1 / 3冷たい床に克己は転がっていた。窓もなく、じめじめとしていて薄暗い。劣悪な環境に閉じこめられてもう数日経つ。 服装は放りこまれた時のままだ。ブラウスにスカート。破れたストッキングは脱ぎ捨てた。すりむいた膝はかさぶたになり、癒えつつある。 克己自身の心境も、ずいぶんと落ち着いてきた。 皮肉なことに、それはここに入れられたからだ。日常から遮断された空間で、人と会話することもなく、時間もわからず、ただ存在すれば、イヤでも己に向きあえる。 もう、取り乱した病院の帰り道の克己ではない。 冷静沈着ないつもの克己に戻っている。 足音が聞こえたのは、ふとした瞬間だ。閉じ込められてから、食事や水などを運んできてくれた使用人のものとは違う。複数人の様子で、慌ただしく重なりあっていた。 克己はゆったりと身を起こす。動作に伴い、ほどいた長い髪も揺れた。解錠される扉から現れたのは、現当主である秀乃と、秀乃が引き連れてきたとりまきの部下たちだ。 「……お久しぶりですね、秀乃様」 差しこむ、部屋の外の照明の眩しさにやや目を細めつつも、克己は言う。しだいに慣れてきた目がとらえたのは、いつもの、優男の顔ではなかった。当主しての威厳さえも漂わせた凛々しい顔だ。 「ああ、久しぶり。ここはあまり、よく眠れないだろう?」 「そうですね。コンクリートの床に布団もありませんから、熟睡は無理です」 克己の様子があまりにもいつも通りだったからか、秀乃は唇をゆがめた。そして、正座した克己を見下して告げる。 「お前とは色々と話したいことがある。が、まずは報告だ。お前と水蓮の交配は失敗した」 克己の表情は変わらない。なにを聞いても、もうあの病室のとき以上の衝撃などありはしない。 「水蓮は──流産した」 どうしてかわかるか、と秀乃は問う。克己が言う前に、答えは秀乃自身の口で話された。 「お前と母さんの触れあいを知ったからさ。ショックだったんだろうな……」 秀乃の目線が冷たく刺さる。 克己はその氷のような瞳で、早百合とのすべてが明るみに晒されたことを理解した。 2 / 3殴られて、克己は倒れる。幼少の頃ならば飼育係に折檻を受けたことはあった。だが秀乃に痛みを与えられたのははじめてだ。「前代未聞だ。遊郭の商品が、越前谷本家の婦人に手を出すなんてな……」 頬の痛みがじわじわと疼く。次の瞬間にはブラウスの襟を掴まれ、強引に起こされる。 「いいか克己。母さんはかつての当主の正妻だ。地位の高さを分かっているのか? いくら花形男娼のお前といえど、抱いていい相手じゃない」 眼前で告げられながら、一体秀乃はどこまで知っているのだろうと克己は疑う。鎌をかけられている可能性もある。早百合が吐露したのか、憶測で問われているのか。 しかし、そんなことはどうでもいい、克己の心はひとつに決まっている。早百合に面倒も罪も被せたくない。自らの保身などいっさい考えていなかった。 「……俺にお母様を寝取られたのが、そんなに気に障りますか?」 わざとらしく、挑発的に言った。眉間に皺を寄せた秀乃から、もう一度殴打をもらう。先程と同じ位置を殴られて、口の中に血が滲んだ。 「もちろん、気に障るさ」 「いやらしくていい具合ですよ……貴方のお母様は。俺を締めつけて離そうとしないんです。肌触りも肉のつき方もたまらないですし、色気に満ち溢れていらっしゃる」 克己は挑発をゆるめない。不適な笑みをたたえ、秀乃を見据える。秀乃の纏う空気がさらに不穏になっていくのも、付き従えてきた従業員たちの表情が歪んでいくのも克己に手に取るように伝わってきた。 「不届きものが……!!」 「奥様を弄び、交配も失敗させ……!」 「淫売が、奥方に近づくとは!」 はやし立てるように責めだした男たち。とどめとばかりに、克己も声を荒げる。 「あの女が悪い! 俺を誘惑した……かどわかされたのは俺だ、迷惑な話だ。欲求不満の後家を抱いてやったんだ、高級花魁の俺が!」 これは庇えないな、と従業員の誰かが呟いた。もともとその気も無い克己はくすくすと笑う。 早百合がどんな援護をしても、事実は水蓮が見ている。裁かれることによって、水蓮と流産した子どもへの罪滅ぼしに少しでも成ればいい。 そして早百合への愛の証明にも、成ればいいと思う。 3 / 3(……夢か)暗闇のなかで克己は気づく。 また、夢を見ていた。 過ぎ去った日々ばかりが、夜の夢に現れる。 子どもの頃。 男娼だった日々。 早百合との逢瀬。 水蓮に交えた肌。 抱かれて抱いた客たち。 もう、いまではすべて過去。 ……どれほどの時間が流れたのかわからない ……衣服は奪われ、人間としての尊厳も奪われ ……凌辱され続けている (愚の極みだな、俺は……) 静間に教えられた事実を明かせば、こんなことにはならなかったはず。越前谷の血を引くとなれば、話はずいぶんと変わってくるだろう。 でも、それは嫌だった、できなかった。 克己は……一条雅葦でも越前谷雅葦でもなく、長原克己としての生を選んだ。 意固地だといわれようが、克己であることを捨てたくなかった。プライドと誇りを持って歩んだ男娼という道。幼い頃からの存在理由。 克己として育てられてきたのだから、克己という答えしか選べないのはある意味当然だったのかもしれない。 (静間様は落胆されるだろうか。俺の選択に) それだけが、気がかりだ。実の父などどうでもいいが、ずいぶんと苦悩していた様子の“祖父”静間には心が痛む。 しかし、現在の静間の様子はわからない。隔離された牢に入れられてからほとんど情報など与えられず、存命なのか、すでに鬼籍に入ったのかさえも克己は知らない。 早百合がこの屋敷を出されたということは聞いた。幼い成之を連れ、芦屋(あしや)の実家に帰ったという。 水蓮の話はなにも聞かない。 長老会の面々は水蓮を贔屓して可愛がっていたので、克己への罰は重くなるいっぽうで虐げは止まらなかった。 彼らにより、潰されてしまった克己の両目。 永遠の暗闇へと放り出され、なにも映さない── (いまなら、貴方の気持ちもわかるような気がします。楓さん) 楓と同じ轍は踏まないと誓った、夏の夜もいまは懐かしい。 秋の白日に誓いをした手前、早百合よりも先に死ぬ訳にはいかないとは思うけれど、連日の手酷い拷問に、どこまでもつのか……もう分からなかった。 それでも、生きられる限りは生きようと思う。 克己であることを貫いたという自負を抱きながら。 遠くの方で物音がする。きっとまた輪姦がはじまる。 克己は目を閉じる。常に疲弊している身体はいつでもうつろに夢に彷徨ってゆける。 ふたたび、思い出の欠片に溶けてゆく。四季彩で過ごしてきた時間に戻り、回想のなかで早百合と微笑った。 胡蝶の夢 終 |