現代にまで残った、時代錯誤な遊郭の屋号は『四季彩』だった。 山間の竹林に隠れ潜む、渡り廊下で繋がった、何棟もの廓。 その建物は本来なら重要文化財に指定されるべきだったが、一般社会に存在を隠した遊郭なので、そういった指定を受けることは最後までなかった。若い女を揃えた棟も、若い男を揃えた棟もあり、金さえ払えばどんな相手も抱ける──奥まった棟では年端もいかない幼子までも一夜を売る── 何百年と続いた酒池肉林の地は、その歴史を鑑れば呆気なく終焉を迎えた……焔に呑まれ、広大な敷地の大半を焼失してしまったのだ。 秀乃は何を思って火を放ったのか。こんな場所をもう終わらせたいと願ったのかもしれない……だが……残党は似た組織を立ち上げて、早くも営業を始めていると楓は耳にした。 四季彩に借金の肩代わりをしてもらったり、芙蓉館で違約金を払っていた娼妓たちの中には、今回の混乱に乗じて開放された者もいるそうだが、以前と変わらずに飼われている者も少なからずいる。 性を売る商いが、無くなることはありえない。売春は世界最古の職業とまで言われている。時代ごと、国ごとの、法も倫理も関係なく存在しつづけるのだろう。 越前谷の老人たちが力を失ったとしても、また同じように悪趣味な権力者が現れて、力を握ることもあるだろう。 人の世はただ儚く繰り返していく。永遠に。 ◆ ◆ ◆ セイの帯を結びながら、楓はため息をこぼす……。 芙蓉館から持ってきた着物を着付けている。セイと同じ歳の頃、客に買ってもらった濃紫色の着物で、絢爛に花々の咲き誇る絵柄だ。 11歳の楓は、派手な着物はあまり好きじゃないと思いながらも、自分の為に仕立ててもらったのは嬉しくて、よく袖を通していた。 けれどまさか……美砂子と足抜けした後も、楓の着物は処分されずに大切に遊郭にしまわれていて、こうして我が子に着せる日がくるとは──考えもしなかった。複雑な感情になる。 楓の気持ちとは裏腹によく似合っていたし、セイもとても嬉しそうに笑う。振袖の腕を広げて、嬌声を上げ、鏡の前でくるくると回る。 セイの装いに合わせて、楓も久しぶりに和装を身につけた。芙蓉館に入ってから作ったもので、落ち着いた色柄で留袖だ。 ……なぜ衣装に身を包んでいるかというと……客たち、昔の同僚たち、仲の良かった従業員たちが、大挙して船に訪れたからだった。 集団でひとりの男娼を指名しに来るなんて、こんなことは初めてだと船の人々は驚いている。 親しい人たちが来てくれたのは、楓は当然嬉しくもありつつ、やはり複雑な感情も持ってしまう。彼らにセイを見せたら、抱きたいと名乗りをあげる者もいるに違いない。 『どこの馬の骨か分からない奴に抱かせるよりは、自分もよく知っている男に抱かせたほうが良いかもしれない』──と思ってから、心のなかで自分に(おじさんみたいな考えだな)とつっこむ。 見た目だけは今でも少年に間違われるが、もう若くないなと改めて感じた。 美砂子は……ひと足早く、彼らの宴が催されている広間に赴いている。色々とショッキングなことが続いたので、にぎやかな時間は美砂子にとって慰めになって欲しい。 実は、楓の客には美砂子のところに飲みに行っている者もちらほらいた。美砂子に悩みを聞いてもらったりするらしい……倫理観も常識もすっ飛ばしたような関係だ。 セイの着付けが完成すると、更衣室代わりに使った楓の店を出る。 廊下を歩きながら、楓は何度でもため息をこぼしてしまう。 「まったく、みんな、今日だって……此処を屋形船か何かと間違えてるんじゃないのか……」 「おとうさんって、やっぱりすごい人気でー、すごい男娼っ!」 隣を歩くセイは髪飾りを揺らし、無邪気に笑うが、楓は苦笑する。 「いや、男娼としてはやり方は王道じゃないぞ」 克己だったり、紫雲だったり、眞尋もいい男娼だった。男も女も惑わす凄艶な色気を纏って、上質な夜を提供していた。椿……由寧……他にも……魅力的な男娼はたくさんいる。 セイは楓の留袖をそっと掴んだ。 「お客さんをいやしてることにはー、変わりないよ」 セイが立ち止まったので、楓も歩を止めた。セイは歳に似合わない、妖艶な表情を浮かべる。 「おれねぇ……マゾだからね……気持ちいいことだいすき。えっちもすきっ、ぶたれるのも、はずかしいのもぼっきする……」 何を言いだすのか。楓は眉根を寄せてしまう。 楓の親としての想いに気づくことなく、セイはまた無邪気な子どもらしさを取りもどし、楓に笑いかけてくれた。 「けど、じぶんが気持ちよくなることばっかりじゃなくて、相手を気持ちよくしてあげるのも良いね、すてきなことだね。それでね、身体が気持ちいいだけじゃなくて、心もみたしてあげるのって、もっとすてきだね!」 その言葉に、楓はやっと唇をゆるめる。 「分かってくれたか」 セイの頭にポンと手を置き、黒髪をさらさら撫でた。 「エッチなことをするだけなら、男娼じゃなくても出来るんだ。俺の考える男娼の仕事というものは──……身体を売る仕事なのにおかしなことを言うかもしれないけど、実は、性的な行為以外のところにあると思う」 セイは楓を見上げて、目を見て、ちゃんと話を聞いてくれている。 「身体を手入れしておく、部屋も整える。お茶を淹れて、お菓子を用意して、話を聞いてあげて、マッサージもしたり……」 部屋にいくつものガラス瓶を置き、客それぞれと果実酒を作るのも楽しかった。同じフルーツを使っても人によって違う味になったり、客同士で飲みあって意見交換までしていて、だんだん本格的な酒造りになっていくのは面白かった。 その酒も真希の軽トラックで運びだしていて、実は今日、一気に広間で飲み放題にしている。 空になってもまた作ればいい……船内に与えてもらったあの店で。 「もちろん、好みの下着とかプレイだとかも把握しておくのも大前提だ……自由帳に殴り書きでもいいから、顧客の情報はちゃんと記録しておくんだ」 セイは元気よく手を挙げる。 「はぁーいっ!」 「極めようと思えば、やることは本当にたくさんある。それと、長い目で見ることも大事で……」 廊下で熱く語っている場合ではないと気づき、楓は苦笑した。 「まぁ、いい、今度またゆっくり話すか」 やはり自分がセイに男娼として教えたいことは、ベッドの上の作法でも、アブノーマルなプレイの享受でもない。性交については旅団に教えて貰えばいいし、乱暴な言いかたをしてしまえば、誰に教わらなかったとしても客を取っていれば自ずと磨かれていくだろう。 「行くぞ」と声をかけて、セイと歩きだす。 「おれね……おとうさんみたいにたくさんのひとをいやしてあげられる男娼になってね……」 セイは楓の留袖を掴んだまま尋ねる。 「でもー……男娼はずっとできるお仕事じゃないんだよね?」 「あぁ、そうだ、若いうちしかできないぞ」 続けて欲しくもない……楓はセイには告げなかったが、心の内ではそう思う。 「だからね……男娼卒業したらね、もっとちゃんと歌をうたいたいなぁ……ステージで歌うの、えっちの次に気持ちいいんだよ」 「はははっ、そうか……」 向いているかもしれない、セイの歌は本当に上手だ。 「おとうさんは? しょうらい、どうするのー? どう生きるの?」 「お父さんは……」 芙蓉館の最後の夜、暮林に話したことを思いだしながら、楓はセイの瞳を見つめ返した。 「田舎で星でも観測しながら、喫茶店でもやろうかな」 「いなかー? はたけとかも、たがやすの?」 「それも良いかもしれないな」 真希の実家の農園の話を聞いていたら、大変なことも多そうだが、興味も湧いた。家庭菜園なら、自分にも出来そうな気がする。 楓は美砂子との約束も思いだす。芙蓉館を出たら、もうひとり子どもを──…… 「弟か、妹は欲しいか?」 「えっ……ほしい!! ほしいぃぃぃっ!!!」 セイはびょんびょんと飛び跳ねだす。そんなに欲しかったのかと、楓は笑ってしまう。 「あははは……! 楽しみだな、これからが」 「うん!」 約束はもうひとつある。ちゃんと籍を入れること。 吉川楓。悪くない──日生は葵が継ぐだろう。 「セイ、もうずっと一緒だからな。セイとお母さんを置いて、何処かに行ったりしないからな……」 「うん……!」 大きな瞳を輝かせるセイは、容姿こそ女の子みたいに可憐だけれど、中身は芯の強い男の子だ。 「おれ、おとうさんいないあいだ、ちゃんとおかあさんを守ったよ!」 そんなことを言われてしまうと……これから客や同僚たちに会うというのに、涙腺がゆるむ。 「ほんとうにずっといっしょだよ! 男の約束だよ!」 「あぁ、ずっとずっと一緒だ」 楓は軽く瞼を押さえつつ、笑顔で頷いた。セイは嬌声を響かせる。 「やったー!!!」 倒れこむように楓にしがみつき、セイから手を繋いでくる。 本当ならそろそろスキンシップを拒みそうな年頃だが、肌を重ねる身に堕とされてしまったからか、元来の性格なのか、それとも離れて暮らした時間が長かったからか……まだまだ甘え盛りだ。 「今日のおとうさん、バニラアイスのにおい、男娼のにおいー……!」 広間に続く廊下には、はしゃぐセイの声が響く……。 ……おれのすきなにおい──…… ……ねぇ、それでね、おとうさん──…… |