如月

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「楓っ、楓──」

 よく晴れた休日の昼下がり。
 何度も名を呼ばれていることに気づき、楓はハッとした。振り向けば自室の扉は開いていて、こちらを見ている私服姿の那智がいる。

「ごめん……。……ぼおっとしてた」

 机に向かって、宿題を解いていたはずなのに。集中できなくて知らない間に窓の外を眺めていたらしい。

「お兄ちゃんが来ているよ。会ってきたら?」
「葵が? どうして……」
「納品に来ているの」
 
 楓はふと、傍らに置いてある携帯電話を見る。着信を知らすランプが光っていて、手に取り確かめれば葵からのものだ。

「そうか。じゃあ、顔見てこようかな……」

 椅子から立つと、心配そうに眺められる。

 壮一の死を知ったあの夜以来、どうも気分がすっきりしない。でも、皆にこれ以上迷惑を掛けたくないので、楓は出来るだけ普通にしているつもりだ。

 それなのに、周りにはばれているらしい。那智もすごく気を遣ってくれている。
 
 ……こんなに自分が弱いなんて知らなかった。何があってもなんとかやってこれたのに、笑えていたはずなのに。美砂子を好きになってからというもの、楓自身も知らなかった己の一面に驚かされるばかり。好きな人のために強くもなれれば、脆くもなってしまう。

 那智とはしばらく一緒に歩いていたが、廊下の途中で別れた。葵は他の社員と共に来たという。厨房に居ると教えられたので向かえば、雛屋から運ばれてきた和菓子がずらりと並べられていた。

「すごいな……これ全部……」

 立ち入りながら思わず呟く。雛屋の従業員は四季彩の者と仕事の話をしていて、その近くにいた葵は楓の姿を見つけるなり嬉しそうに微笑った。

「こんなに菓子を用意して、……なにかあるのか?」
「はは、楓のほうが詳しいだろう?」
 
 言われてから、そういえば今宵新しい娼妓のお披露目があるのだと思いだす。大きな宴のはずなのに忘れてしまっていたなんて、本当に気が抜けているんだなと自覚する。

「楓、ちょっといいか」

 葵は楓の腕を掴み、勝手口から外に連れだした。裏庭の空気はまだ寒く楓に刺さる。

「寒い、葵。中で話せば、いいじゃないか……」

 身震いすると、葵は自分の着ていたウインドブレーカーを楓に羽織らせてくれた。そんなことをしたら葵が寒いのに。

「いや、多分内緒にしておいたほうが良いと思うから」
「?」

 四季彩の建物から離れ、草むらの中で葵は封筒を取りだす。淡いピンクに水玉模様で、幾つかの可愛らしいシールが貼られている。

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 手紙を受け取るも、楓は戸惑う。すると葵が説明してくれる。

「店に、俺を訪ねて女の子が来たんだ。それを楓に渡して欲しいと言って」

 確かに、美砂子には葵の話も雛屋の話もしたけれど──まさかこんな形で繋がるとは思ってもみなかった。楓は封筒を持つ指先を震わせる。すぐにでも読んでみたい気持ちを抑えられない。

「ありがとう、届けてくれて。……読んでもいいか?」
「良いに決まってる。楓への手紙なんだ」
「……」

 葵は事情を知らないのに、何も尋ねてこない。美砂子のことは読み終わってからゆっくり話そうと思った。今は美砂子の言葉を知りたい。

 ウサギの形をしたシールを剥がし、中身を出す。便箋もまた淡いピンクで愛らしい。緊張を感じつつ、楓は手紙を広げる。

(え………)

 内容は。
 
 
 
 
 衝撃的なものだった。

 身体中の血液が凍りついて、砕け散りそうになるほどの驚愕。

 見開いた瞳を閉じることができない。

 読み進めるうちに、楓の震えは増すばかりだ。

「おい。楓……?」

 葵は眉をひそめる。楓の様子が尋常ではないからだろう。

「真っ青だぞ。一体何が書いてあるんだ」
「……俺も……、行か……なきゃ……」
「楓?」
 
 眼を大きく開けたまま、楓は呟く。

「これ以上、ミサを……放っておくことなんて……俺にはできない……!」

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 次の瞬間、楓の身体は大きく傾いだ。葵がとっさに腕で支えれば悲鳴を上げる。

「楓! どうしたんだ!」
「痛い、目がぁっ……!」

 楓は左目を押さえ、地面に崩れた。
 葵も膝を落とす。眼帯を剥がして苦しむ、弟の肩を掴みながら。

「お前……色が……!! ひ、光って……!」
 
 葵は驚き、うわずった声で言う。
 左目は琥珀色を超え、黄金に染まっていた。
 そのためなのか、焦げ付くような、焼けるような痛みが鋭い。茜に本当の左目をえぐり取られたときの激痛を楓に思いださせる。

「あ、ぅ、見える……!」
 
 痛みの中で左目が情景を見せた。
 美砂子は独りでこの街を出て行こうとしている。
 楓の鼓動に合わせて瞬きながら、様子を映像として伝えてくれる。

「……ミサ……だめだ、一人でなんて……」

 行かせない。

 美砂子を去らせたら、絶対に後悔する。今の美砂子を放っておいたら男として人間として最低だ。
 そしてもう、こんな気持ちのままで男娼の仕事などすることはできない。

(俺も一緒に行く。俺は……自分の気持ちに嘘なんてつけないんだ……!)

 美砂子の元に行きたい。
 その先に、裁かれることになろうとも。

 ──構わない。

 今は、美砂子のそばに居たい。

 己の決意を認識した瞬間、楓は薄笑んだ。

 次第に痛みは和らぎ、映像も途切れる。まだ呼吸は乱れ、足元をふらつかせながら立ち上がった。葵は楓の肩を抱きつつ、共に身を起こす。何がなんだかまったく分からないのだろうに、支えてくれる葵は優しい。
 
 ……これからしようとすることは、葵も含め、周りの人間すべてを裏切ることになる。

 けれど、心はもう、止められない。
 
 迷いはない。

「……葵、ここには車で来たんだろう?」
「ああ、そうだ……」
「俺を外に連れていってくれないか……」

 申し出に驚いているようだった。葵は四季彩の厳しさを知っている。楓があまり外出できないことも。

「たぶん、俺はもう葵に無理を言うことはないと思う、一生……。それくらい、今、連れていって欲しいんだ」

 真剣さが伝わったのか、葵は少しの沈黙のあと、わかった、と言ってくれる。

 ふと、伽羅の姿を感じたような気がして、楓は傍らを見る。だが、気のせいだったのだろうか。
 草むらには、何もいなかった。

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『かえでくんへ。

 ミサだよ。元気にしている?
 ミサはあまり元気じゃないよ。パパが死んでしまったこと、信じられない。』

 ……四季彩の者達に隠れて、雛屋のワゴン車に乗り込んだ楓は、後部座席でもう一度手紙を読む。

『きっとママが殺したの。そうとしかおもえない!
 悲しいよ…それでね、ママに出て行けと言われちゃった。ママはミサのこと、とても嫌いだから…

 かえでくんにはこれからもお仕事がんばってほしいし、ミサのことで心配かけたくない、だから、本当はなにも言わずにミサは消えてしまうべきなの。』

 街並みの光景が、窓の外を流れてゆく。

 ハンドルを握る、雛屋の従業員は楓のことを複雑な視線でちらちらと時折見る。悪意はないものの。どう接していいのか分からない、といった様子だ。

『でも、いちおう伝えたほうがいいと思ったから、書くね。ミサ子供ができた…かえでくんの子だよ。どうしてかな。妊娠しないお薬をちゃんと飲んだのにふしぎ。たったいちどしか、していないのにな…

 お薬をのんだのにできてしまうなんてすごい確率。
 しんじられない。こんなこと、ありえない。
 すごく駄目なことだけど、ミサは中でだされてしまったけどひにんもなにもしていないこと、今までにあったよ。だけど子供できなかったのに…
 パパが死んじゃう少し前に妊娠がわかったからパパのうまれかわりみたいだなぁとかも思った。

 ミサはこの子を産みたい。

 軽い気持ちじゃないよ。すごくなやんだよ。なやみすぎて、おかしくなりそうなくらい考えて、考えて、考えて、泣いたりした。……殺したくない!
 周りの大人はみんなおろしたほうが良いというし、お友だちも、だれも産んだほうが良いなんていわない。ひとりもいわないよ。
 でもこの子を殺したくないよ…
 ミサは、育てたい。ママになりたい。
 家族になりたい。だから、産みたい。

 かえでくんに勝手に産むのは、よくないのかなあと思ってすごくまよったけど伝えることにしたんだよ。

 心配しないで。ミサはだいじょうぶ。施設を出て、どこかでくらすね。いっしょうけんめい、育てる。
 高校生になれなかったのはちょっとさみしいけど。』

(心配しないでほしいって……)

 せずにいられるわけがない。楓は未だ感じているとてつもない驚きの中でうつむいた。

 

『かえでくん、ありがとう。
 大すきだよ。
 世界でいちばんすき。
 ほんとうにほんとうにすきだよ!
 文字じゃ伝え切れない。大人になったら会おうね。

 ついしん 赤ちゃんのお名前は清志郎( セ イ シ ロ ウ )にしたいです。パパがいちばん気に入っているお話の主人公のお名前だから。』

「……清志郎……」

 意識せずに呟いたとき、助手席に座る葵が「着いたぞ」と教えてくれる。

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 結局、葵にはなにも説明出来ずじまいだ。長くなりそうだし、どう話したらいいのかも分からなかった。雛屋の従業員の目もあり、楓はうまく言えない。

「……葵、ありがとう」

 車を降り、風に煽られながら、それだけは伝えた。ウインドブレーカーを返すために脱ごうとすると、窓を開けた葵に止められる。

「良い、着てろ。そんな薄着で行くつもりか?」
「……」

 これからしようとしていることが、見透かされているのだろうか。葵はズボンの後ろポケットから財布を取りだした。

「持ってけ」
「! えっ……」
「すこしは貯金もある。好きに引き出して、使うんだ。暗証番号は、昔飼っていた犬の誕生日」
「葵! そんな、受け取れない!」

 押しつけられた革財布を戻そうとする。
 だが、葵は拒んだ。
 
「理由が、何であろうと。楓がまわりに逆らおうとしているなら……その背中を押してやりたい」

 葵は悲しげに微笑う。複雑な表情を間近で見て、楓は息を飲む。

「そんな風に自分の意志を表したのは、初めてじゃないか。いつもおとなしく、我慢して、従って……売春までさせられて。お前が……不憫で、健気で、しかたなかった。それなのに俺は何も出来ず……」
「…葵……」

 持っていけ、と改めて言われれば、楓は断れなくなった。助かるのは事実だし、受けいれることにする。財布の重みをぎゅっと胸に抱く。

「じゃあ……っ、俺も……」

 楓は、持ってきた携帯電話を出した。

「預かってほしい、絶対に取りに戻る。いつになるかは分からないけど……」

 窓越しに渡すと、葵は深く頷いてくれる。

「お客さんの番号が全部入ってて……俺は男娼だから、すごく大切なものなんだ。葵に持っててほしい」

 男娼の仕事が嫌いなわけではない。
 でも今は、美砂子のそばにいたい。
 好きな人を支えたい……

「葵は俺の家族だ、大事な……さよなら!」

 楓は走り出す。振り返ったらきっと悲しくなるから、唇を噛みしめて、駅前を駆け抜けた。

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 駅構内で、美砂子はスーツケースを引いていた。女の子らしいデザインで可愛い。リュックサックも背負っていて、ぬいぐるみのキーホルダーが下がっている。着ているのはふわふわとしたワンピースに、歩きやすそうな底のないブーツ。

 後ろ姿を見つけた途端、楓はほっとした。そして嬉しくなる。左目が見せた光景と全く同じ、デジャヴのように一致する。

「ミサ!!」

 大声で名を呼んだ。美砂子はかなり驚いたようで一瞬悲鳴を上げ、辺りの人々の視線が集中する。

「え、えぇえっ、か、かえでくんッ……?!」

 驚きのために大きな目をさらに大きくして、振り返り楓を見てくる。楓はそばに近づき抱きしめた。

「二人で育てよう、ミサ一人に背負わせない。そんなこと、絶対にさせないぞ! させてたまるか……!」

 想いを伝えて腕を離せば、美砂子はぽかん、とした表情をして──それは、すぐに泣き顔に変わってしまう。

「うわぁあああんっ、えーん、かえでくん、ミサ、ミサぁっ……!!」

 美砂子は泣きじゃくる。周りの目線はさらに突き刺さるが、楓は気にならない。

「さみしかったよう。悲しかった。パパが、パパがぁ。ミサはひとりぼっちなの?って思ったっ。かえでくんにも会えないし、しんじゃいそうなくらいさみしかったようっ。でも、でも……」

 しゃくりあげて、涙をこすってから、美砂子はまだ膨らみの目立たない腹を撫でる。

「赤ちゃんができて……産みたいっ。ママは、おろせないなら出て行け、二度と顔を見せるなというの。だから、だれにも頼れないけど……」

 産みたい、と言葉を繰り返す。向かい合って、楓を真直ぐに見る表情は真剣で、決意がある。

 楓はスーツケースを掴み、もう片方の手では美砂子の手を握った。

「行こう。俺も一緒に行く」
「四季彩は……? かえでくん……」
「いいんだ。俺はミサと──おなかの子と、一緒にいたい。……ミサは新幹線に乗るんだろう?」
「ど、どうして知ってるの? それに、かえでくん……なぜ分かったの、ミサが今日、旅にでること……??」

 ゆっくりと歩きはじめれば、美砂子は戸惑いを表している。券売機に向かいながら、楓は説明した。

「信じられないかもしれないけど。左目が教えてくれた。ミサの居場所を見せてくれたんだ」
「ほんとうに? ……すごい! やっぱり、かえでくんとミサは運命的だね」

 気味悪がったりすることなく、素直に受けいれてくれる美砂子。美砂子にならすべてを打ち明けられる、見せられる、ずっと一緒にいたい。

 遊廓を逃れることは重罪だ。永遠に逃げきれるとは思えないし、戻れば再調教が優しく思えるほどの罰に晒されるだろう。

 それでもいい。

 楓は生まれて初めて運命に逆らった。ずっと、言う事を聞いておとなしく閉じこめられ、犯され、すべてを受けいれてきた楓が、初めて抗う。

 とりあえず遠くへ、と買った適当な行き先に飛び乗った。移り行く風景をひとごとの様に眺め、本当に離れるんだ、と心で呟く。四季彩で過ごしてきた歳月が走馬灯として溢れた。クラスメイトの顔も浮かんでは消え──中学を出て、高校に行って、その上の学校にも行くかもしれなかった普通の人生をも捨てるんだと思う。やりかけの宿題を机の上に放ったまま。

 隣に座る美砂子は、コンコースで見せた涙が嘘のように笑っている。楓を眺め、にこにことしていた。そばにいるだけで嬉しいんだよ、と言いながら。

 楓は、返事の代わりにキスをする。頬に、次は唇に。
 それから美砂子の腹を遠慮ぎみに触れてみる。
 正直まだ実感はない。でも……

「セイ、だな」

 名前を口に出せば、嬉しかった。突然のことで今は驚きのほうが格段に大きいけれど、微笑が零れてしまう。
 
「ミサもセイって呼んでいたんだよ。清志郎だから、あだなはセイかなあって思って」
「──いい名前だ」

 笑い合うと、もう一度キスをした。この先にどんな苦難が待っていたとしても、構わなかった。終点に着くまで、二人はずっと手をつないでいる。