健次は切れ長の目を、軽く見開いた。

「てめぇにしたら上出来じゃねぇか」
「……健次……!」

 褒められ、気持ちは弾み、嬉しくなってポケットを探る。

「帰り車で送るから、ついでに俺の部屋ちょっとでもいいから寄っていってくれないかな、これがカギ──」

 ……を見せたいのだが、見つからない。秀乃はカバンの中も探る。

「あれ、あれっ、あれ? ないじゃないか!」
「ハ……? よく探せ」
「う、うん、あれー。見つからない。おっかしぃなぁ……!」

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 どことなく昭和っぽいレトロな壁紙、たくさんの間接照明、窓を塞がれた部屋。ベッドは円形でやたら広い。そこに体育座りしている秀乃だった。

(ど……どうしよう……!)

 此処はラブホテルだ。信じられない。嬉しさよりも困惑と妙な緊張を感じている。

(イヤがると思ったのに……越前谷君の可愛い冗談のつもりだったのに……本当はファミレスで、健次とパフェとか食べたかったのにー……!!)

『もー、健次ー、今日も口が悪いから、襲っちゃうぞー!』

 秀乃は、すぐ道路に戻るつもりで駐車場に入った。しかし、健次は呆れた目で秀乃を見てから、学ランを脱ぎスポーツバッグに押しこむ。代わりに袖を通すのは薄手のジャージだ。

『ちょうどいい、もう一回全身探してみろ』
『えっ。え、健次、なにを?』
『カギだろ。部屋で探せ』

 車を降りる健次を追いかけるしかなくなった。冗談ではなく当然として受け止められたのは秀乃の日頃の行いの悪さのせいだろう。
 初めてラブホテルに足を踏み入れた秀乃が戸惑っているうちに、健次はパネルの部屋番号のボタンを押し、さっさとエレベーターに乗ってしまう。

(なんか……慣れてるし……制服脱いだのって、受付に監視カメラあるからだよね? ……なに……なんなの……春江さんと? あぁそれに……調教映像にラブホの映像もあったような)

 あれこれと考えを巡らせていると、バスルームの方から健次が歩いてくる。

「あ、健次……。って……!! わぁあ……!」

 下着姿で、濡れた髪をタオルでごしごし拭きながら来たので秀乃は赤面する。健次の素肌は秀乃にとって魅力的すぎる。メガネを外し、意図的にぼやけさせた。

「な、なんて格好で来るんだ! 破廉恥だよ! そ、そ、そんなぁ!!」
「ヤるんだろ。なんなんだてめぇは……わけがわからねぇ……」

 健次は顔をしかめ「今に始まったことじゃねぇけどな」とぼやきつつ、制服のスラックスから黒の長財布を取る。ソファに脱ぎ捨てられたそれらは、秀乃がさっき畳んでおいた。

(へぇ、そうやって買うんだー……)

 冷蔵庫に小銭を入れてミネラルウォーターを買う健次を眺めて仕組みを知ったが、はじめて知ったとは口に出さない……妙な強がりだ。
 健次がペットボトルを傾けて飲む姿にも見とれてしまう。

「どうして……頭も洗ったの?」
「部活で汗かいた」
「珍しいよな、部活に出るの……」

 健次もベッドに腰かけてきた。秀乃のとなりだ。

「そんなことより、カギはあったのか?」 

(……ちょっとは心配してくれてるのかな……)

 飲みかけの水を押しつけてくれるから受け取って、すこしだけ飲む。間接キスも秀乃には嬉しい。

「う、うぅん。探したけどなくってさ」

 嘘だ。健次がシャワーを浴びているあいだ体育座りをしていて、ろくに探していない。
 ふっと口の端で笑われた。

「馬鹿ヤロウだな」

 秀乃は苦笑を返す。そして、健次の唇を奪った。

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 押し倒されて愛撫を受けながら、健次は夕食のことを考えていた。

(すき焼きの残りは、炊き込みご飯だ)

 春江はよくそうしてくれるが、とても美味い。部活に出たのは腹を減らそうと思ったからだ。空腹で食べたほうが良いに決まっている。
 秀乃はというと、健次の太腿を撫でまわし、下腹部に舌を這わせていく。陰毛までべとべとに舐めていくから正直気持ちが悪い。行為の後にも念入りに風呂に入らなければいけない。しかし、やっといつもの秀乃に戻ってきた──様子がおかしいことには、健次はエレベーターの中で気づいた。

(……コイツ、まさか、はじめて来たのか……。まぁ、来ることもねぇのか……)

 遊郭に住んでいるのだ、する場所など自宅にいくらでもある。
 来たことがないなら正直に言えばいいものを、なぜ、慣れたような顔をしてラブホテルの駐車場に入ったのか。健次にとって秀乃の言動はいつも意味不明でしかない。

(だいたい、マンネリなんだ……)

 毎回毎回、賛美するようにしつこく身体じゅうを撫でまわし、嬉しくてたまらなさそうに舌を這わせ、性器に至っては感動の極みといった表情で口に含む。キスも長く続く。飽き飽きする。
 それでも性技の巧みさは確かだし、秀乃の体液には媚薬が含まれているから、健次は昂ってきた快感で吐息を漏らす。

「ッ……」

 感じている顔を秀乃に見つめられていた。犯されだして間もないころは羞恥から殴り飛ばしてやりたくなっていたが、現在はもう慣れた。ただ鬱陶しい。
 勝手に見ていればいいと思う、秀乃によって勃っていく性器も、胸の尖りも、滲んでいく透明な体液も、欲情から朱に染まる頬も。
 ペニスをねぶりしゃぶられ、淫靡な音が響くなか、健次は枕元の時計を目にする。春江には、帰りが遅くなると風呂場で連絡しておいたのでまだのんびりしていても良い。
 秀乃は、部屋の自販機で買ったローションをとろとろ健次の股ぐらに垂らしながら、嫌そうな顔をする。

「……時計見たよな、健次……?」

 さんざん入り口を舐められて悶えさせられた後孔に指をあてがわれた。心なしか指遣いはいつもより荒い。
 微かな荒っぽさにも気づいて緊張のように引き攣れた自分が、健次は我ながら嫌になる。

「だったら、何だ……」
「家で……家政婦さんが待ってるから?」

 遠慮なく挿入ってくる中指。いつもなら慎重にしてくれるのに。
 健次は眉根を寄せた。すぐに指の数を増やされて容赦なく掘られて、歯を食いしばり、瞼もきつく閉じる。

(てめぇは本当女々しいな、俺はお前のそういうところがキライだ……) 

 伝えたくても言葉を発さない、何か言おうとすれば悲鳴になってしまう。それでも漏れてしまう呻き。

「……ッ、うぅ、っ、……ン……っ……」

 ただシーツをぎゅっと掴んで闇を眺めた。
 闇に重なるトラウマ。
 この身体を生まれつきのメスだとかマンコだとか言ってめちゃくちゃに抱いてきた連中の顔がぼんやりと浮かびあがり、健次は慌てて目を開ける。たった少し思いだしてしまっただけなのにもう脂汗が滲みだしていた。内臓までもビクビク恐怖に震えている感触がする。
 ただ、相手は秀乃だから、麻酔のように快感も続いていて健次は勃起しつづけていた。秀乃は嘆く。

「俺だって健次のこと好きなんだよ、分かってくれよ……!!」

(俺だっててめぇに親切にしてやってるだろうが……)

「……クソが……」

 秀乃は悲しげな顔をする。

「健次っ……、健次……」

 潤んだ目で尻孔の蹂躙をやめて、健次の両肩を掴み、再びはじまる長いキス。健次は眼を開けたまま適当に舌を絡め返していた。
 秀乃はいちいち言葉にしてやらないと分からない、形にして表さないと分からない。春江みたいにすぐ汲み取ってくれる大人の女とは違う。別に理解らなくてもいい、勝手にわめいていればいい、リアクションが大げさなので一喜一憂するさまを見ているのはまぁ面白い。それに何より……

(お前は俺をあの家から出そうとした、方法はどうあれ。そんな人間は秀乃しかいなかった)

 だから、良いのだ、ヤらせるくらい。秀乃の想いには応えられないが、女の真似事ならできる。
 健次にあるのは恋愛感情でもないし、友情なのかもわからない。確かなのは、秀乃の粘着質な愛情を受け入れているということだ。

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 秀乃は、健次は一体どんな気持ちで犯されているのだろうかと、今日も思う。分からない。確かなのは、健次はノンケで、大切な女がいて、秀乃に恋愛感情などなくて、永遠に結ばれないということだ。
 虚しさと不可解さに蝕まれながら健次を激しく犯していく。
 こんな行為の外の健次なら絶対に見せることはない、ひどく怯えたような、泣きそうな顔で屈して、揺さぶられ、抜き差しされて、ドロドロとお漏らしのようにとめどなく先走りを滴らせて、それを扱けば乳首も勃てた身体を震わせたりしならせたりして、みっともなく喘いでいる。

「ひッ……、あ、ぁ、あ──……!」

 根本まで挿した座位の体勢で扱きたてる、健次を観察しながら。汗は睫毛にも宿っていて涙のようだから眺めているとたまらない気持ちになる。喘ぎをこらえるためにきつく閉じているにも関わらず漏れてしまう喘ぎも男の鳴き方らしくていいが、いつも行為が進んでくると口を開いてしまって、際限なく女のように鳴きだす健次も良かった。……結局、どんな健次も好きだ。

「……い、く、イっ、ク……」

 秀乃の手首に手を添えて、健次はもたれかかってきた。欲情してトロついた瞳に自分が映っていることが、また、なんとも言えない至福を味わせてくれる。

(……可愛い……)

「いいよ、健次、射精して。健次の一番いい顔見せて」
「……ぁ、あ……ア……、っ、く…………」

 その瞬間の表情をじっと眺めていた。噴出する白濁に、扱く手をしだいにスローにしていく。
 健次は苦しげな魚のように唇を動かすが、言葉にも喘ぎにもなっていない。ただ熱く吐息がこぼれるだけだった。尻孔は食いちぎりそうなくらいに秀乃を締めつけて、秀乃にとってはそれがまたいい。クセになりそうだ。

(いやもう……とっくの昔になってるよな……)

 秀乃は苦笑する、繋がったまま。

「頑張ってイッたな、ほとんど前触ってなかったのに……お尻で気持ちよくなったんだ……」

 呼吸を乱している健次の、脂汗をかいた喉にキスをする。それにも健次は敏感に震え「うぅ」と、呻きが漏れた。
 精液を握り締めていた手を離すと、いつものように残らず舐めとって味わう、風味も堪能しているあいだに健次はズルリと抜いて離れ、シーツに崩れ落ちた。程よく筋肉のついたしなやかな背中を、尻を、脚を、眺めているのも良い。
 秀乃が最後のひと舐めをすると、健次は察し、振り返る。
 健次は怯えていた。
 もう、素面の健次ではない。秀乃の媚薬の力もあり感じきって、普段は抑えている真実が表出している。絶望、諦め、恐怖、呪い、闇を、怯えた視線という形で秀乃に投げかけてくる──
 その常闇に秀乃のSな部分は刺激され、ほくそ笑んだ。

「……そんな目をしたってまだ終わらないよ、健次、可哀想だけどな──……」

 嘘だ。可哀想だなんて思っていない。興奮を煽られている。

「ヤ、だ、ヤメロ、いや、イヤだ……」

 にじり寄って腕を掴むと、健次は嫌々と黒髪を振った。調教映像の哀れな少年のように。

「助けて……」

 秀乃はあの映像の加害者のように健次を転がし、股を割り開き、潤んだ後孔にペニスを挿れる。

「……あぁっ……」

 最奥まで一気にねじ込んだ。薄目になる健次の色気がたまらない。

「……あッ……、あ、あ、ぁ……、ン……」

 また閉じられる瞼。唇に指をやって噛みながら。何度でもキスをしたくなるから健次の指を外してまたキスをする、息苦しくなるのも構わずに。揺れながら唾液を交歓して涎まみれになっていると、健次は拳を握り、軽く胸を小突いてきた。糸を引きながら顔を離す。

「苦……しい……だろ……」
「あっ、健次、正気に戻った?」
「お前が、戻した、ん……だ、ろうが…………」

 いつもの健次らしい、苛立った目で睨まれて、秀乃は微笑んだ。

「……おかえり、健次、好きだよ。愛してるよ……!」

 呆れたように一瞥し、健次は秀乃の首に腕を回してくれた。
 ひとつになって擦り寄る体温、ベッドで揺れ続ける身体、高まっていく秀乃の快感。
 愛する身体に性欲をぶちまける──本当は中に出したかったけれど中出ししてぶん殴られたこともあるし、嫌だろうなと理性が働いてとっさに抜き、腹の上に出した。それにさえ健次はとても嫌そうな様子だったから、すぐに拭きとってしまった。
 いいかげん秀乃も疲れてきたから、健次の隣に寝そべる。
 会話はなく、空調の音だけが無機質に響いている。いっそこのまま……。

(このまま時間が止まってしまえばいいのに)

 止まるはずもなく、ソファに畳まれた健次の制服からマナーモードの振動音がする。
 健次はため息を吐いてから、秀乃を振り払った。強く確かな力だ。

(……あ……)

 秀乃は悲しくなる。健次はベッドを下りていく。洗面所の方に行ってしまい、はっきり聞き取れないが、相手の予想はつく。壁を眺めながら健次の声を聞いていた。

(どうして電話に出るんだよ、もうすこし、余韻に浸っていたかったのに)

 この場から消えたくなる、帰りたい。

(……カギも無いのに……!)

 秀乃もベッドを立った。健次はまだ話している。シャワーを浴びたくもあったが、早く服を着てしまおうとシャツを掴むと、チャリっと音をさせて家のカギが床に落ちる。

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 夕食に誘われてしまった。なんでも今日はすき焼きらしい。
 健次を家まで送ったことはあるが、上がるのははじめてだ。

(嬉しいんだか、嬉しくないんだか)

 ふたりきりならうれしいが、当然ながら相沢家には春江もいる。
 春江と相対するのもはじめてで、何を話せばいいのか、秀乃には見当がつかない。

(緊張もする。ドキドキするよ……嫌な緊張だ)

 カギは見つかったのに、心は晴れない。車内で話しかけることもできなかった。だから、見つかったことも言えていない。
 健次は別段いつもと変わらない。性交後の気だるさもあるのだろう、背もたれに深くもたれかかって、窓の外の夜景を見ている。
 到着する、下町の入り組んだ路地の奥に佇む、和風建築の立派な屋敷。駐車場に車を停めて健次についていく。
 石畳は掃き清められ、庭の手入れも行き届いている。
 健次はガラリと引き戸を開けて、広々とした玄関、無言でスニーカーを脱いだ。秀乃は内心、家の中もよく掃除されているなと感動していた。健次は秀乃の前にスリッパを放り投げる。

「……あ……、ありがとう健次……」

 もじもじと履いた。健次は靴下のままで廊下を歩き、急いでついていく秀乃の視線の先、台所を覗く。

「おい、帰ったぞ」
「おかえりなさいませ。準備出来ていますから、いつでも食べられますよ」
「分かった」

 健次は秀乃に向き直る。

「手でも洗ってろ。俺は荷物を置いてくる」

 ……と言われても、洗面は何処なのだろう。階段を上っていく学ランの背中を眺める。
 台所から春江が顔を出した。髪をまとめ、白銅色の着物に割烹着姿だったので、秀乃はちょっと驚く。普段から和服姿なのだろうか。

「はじめまして、若旦那さま。相沢家の家政婦をしています、吉川春江です」
「ど、どうも……越前谷秀乃です……!」

 春江が頭を下げたので、秀乃も下げた。いつも春江に抱いている複雑な感情は、緊張にかき消される。お互いに姿勢を正すと、春江は苦笑し、案内してくれた。

「洗面所はこちらです。まったく、健次さまも言いっぱなしでなく、教えてさしあげればいいのに」
「あ、いえ……お気遣いなく……」

 しどろもどろになってしまう秀乃だった。行く道も洗面もすでに明かりがついている。
 戻っていく春江を見て、いまさら手土産でも買っておけばよかったとも思う。独りになれば必要以上に手を洗って心を落ち着かせた。
 廊下に出ると、すぐそばに健次が立っている。薄手のパーカーにハーフジャージのラフな姿だ。パーカーのポケットに手を突っこんだ健次は嫌そうに顔をしかめる。

「春江に、お前を放っておくなと言われた。こっちだ」

 一緒に歩いていく。今日は健次の空手着も見れたし、家着も見れたし、いい日かもしれない。
 気持ちの落ち着いてきた秀乃は、やっと前向きに考えられる。

(ラブホテルで抱けたし……)

 春江は健次との関係をどう思っているのか。

(嫌じゃないのかな、俺みたいに、嫉妬に狂わないのかな……)

 あれこれ考えてしまう思考は、ひとまず置いておきたくて、秀乃は意識して笑った。

「……ずいぶん広いんだな、健次の家ってさ。驚いたよ」
「てめぇの家ほどじゃねぇだろ」
「そりゃあそうだけど、住居兼店舗みたいなものだから」
「まぁな」

 居間に行くとすき焼きの準備が整っている。茶碗や箸も並べられ、雰囲気はまるで旅館でもてなされているようだ。立ち止まって眺めていると、健次に「座れ」と肘でつつかれた。
 春江は手慣れた様子で、具材を鍋に入れていく。

「助かりました、若旦那さま。お肉をいただいたんですが、到底食べきれる量じゃなかったんです。遠慮なくおあがりになって下さい」

 さっそく手を合わせた健次は、蛸と胡瓜の酢の物に箸を伸ばす。
 秀乃も倣うように酢の物を食べてみる、美味しい。春江が作ったのだろう。
 だんだんと打ち解けて春江とも普通に話せるようになる。不覚にも。笑顔も溢れる。ごちそうになった夕食のひとときは楽しかった、楽しかったけれど──思い知らされるのは、どう頑張っても足掻いても、春江には勝てなさそうということだ。

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 結局、秀乃は相沢家に泊まっていくことになった。客用の浴衣を着て、一階の寝室に敷いた布団ですでに就寝してしまった。今日も疲れていたのかもしれない。なにしろ学業と遊郭の主を両立させているのだ。

(さんざん……抱きやがったしな……)
 
 健次だって疲れた。媚薬の余韻で気を抜くとふらつく。
 そろそろ眠ろうと思い、欠伸しながらも歯をみがき、帰りに廊下で春江と会った。目があうと春江は薄笑む。

「悪いな」

 声をかけ、立ち止まった。もちろん、春江も歩を止める。

「何がですか?」
「お前を追いだしたことだ」

 今夜客間で眠るのは春江だった。秀乃をそこに寝させて、いつも通りに寝室で健次と春江が寝てしまっては秀乃のことだ、嫉妬で気分を害する。
 春江は別段何も思っていないのだろう、かすかに首を傾げた。
 それでも健次は念を押したくなる。

「……あいつには、ただ、身体を許しているだけだ。俺の気持ちは春江にしかない……」
「健次さまの若旦那さまへのお気遣い、分かっていますから、不安にならないでください」
「俺はべつに不安になど」

 反射的に言い返しつつも、不安になっていたのかと健次はたじろぐ。そうだ──春江には一から十まですべてを言葉にせずとも伝わる。健次が意識していなかった健次の気持ちさえも。

「大好きです……健次さま」

 春江は健次の手に触れて優しく薄笑んでもくれた。見つめられると、嬉しく、ほっとする。健次も微笑った。

 言葉はもういらない。

 縁側に並んで腰を下ろして、煙草の後にキスをする。
 言うまでもなく、明日の朝、すき焼きの残りは炊き込みご飯だ。

E N D