春宵に消ゆ

1 / 2

 楓が、行方をくらませた。

 その事実は驚きをもって迎えられた。四季彩の人々にとって、楓は比較的おとなしい性玩具と思われていたのだ。再調教後も反省していた様子だったのに──手のひらを返したように、いなくなった。

 時期を同じくして美砂子も消え、調べれば妊娠していたことが明らかになる。おそらくは楓の子、らしい。

 那智は奥座敷から、星を眺める。
 楓の好きだったきらめきは今宵も鏤められている。

「馬鹿だね、楓……」

 夜空に向かい、呟いた。
 
 脱走は重罪。発見されしだい、刑罰を激しく加えられ、制裁を終えても遊廓に戻されることはない。四季彩の敷地内にある『芙蓉( フ ヨ ウ )』と呼ばれる館に連行されることだろう。

 芙蓉は罪を犯した娼妓を隔離・幽閉するための館。そこに入れられれば外に出られないどころか、休みもなく眠ることさえままならずに身体を売る日々となる。過酷な性労働に心を壊す者も多い。

「楓、早く帰っておいで。今ならまだ、弁解すれば、間に合うかも知れない。どうして……」

 わたしに相談してくれなかったの、とも思ったが、されたところで救えなかったのも事実。

 美砂子に堕胎させるか、産ませたとしてもその赤子を四季彩の所有にし生まれながらの性玩具に調教するか。それ位しか、選択肢がない。どちらにしろ、楓と美砂子は会わされることもなく引き離され続けるだろう。

 二人して逃れるしか、道は無かったのだ。

 四季彩は生き地獄と形容される。ここは牢獄だ、当主を務める那智だからこそよく知っているけれど。

 辛いね。そう呟けば傍らにうずくまる伽羅が鳴いた。
 中庭の桜は風に揺られ、舞い散る。
 星と桜、去年の今ごろなら嬉しそうに楓もこの情景を眺めていたのに──少年はもういない。

2 / 2

 夜の下、波が跳ねる。

 楓は砂浜を歩いていた。海を見たのは十年ぶりだ。蔵に閉じこめられる前、普通に暮らしている頃に家族で海水浴に行ったきり。

 さらさらとした砂を踏み、振り返れば足跡が続いている。湾曲した入り江にそって旅館やホテルの灯が綺麗だ。見上げれば星々も美しく、楓は微笑ってしまう。

 足をとめて眺める水平線。しばらくそうしていたあとで、貝殻を拾った。形状の面白いものや、桜色の鮮やかなものを幾つかサルエルパンツのポケットに入れる。

 それから、行きの足跡の横を戻った。きっとこの足跡はすぐに波に攫われて消えるのだろう。

 安ホテルの部屋に戻ると、美砂子はまだ眠っている。ずいぶんと長いお昼寝でまだ目覚めない。膨らみは目立つようになってきていて、毛布の上からでも分かった。
 
 楓は枕元に貝殻を置く、起きたときに驚かせるために。楓も服のままで毛布に入り、美砂子とぬいぐるみの隣で目を閉じる。

 僅かに開けている窓からは、風に運ばれ磯の香りと、小さな波音が響いてきた。

 そのせいか、楓は夢の中でも海沿いを歩き、星を眺めている。

 側には美砂子だけでなく小さな男の子もいて、セイ、と呼び抱き上げれば、子供は満面の笑顔を見せた。

楓篇 第一部 終……