静想

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 遊郭で、同性に夜ごと犯されていたのは遠い過去になりつつある。
 楓は自転車にまたがり、繁華街を駆けていた。
 まだ日没前だから、客よりも、開店準備をしている従業員の姿や、宅配便や花屋など荷物を搬入する業者が目立つ。
 目的の雑居ビルを見つけて自転車を停める。荷台に積んできた酒瓶のケースを抱え地下への階段を下りていく。ケースは重かったが、楓は軽快に段差を踏む。
「ご注文の品持ってきました」
「おぉ、ありがとう、そこに並べてくれる」
 バーのマスターはグラスを拭いていた。楓はいったん床にケースを置き、そこからカウンターに酒瓶を並べる。めずらしいものから手に入りやすいものまで色とりどりだ。
「いつも思うんだが、きみって意外と力あるんだよなぁ」
「男だから」
 空になったケースを片手で持ち、楓は微笑う。
「いやいや、小柄だしさ。まだ若いだろう?」
「十九です」
 マスターは「えっ!」と声を出し、目を丸くした。
「見えないよ。歳、ごまかしてるんじゃないのか?」
 ビッグサイズのTシャツにスキニーを穿き、スリッポンタイプのスニーカーをつっかけた姿は確かに年齢より幼く見える。小柄な体つきと生まれつきの童顔が理由だ。
 驚かれることに楓は慣れきっていた。なぜいつも左目にガーゼの眼帯をしているのかを尋ねられるのとおなじくらいには。
「まさか……またよろしくおねがいします」
 外に出ると自転車にケースを乗せて跨り、ふたたび走る。
 バイト先の酒屋にはすぐに帰還できた。
 タイムカードを押して、配達用ではなく、自分の自転車に乗って店を離れる。車輪の小さなミニベロだ。
 帰り道で見かけたのは手を繋いで歩く親子だった。まだ幼い男の子と、母親というよりも少女という言葉が似合う後ろ姿。チリンと楓は自転車のベルを鳴らした。
「……わー! おとうさんだー!」
「おかえり、セイ」
 楓は唇をゆるめ、彼らのそばに停まる。保育園の名札をつけたセイは振り向くなりきらきらとした笑顔を浮かべてくれた。
「ただいまぁー、おとうさんも、おかえりなさい」
 子どもは可愛い。セイの髪を撫でてから、楓は美砂子を見た。美砂子も微笑む。
 美砂子の明るく染められた長い髪も、ワンピースの裾も、風に柔らかく撫でられている。
「おつかれさまぁ、かえでくん、なにかたべたいものある?」
「あのねあのね、おれとおかぁさん、すーぱーによるの」
 楓は自転車を引いてセイの隣を歩くことにする。
「そうだな、俺はなんでもいいけど……」
「おれもなんでもいいー」
 両手を上げるセイに、美砂子は首を傾げた。
「なんでもいいっていうのがいちばんこまるよー。でも、ミサも、なんでもいいんだよ」
「そうか。それはこまったな」
 スーパーはすぐに見えてきた。店内に入れば、食べたいものが見つかるかもしれない。

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 夕食はカレーになった。楓は少年男娼だったとき主食をフルーツにされたせいで、ほとんどそれしか受けつけない体質になってしまったが、すこしずつごはんや肉も食べられるようになってきた。
 しかし、食べすぎると胃もたれするので少なめだ。代わりにサラダを多く摂る。
「いってきまぁーす」
 サテンのワンピースにガウンをはおり、シャネルのバッグを肩にかけた美砂子が玄関に向かう。
 出勤時間を九時からと遅くしているのは、家族でゆっくり過ごしたいかららしい。マンションの下にはすでにタクシーを呼んである。
「あまり、無理するんじゃないぞ」
「キャバはミサがすきでしているお仕事だから、だいじょうぶだよ。セイをよろしくね」
「あぁ」
「まんがいちアフターいくことになったら、そのときは連絡するね!」
 笑顔を残して美砂子は去る。閉じたドアの向こう、ヒールの足音が小さくなり、聞こえなくなる。
 楓は施錠すると、踵を返した。フローリングを素足でぺたぺた歩く。3LDKのマンションはそれなりに広い。
 寝室を覗けば、家族みんなで眠るクイーンサイズのベッドで、セイがすやすやと吐息を立てている。楓はしばらくセイを見つめた。廊下の灯りが、寝室の闇を薄める。
 ため息を零したあと、音を立てないようにその場を離れた。
 クローゼットを開けて指先を滑らせるのはカーディガンのポケット。通帳のしまい場所だ。
 その場でめくる頁。
 印字されている額は楓の年齢にはそぐわない大金──遊郭を出てからもちょくちょく売春をして貯めてきた。これだけあれば当面働かずとも暮らしていける。セイの学費もじゅうぶんにまかなえる。
(だから……もう俺がいなくても……)
 ふたりは生きていける気がする。
 ふたりを守ってくれる、養ってくれる、立派な男もすぐに現れるような気がした。
(……俺の背負ってる宿命は、ミサとセイを困らせるばかりだからな……)
 この五年、遊郭の追っ手から逃げるため転々と旅して暮らしてきたのも、楓には心苦しい。
 深く憂いながら、楓は瞼を閉じた。

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 遊郭『四季彩』は今宵も盛況だ。
 時代の移り変わりに左右されることなく、どの夜も禍々しく淫らに咲き誇り続ける。
 茜は、障子を透かす明かりを眺めながら、中庭を歩いていた。
 妖かしの琥珀色の右目を晒し、素足で砂利を踏んでいく。
 幼いころに命を断っている茜は誰とも肌を交えた経験はなかったが、紫色の襦袢を着崩した姿は男娼に見えなくもない──かつてこの場所で少年男娼だった楓とおなじ姿をしているのだから、当たり前かもしれないが。
「……あぁ、伽羅、きみも散歩?」
 遊郭で飼われている黒猫を見つけ、茜は近づいていった。
「きみも歳をとったね。人間なら、何歳なんだろう」
 気づけば、茜が此処にきてから九年の時が流れている。
 楓が去ってからは五年。
 酔客の騒がしい声と三味線と琴の音色を聞きながら、茜は薄笑む。
「楓に話したいこと、たくさんあるんだよ。ひさしぶりに会いたいな。会わせたい人もいるんだ」
 しゃがんで撫でていると、ふいに、伽羅は身を震わせた。驚いたように目も見開く。
「どうしたの?」
 伽羅の注視する背後に振り返った茜も、瞠目することになった。
 遊郭に居着いた日々のなかで、幾度となく見かけた姿だ。
 和服姿がさまになった、白髪の老人。
(そんな……! 成仏、してない、のか……?)
 自分のことは棚に上げて驚いてしまう。邂逅に凍りついていると、かつての当主は目を細める。
 酒池肉林の郭を統べる者とは思えない、柔らかな笑みだった。