真っ白なシャツを風にはためかせて、アスファルトを歩いていく。 車はほとんど通らず、信号もない島だから、路の真ん中を。 ……やがてその路も離れて、砂浜に降りれば、流木に座って読書する男がいた。パジャマのようにラフな上下にサンダルを履いている。 同じ施設で暮らす顔見知りでもあり、相手から会釈をしてくれた。 「あぁ、こんにちは」 「……こんにちは……いつも思ってるんですけど……本好きですね」 「うん、好きだよ。根っからの文系だからね。良ければおすすめを何冊か貸すよ?」 「……お恥ずかしい話ですが、字、あまり読めないんです」 「俺で良ければ勉強教えるけど……」 「勉強は……ちょっと……」 「身構えずに、少しずつさ」 施設のリビングで、彼が子どもたちに教えているのをよく見かける。にぎやかな人の輪に入るのはあまり気乗りしないから、さりげなく話題を変えてしまった。 「……私の兄も……本好きなんです。本島に住んでいて……バイクや車の修理をしていて……見た目は本なんて読まない感じに見えるけど、実は読書家で」 「そうなんだね。お兄さん、読書家の美人かぁ……いいね」 「たしかに、兄は美人ですけど、どうして分かったんですか?」 「君も美人だから──俺はさ、あまり女の子を綺麗とか思うことは無いんだけど、そんな俺でも思うくらいに可愛いから、心配だろうな、お兄さん」 「心配って……? 何がですか……?」 首を傾げたとき、アスファルトの道路からこちらに向かって手を振る人影がある。 「越前谷さーん」 白衣を着た姿は、施設のスタッフだった。 「京都の相沢さんから、宅配便、届きましたよー!」 それを聞き、男は顔をほころばせる。 「わぁ、嬉しいなぁ……今日は何かな?」 流木から立ちあがる瞬間、男のパジャマの裾がめくれて、足首の火傷が覗いた。あの施設は心身のどちらか、または両方に傷を負った人のためのものだから、過去に何かがあったのだろう。 男は柔和な笑みを残していく。文庫本を手に。 「じゃあ、またね」 「はい、また……」 会釈をして、ひとり残り、しばらく海を眺めた。 兄は近くで暮らしてほしそうだけれど、たくさんの人が暮らす場所は苦手だから、本島に渡る気にはなれない。 本島の方角を見つめていると、ぱらぱらと雫がこぼれてきて、長い髪を濡らす。この地域の気候で通り雨はよくあることだ。足早に砂浜を離れて、港の方角に向かう。 島に数件しかない、貴重な食料品店のひとつの軒先に入ると、見慣れない先客がいた。自分と同い歳くらいの少年が錆びたベンチに座り、パピコをかじっている。 店内でポカリスウェットを買ってすぐ外に戻れば、少年は雨の海を眺めながら、妙な旋律の歌を口ずさんでいた。 「“少年奴隷の船が来る〜”」 外国の言葉らしく、何を言っているのかは分からないが、つい耳を傾けてしまう。 「“悪戯する子 悪い子は 乗せられ連れていかれるの〜”」 食べ終えたパピコの包装をベンチ脇のごみ箱に捨て、少年はそれほど大きくない声で、語りかけるようにしばらく歌っていた。 歌声が途切れたとき、つい、話しかけてしまう。 「すごく歌がじょうず……」 振り向いた笑顔は信じられないほど人懐こく、無邪気でしかない。 「えへへ、そう? 照れるー……」 初対面の人と接するのは苦手なはずなのに、自分からベンチに座り、少年と同じ目の高さになる。 「もしかして、有名な歌なの?」 「ううん、全然有名じゃないと思うよ」 少年は首を横に振り、さらさらの黒髪を揺らした。 「中国のね、一部の海沿いの街だけで歌われてる童謡なんだって」 「中国の童謡……? はじめてきいた……最近目覚めたばかりだから、知らないことがたくさんあるの」 「そうなんだぁ……俺も知らないことたくさんあるよ、自由に外歩いていいよって、許してもらったのは最近なの」 施設で暮らす者でもないし、元々の島人でもなさそうだし、どんな立場の少年なのだろう。プルタブを開けたポカリスウェットを両手で飲みながら、疑問は大きく膨らんでいく。 とりあえず……名前を聞いてみようと思った。 「あの……」 「なあに……?」 「お名前は……何ていうの?」 「俺はセイだよ」 「セイくん?」 「うん、吉川清志郎だから、みんな俺をセイって呼ぶの」 「すてきな名前……」 古風な感じがして、それがまた良いと思った。 セイは照れたように髪を掻き、教えてくれる。 「おじいちゃんが作家だったんだって」 「作家……?」 「小説家だよ。それでね、俺の名前は、おじいちゃんが気に入っているお話の主人公の名前なの」 お兄ちゃんならその小説家を知ってるのかな……ぼんやり考えていると、今度はセイに聞かれる。 「きみは?」 「私は──」 セイと視線を重ねて答えた。 「神山杏──……」 伝えた瞬間に細められる、セイの大きな瞳。 「アンもすごく綺麗な名前だね」 「……ありがとう……」 つられて杏も微笑む。聞きたいことは他にもたくさんあった。 「……セイくんはどこから来たの?」 するとセイは目の前の水平線を指差すから、杏は首を傾げる。 「海?」 「楽園から来たんだよ」 そう言って笑ってみせるセイは、不思議な男の子だ。 よく分からなかったけれど、杏も微笑む。 なんだか、初めて会った気がしない──とりとめなく語りあい、杏の暮らす施設のことや、兄のこと、セイの家族のことなどを話した。 ……どれほどの時間を過ごしただろう。 通り雨はとうに上がって、杏の髪もシャツも乾いている。 仄かなオレンジ色に染まりつつある空を見て、セイは呟いた。 「……もういかなきゃ……」 立ちあがると、改めて杏に振り返る。 「アン、また俺と会ってくれる? この島の近くには、もうしばらくいるんだ」 「私も……私も、セイくんとまた会いたい……」 人見知りな杏が、初対面の相手にそう感じたのはめずらしい。 「明日、またここにきて」 「うん、明日もパピコ食べたいもん」 頷くセイの言いかたに笑ってしまった。セイも笑って付け足す。 「パピコだけじゃないよ、アンにも会いたい」 「約束だよ……」 セイから小指を差しだしてくれたから、指切りをする。 ゆっくりと解く。 セイは身軽に、桟橋の方角へと駆けだした。 「またね、アン!」 途中で振り返り、ジャンプしながら、大きく手を振ってくれる。 「うん、セイくん」 またね…… 杏も手を振り返す。 やがてセイの姿は見えなくなり、夕日は色彩を強めていく。 ゆらめく光、波色、瞳に映るすべてがきらきらと輝きだす、杏の大好きな時間帯に差しかかる。 長く眠っていたとき、夢の中で、もう目覚めなくてもいいと感じていた、ずっと此処にいてもいいとさえ感じていた。 瞼を伏せて過ごす生温かな闇はとても穏やかな世界だった。 それでも今は……目覚めて良かった、瞳を開いて見つめるこの世界を知れてよかったと思う。 夢の底で憂いていたほど、現実は悪い場所じゃない。 杏は飲みかけの缶を手に立ちあがる。本当に、セイにまた逢えるのだろうか、分からないけれど……明日を楽しみに歩きだした……。 楓篇 第三部 終…… |