土曜の昼下がり、窓から差しこむあたたかな陽射し。
 楓は今頃何をしているのだろう。キッチンで洗いものをしながら、美砂子は考える。
 起床して、男娼の仕事のためにシャワーを浴びて身綺麗にして、フルーツの食事を摂っている頃か……それとも、すでに客をベッドに招いているかもしれない。
 客を取っていないと、楓はこの時間帯に電話をくれることが多い。
 美砂子が15歳、楓が14歳のときから一緒に生きてきて、今さら毎日のように長く語り合う内容なんてないと言ってしまえばないのだが……話せるたびに今でも嬉しくなる。声を聞くだけで癒される。
 鳴りだしたスマートフォンの着信音に、美砂子はお湯を止めた。
 タオルで手を拭き、スマホを取って画面を見ると──在籍する高級キャバクラの店長からだ。
 楓の電話でないのを残念に感じながら、通話ボタンを押す。

「はぁいっ、こんな時間にめずらしいね」
『昼間の方が、ミサさん出てくれるかなって思ってさ』
「今起きたでしょ? 声が半分寝てるよ」
『バレた? ははは……』

 雑談もそこそこに、店長は本題に移る。

『来週、周年のイベントあるじゃんね、やっぱりミサさん出てくれないかな?』
「えーっ、ことわったよね? ぜったい忙しくって早上がりできないから……」
『うーん……でもやっぱりミサさんはうちの顔だから、居てほしいんだよね。今年の周年も出てくれないのってお客さんたち寂しそうだし、女の子たちもやっぱりデカいイベントの日はミサさんに居てほしいって言ってるよ──』

 この店とは長い付き合いになる。楓が四季彩に戻るのをきっかけにいったんは辞めたものの、都合のいい夜だけでも来てほしいと頼まれ、週に2、3日ほど出勤している。セイとの暮らしを優先させたいから、閉店まで店にいることは少ない。
 遅くまで働くと、セイが店に迎えにきてしまうのだ。

『だっておれ、おかあさんをまもりたいんだもん!』

 初めて店まで来たのは小学2年のときで、セイを見た瞬間心臓が止まりそうになり、美砂子はドレスのままその場に崩れ落ちた。
 美砂子の名刺を頼りに、人に聞いてやってきたという。本人いわく、ガラの悪い大人たちから美砂子を守るために迎えにきたそうだが……幼い子どもがひとりで繁華街を歩くなんて危なすぎる。
 それに、店の従業員、女の子、客たちがセイに優しくしてくれるのは嬉しいが、困る面もあった。彼らになついたセイは、ますます気軽に迎えにくるようになってしまったのだ。
 美砂子は人と話して楽しんでもらう水商売の仕事が好きだ。夜の街の雰囲気も、お酒を楽しむ場のにぎやかさも好きだった。本当はもっと仕事をしたい……けれど自覚している、自由に生きるひとりの女である前にセイの母親だということを。
 たとえ、大好きで向いている仕事でもセイの為に出勤をセーブするのは美砂子にとって当たり前のことだ。
 断りたいのに、店長は『とりあえず少し考えて欲しい』と言って退かない。
 通話を終え、スマホを耳から外すと、ため息がこぼれてしまう。

(こまったなぁ……閉店まで帰れなさそうだもの……)

 とは思いながらも、大きなイベントの雰囲気を味わいたい気持ちも正直なところある……普段の営業時とは異なる活気と緊張感、店前に並ぶたくさんの祝いの花、テーブルに並ぶシャンパン。
 女の子たちは普段よりおめかしして、きらびやかな雰囲気で、想像するだけで楽しい気分になる。周年に出勤するならひさしぶりにお着物にしようかな──ついつい暴走する考えに、美砂子はひとりで首を横に振りながら……だんだん、気持ちが揺らいできた……。
 閉店と同時に店を飛びだそうか。店が出してくれる送りの車なんて待たずにタクシーに飛び乗り、急いで帰ってくればいい。アフターも打ち上げも絶対に断って……それなら大丈夫だろうか……?

「……どうしようかなぁ……」

 キッチンで悩んでいる美砂子のそばに、子ども部屋にいたはずのセイが近づいてきた。

「ねぇ、おかーさん、どうしたの?」
「あのね……セイ……来週の金曜日だけど……」
「おしごと?」
「ひとりでお留守番……できる……?」

 本人に聞いてしまった。
 すると、セイはまかせろと言わんばかりに、胸に手を当てる。

「うん! おれできるよ! だって5年生だよ!!」
「ぜっっっったいにお店まで歩いて来ちゃだめだからね? 心配なんだから……!」
「えー、うんっ!! はーい!!」

 不安だ……。美砂子は眉根を寄せ、もうひとつの懸念を告げた。

「それから、ママがいないからって、ずーーーっとゲームしてたらダメだからね?」
「……えーっと、はぁあーいっ!」

 絶対するつもりだ。しかし……ゲームに夢中で夜の街に出てこないほうが安心かもしれない。
 何にせよ、日付が変わるまで働くなんて夜は、これで最後にしよう。美砂子はそう決めたのだった。