別れ道

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「そろそろ……その日が近づいてる気がするんだ、前以上に」
 いずれ、遊郭に戻らなければならない日は来る。
 避けられないことだ。
 美砂子も理解しているし、覚悟してくれているが、改めて話をする。セイを送ってから、陽光射しこむリビングで。
「……うん。わかるよ。セイを保育園に通わせはじめたし、ちゃんとした家も借りちゃったし……」
 楓はローテーブルに並んだコーヒーカップをぼんやり眺めていた。
「でも……いつまでも、逃げたっていいんだよ? またおひっこしして……」
「そんな生活、セイのために良いはずがない」
 美砂子のためにも良いとは思えなかった。
 となりに座る美砂子はうつむいてしまう。
 楓は眉間を寄せた。
 抱き寄せたらいいのか、謝ればいいのか、わからなかった。
「──俺も……出来るなら、ミサとセイと、ずっと一緒にいたい」
 こぼれたのは自分の気持ちだ。
「ミサだっていっしょにいたいよ……」
 美砂子は瞼を擦り、楓の心は痛む。
「……あのね、ミサについてきてくれてありがと……!」
「ん……?」
「あの日、京都駅にきてくれたときのこと。一生忘れないよ」
 とても悲しそうなのに、切なそうなのに、それでも顔を上げて微笑みを浮かべてくれた。
「すごくうれしかったの、かえでくんがいっしょにきてくれなかったら……いまみたいにセイを育てられなかったかもしれないんだよ」
「俺は……ミサを愛しているし、セイの父親なんだから、ミサと来たのはあたりまえのことなんだ」
 楓は苦笑する。
「かえでくんが男娼なのも、追われているのも、かえでくんが悪いんじゃないんだよ」
「ミサは優しいな」
 美砂子の頭にぽんと手のひらを乗せた。さらさらの髪を撫でる。
「かえでくんこそ、そうとう優しいよ」
 しばらく楓を見つめたあとで、美砂子ははにかんだ。だから楓も微笑を返した。ふたりでマグカップを手に取り、それぞれ啜る。

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 入荷されたリキュールを売り場に並べていると、来店者を知らせるチャイムが鳴った。
 楓は作業を続けながらも反射的に「いらっしゃいませ」と声に出す。客は店内をゆったり歩き、気配はやがて楓の背後へと迫る。
 客を見た楓は、持っていた酒瓶を落としそうになった。
 相変わらずにエスニックな私服姿で、巻きスカートを履いて中性的なのもじゃらじゃらと腕輪と首飾りを下げているのも変わらない。ただ、髪色は初めて見る色あいだ。毛先だけ朱く染めている。
「……那智……」
 ガーゼの眼帯に隠されていない右目を大きく見開くと、相手はクスッと笑った。
 とても懐かしい笑みだ──……
 いつかこんな日が来てしまうと確信していた。ミサにも話したばかりだ。
「泡盛でも飲もうかな。おすすめってある?」
 何故だか、ツンと目頭が熱くなっているのを自覚しながら、楓は泡盛の棚へと案内する。
「ふふ、すごいね、色々な銘柄を置いているんだ」
「那智ならこれがいいかもしれないな……」
 すすめたのはフルーティーに作ってある、口当たりの良い泡盛だ。
「それにするよ。楓が選んだものに間違いはないから」
 那智はタイダイ染めの袖を揺らして掴む。他にはなにも買わない。この時間帯は他の店員がいないので、楓がレジもこなす。那智は「ちょっと店出れる?」と尋ねてきた、財布を開きつつ。
「もうすぐ店長が来るから……早退するって話してみる」
「そう。じゃあわたしは……」
 開け放たれた引き戸から、斜向かいの純喫茶が見える。
「あのお店で待ってるよ」
「……分かった。多分、三十分もかからない」
 泡盛の入った袋を手に、那智は酒屋を出ていく。
 後ろ姿を眺める楓の胸中にはさまざまな思いが交錯し、それはとても一言では言い表せない。
 那智が現れたということは、暮らしているマンションも、セイの通う保育園も、美砂子の勤め先も、すべて掴まれているのだろう。

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 バイトを早退けし、那智の待つ店を覗いた。目があうと那智は席を立ち、会計を済ませてしまう。
「……ひとりなのか?」
 拍子抜けする楓だった。遊郭の人間を連れ、複数人で来ているかもしれないと身構えていたからだ。
「うん。そうだよ」 
 那智は近くのホテルに泊まっているそうで、陽光の下を歩いて向かいながら近況を聞く。当主の座を退いてからはあまり遊郭には関わらず、クラブでDJをしたり、水煙草(シーシャ)の店をしていると語った。
 楓も五年間の軌跡をかいつまんで話した。那智は穏やかに耳をかたむけてくれる。
「でも、一線を退いてる那智が、どうして俺のところに……」
 カードキーで入った部屋はシングルルーム。壁際に置かれたスーツケースもひとつ。
 楓の疑問に答えず、ふたりきりになった瞬間、那智は楓を抱きしめてきた。
「……! え……」
 温もりも、鼻をくすぐるお香のにおいも楓にとってはすべて懐かしい。
「大人になったね、楓」
「…………」
 抱擁を解いた那智は、楓の頭を撫でてくれる。
 瞬間に楓のなかで、なにか、糸が切れてしまった。
 楓の瞳はじわじわ潤み、耐えきれなくなり、決壊する。
「あはは、どうしたの……?」
 右頬に涙を零し、鼻を鳴らすと、困ったように苦笑された。
 すがりつくように、今度は楓から那智に腕をまわす。那智はなにも言わずに受け止めてくれる。

 ──遊郭を出てからだれにも甘えることなんてできなかった。

 たった十四歳で、美砂子を支え、セイを守らなければならなかった。よき夫であり、よき父であることは楓の歳では大きすぎる責任だ。
 しかし、それは美砂子も変わらない。
 この五年間幼いふたりはセイを連れて懸命に生きてきた。
 那智は、切なげな眼差しで、けれど優しく、楓を見つめ、なだめるようによしよしと髪を撫でる。

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「落ち着いた?」
 ベッドに座り、ティッシュで雫を拭きつつも、楓は頷いた。いきなり泣いてしまって恥ずかしいし、格好悪い。まさか自分が泣いてしまうなんて思ってもいなかったから、戸惑ってもいる。
「相変わらずに綺麗でふしぎな瞳……」
 眼帯をはずした楓の顔を、那智は覗きこんでくる。
「昔、何度も言ったでしょう、抜き取って首飾りにしたいって」
 那智は目元に触れるだけでは飽き足らず、そっと唇も寄せてくる。左瞼にキスをされた。
 感触はすぐに離れ、楓は両眼に那智を映す。窓にはカーテンがされているので琥珀色の眼球にも眩しくない。敏感に感じ取ってしまいがちな、おかしな気配もなかった。
「那智……ごめん」
 楓は視線を落とす。
「遊郭を足抜けしたりなんかして……四季彩のおかげで蔵から出られたし、学校にも行かせてもらってたのに……俺は、恩を仇で返すようなことを──」
「謝るのは……わたしも」
 那智は楓の手からティッシュを奪い、くずかごに捨ててくれた。
「なにもしてあげられなかった。助けてあげるどころか、楓の子どもは堕胎すか、産んだとしても遊郭の商品として育てるかしか、選択肢はなかっただろうし」
「那智は当主だったんだ。仕方ない、当たり前だ」
「ふふ、物分りが良すぎるね、相変わらず……楓の決断は間違いじゃなかったよ。だけどね、そろそろ、タイムリミットみたい」
(……タイムリミット……)
 息を呑み、那智の言葉を心のなかで反芻する楓だった。
「四季彩は楓を見つけたの。だから遠くないうちに、遊郭に連れ戻されちゃう。今日はそれを伝えにきたって訳、わたしが個人的にね」
「個人的って、どういう……」
「あくまでも単なる旅行。四季彩から来たんじゃなくってね」
「……」
 表向きはそういう建前なのだろう。
「そうか……ありがとう」
 楓は微笑った。四季彩は娼妓にとって地獄のようなところと形容されているけれど、楓は一度としてそう思ったことはない。
「──強制的に連れ戻される前に、楓から戻っておいで」
 那智はこの一言を伝えるために来たのだ。
「そのほうが、いくらか、罪が軽くなる」
 那智はまた頭を撫でてくれる。楓は何度でも撫でてほしくなっている自分を見つけてしまい、気恥ずかしさがぶりかえす。那智を注視できずうつむく。ミサとセイには知られたくない姿だ。

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「……那智……あんまり、べたべたするな」
 さらには抱きしめられる。身をよじってみたが、那智は離れない。
「……なにをするんだ……っ……、あ……」
 唇を奪われた。すぐに舌先も挿入ってくる。
 艶めかしく蠢かれれば、楓の身体に電流のような衝撃が走った。性の作法を知り尽くした越前谷家の人間からの口づけは──遊郭を出てからときおり取っていた客達の舌遣いとは決定的に違う。
 当然、美砂子と交わすものともまるで異なった。
「や……、ぁ、う……、……」
 腰でずり下がって逃げようとしたのが、最後の抵抗だった。
 両肩を掴まれて動けなくなれば、酔いしれてしまう。
「敏感すぎだよ、楓。どうしたの?」
 唾液の糸を引きながら那智の顔が離れていくころには、楓はすっかり上気しきっていた。
「最近……は、ふつうのバイトしか、してなくて、それで……」
「駄目じゃないか、楓」
 たしなめるようにスキニーパンツの前を弾かれた。すでに硬く張りつめている。
「そんな生活をしていたら、性玩具の作法を忘れてしまうよ。戻ってきたとき、再調教が長引いて辛い思いをするかも」
「えっと……、その……」
 間近でじっと見つめられると、受けてきた躾の記憶がよみがえる。
 どんな言葉を使えばいいのかはすぐ思いだせた。
「に、肉便器のくせに、性奉仕を……おろそかにして、悪かった……」
 頬がさらに熱くなった、ひさしぶりに発する淫語のせいで。四季彩では毎日のように口にしていて、たったこれくらいではひどく恥ずかしくならなかった。やはりなまっているのだろう。
「肉便器……いい言葉を使ったね。そう、楓は生まれつきに淫乱の男好きで、男に身体を売るために生まれてきたんだものね……」
「……」
 下品でひどいことを言われるのもひさしぶりで、表情をしかめそうになった。本当は、笑顔を浮かべるくらいでなければならない。
「お、お褒めにあずかり……光栄で、す……」
 なんとか、遊郭の作法で答えると、那智は薄笑んで「偉い子」と撫でてから頬にキスしてくれる。
「ひさしぶりに抱いてあげる」
 耳元で囁かれれば、震えてしまった。
「思いだして。楓の本分を。まだ四季彩に飼われたままだということも理解させてあげる」
 歓喜も湧きあがってくる、心の底からふつふつと。そんな自分を認識し、やはり淫乱の男好きなのだと理解する。そのように調教されたのだ。生まれつきに──とは、思いたくなかった。