1 / 3目の前に広がる黒い海。祥衛はただ、見つめていた。 港の石段に座りこんで、生ぬるい夜の風に撫でられ、髪を弄ばれて、しばらくのあいだ。 ずっと。 メンソールのセブンスターを味わいながら。 最後の煙草だった。 金銭にもう余裕はなく、デニムの後ろポケットに挿したプラダの財布には千円札が二枚入っているだけ。 かつて、繁華街を歩いていたときに声をかけられてホテルに行った男から盗んだ財布だ。 彼の顔なんて覚えていない。 どんな行為をしたのかも、ろくに。 (もう……ものを盗む、とか、イヤだ) 悪いことはしたくないと思う。 その想いは病室で目覚めない妹のことを考えると、なぜだかよりいっそう強くなった。 胸の奥も痛くなった、しめつけられるように。 「杏……」 妹の名を吐きだす、煙とともに。 暗澹(あんたん)の波間のむこう、対岸に並び建つ工場群の灯りが綺麗だ。 昼も夜もなく稼働し、炉を燃やしつづける。 光景は美しくもあり、わざわざ写真撮影に訪れる愛好家もいた。 祥衛も、よく眺めにくる。 埠頭の此処にひとり。 何もすることがないから。 夜、眠れないから。 帰るところも、なくなったから。 先週母親はついに家を引き払ってしまった。 彼女が何処に去ったのかはわからない。 どうせ男のところだろうけれど、あまり母親の動向には興味がわかない。 彼女の生き死ににさえも、惹かれない。 (あの人はただ、俺を産んでくれただけの人) 正直なところ、生まれてきて良かったとは今もあまり感じられない。 でも、また紫帆に会いたい。 それは祥衛の切なる願いだ。 太陽が似合う紫帆の笑顔が、よぎる。 (また……会いたい。紫帆に……だから) この世界で生きていかなければならない。 (それで……杏が目覚めたときに、俺が、いてあげたい) 生きるための理由をかき集めて、零さないようにぎゅっと握りしめる。 祥衛は、吸い殻をコンクリートの石段に押しつけると、立ちあがった。 相変わらずに広がる暗い海に背を向け、傍らに停めていたゼファーに跨がり、港を離れる。 2 / 3高速道路の下を走ってゆけば、すぐに都心に戻れる。すれ違う大型トラック、パトカー、並び輝くネオン、繁華街のきらめき。 おなじ年頃の少年少女が幼さゆえにまだあまり知らないであろう真夜中の光景を、祥衛はよく知っていた。 小学生のころから。 眠れないから、居場所がないから、夜を彷徨って過ごしてきたために。 帰路の先に見えてきた、目的地の高層マンション。 幾度も訪れた場所だけれど、建物の全景をまじまじと認識したのは初めてだ。 下ばかり見て、うつむいて歩いていたから、見あげて眺めたことがなかった。 祥衛は居住者の地下駐車場へと入ってゆく。 定間隔に停められている車列は、家賃額を反映してやや高級車が多い。 そのなかの一台、赤いアウディの運転席に、怜が座っていた。 長髪にサングラスをかけた姿をちらりと目線の端に確認すると、祥衛はゼファーを停める。 アウディに近づいて、助手席のドアを自分で開けた。 「あぁ、どーもぉ」 ひさしぶりに会う怜は、相変わらずに彼らしい間の抜けた挨拶をしてくれる。 柄シャツを開けた胸元にはネックレスが光り、ドリンクホルダーからスターバックスのパッションティーを取って飲む手首にはシルバーのブレスレットが揺れる。 「キミから電話してくるなんて、初めてだよね。だから、つい出ちゃったんだけどね」 (……においも変わらない、ブルガリ) 助手席に座った祥衛は香りに癒された。 正直なところ、緊張していた。 怜に対して、こんな行動を起こすことを。 「話ってナニ?」 「…………」 単刀直入に尋ねられた。 今夜は音楽の流れていない無音の車内。 黙っていても前に進めないから、祥衛は想っていることをうちあける。 「あの。……俺も……」 決意をこめて、言葉を紡いだ。 「男娼に……、なりたい。真堂みたいに……」 「ははは、バカなこと言うもんじゃないよ」 簡単に切り捨てられ、笑われた。 「キミは男娼がどんな仕事か、分かってるのかい」 怜はパッションティーをドリンクホルダーに戻す。 「大貴くんはね、男のコとエッチなことがしたい人たちのニーズに応えるために育てられてきたんだよ。小さい頃からね。だから男娼の仕事をこなせるけど、キミがいきなり出来るカンタンな仕事じゃないのさ」 サングラス越しでも、怜が呆れた表情をつくっているのが祥衛に伝わってきた。 「でも……俺、には……」 「俺には?」 怜は一応、祥衛の話を聞いてくれるようだ。 祥衛はすこしほっとした。 「なにもない……から。でも……」 身体はある。 身体しかない。 (知らない、わけじゃない。ヤられることを……) 母親の男に悪戯された経験だけでなく、見ず知らずの人間と金をもらってセックスした夜もちゃんとある。 いまさら自分の身体を大切にしたいとは思わない。 何をされても、きっと、死ぬわけじゃない。 (きもちいいことも、きらいじゃない) だから出来ると思うのだ。 祥衛は、自分にも男娼の仕事が。 「なにもないけど……身体は、ある……」 「だから、身体を売るって? 短絡的にも程があるでしょ」 「家もないし、生活する、お金がほしい。妹の治療費も」 「そうかい」 怜は祥衛の惨状に驚きもしない。 「相談する相手は俺じゃないよ。学校なり、ケーサツなり、他の大人を頼ったら? 施設に保護してもらえるだろうし、キミの母親は育児放棄で捕まるんじゃない」 「施設は、イヤだ」 学校でさえ苦手で通えないから、児童福祉施設で集団生活することなど出来そうにないと思う。 其処にいる大人を信用するのも難しそうだ。 裏切られるのも、人づきあいも怖い。 「ワガママだね、キミは」 怜は肩をすくめた。 「施設に行くくらいなら、男娼が……いい……自分の力でかせぎたい」 「それなりに決意してきたわけだ、キミなりにね」 やっと怜は祥衛に顔を向けてくれる。 相変わらずサングラスをかけたままだけれど。 「今晩は俺の部屋で休みなよ。俺はこれから女のコとデートに行くけど」 「……あ……」 怜はマンションの部屋の合鍵を渡してくれた。 受けとって、優しさに祥衛は戸惑う。 「ゴメンとか、ありがとうとか、いらないよ。そう言うんだったらさっさと他の人間を頼って」 「……」 「はやく降りなよ」 祥衛は素直に車を降りた。 行ってしまう怜。 赤いアウディが駐車場を出ていくのを、祥衛は見送る。 3 / 3ひさしぶりに訪れた怜の部屋、祥衛はテレビを見て夜を過ごした。眠れないし、することもない。 引き払われる前ついに水道も止められたぼろぼろな家で寝たり、ショッピングセンターのフードコートでぼおっとしたり、ときには公園で過ごしてきた祥衛には、この清潔で観葉植物に彩られた空間は、綺麗すぎてすこしのあいだ馴染めない。 興味のないスポーツ番組を見ているうちに慣れてきて、心もとなさは居心地のよさに変わる。 窓の外の闇がかすかに薄らいできたころ、やっと眠気をわずかに感じ、寝室におもむいた。 このベッドもひさしぶりだ。 汚れた畳の上や、ネットカフェのブースよりもずっとよく眠れて、祥衛が目覚めたのは真昼。 怜はまだ帰ってきていない。 そういえば、小腹もすいた。 (いつ帰ってくるんだろう……) コンビニでカロリーメイトを買おうと思いたつ。 それくらいの買い物をするお金なら、まだある。 リビングのテーブルに置きっぱなしにしていた携帯電話を見ると、知らない番号から何度も着信があって祥衛はぎょっとした。 (だれだ、これ) 不可解に思いながらも、コンビニに行くだけなので携帯は置いておくことにする。 紫帆への返信は、あとでゆっくり打てばいい。 エレベーターに乗りこむと、鏡張りの壁に映るプリン頭の金髪が目についた。 (そろそろ……染めないと……) 一階に着いて、オートロックの自動扉を出ると、まだ夏の暑さを残す外からの空気に触れるとともに、知っている顔と出会う。 「…………」 エントランスホールに入ってきたのは── 真堂大貴だ。 長袖の白いシャツを腕まくりした制服姿で、学校指定の肩掛けカバンを下げている。 (どうして……此処に……) 真堂が…… 祥衛は驚愕のままに固まった。 あの中学から怜のマンションは離れているのに。 (時間だって……昼だ) 中学にはほとんど登校したことのない祥衛だけれど、まだ授業が終わっていない時刻だろうとは、わかる。 「てめー……!」 大貴の眉間には皺が寄っている。 カットソーの胸ぐらをつかまれ、祥衛は閉ざされたオートロックの扉に背中を押しつけられた。 ダンッ、と激しい音が耳元に響いても、強引にぶつけられた痛みを感じても、祥衛はまだ起こっていることを理解できず、まばたきも忘れてしまう。 「なに考えてんだよ……男娼になるとか、ふざけんな。れーさんにきーたけどッ……!」 力をこめられて苦しい。 大貴の瞳は憤りや苛立ちで燃えていて、祥衛は、目をそらすことができない。 「バカかよ! 信じらんねぇ……ダメに決まってんだろ。ぜってーダメだ。ぜってーさせねーからな。俺が……許さねぇ……!」 どうして大貴は、そんなに怒っているのだろう。 祥衛にはわからない。 大貴だって男娼なのに。 怒りの理由を不可解にさえ感じた。 「……くる……しい」 ぎりぎりと締めあげられる呼吸や、立ったままのしかかられる体重に祥衛は呻く。 大貴はハッとしたように、腕を放してくれる。 「ごめん……でも」 「…………」 祥衛は首元に触れる。 カットソーの衿が伸びていないか気になった。 突然に押しつけられた苦しさはまだ残っている。 「男娼になったって、いいことなんてなんにもない。ヤスエにさせたくねーもん、俺……」 まだ話したそうな大貴をすり抜け、祥衛は歩きだした。 エントランスでもめていたら、監視カメラに丸見えだし、ほかの住民と出くわすかもしれない。 「待てよ、ヤスエ……」 「……コンビニ、行く」 道路に出て、青空の下を歩きはじめる。 直射日光を注ぐ太陽が鬱陶しかった。 はやく、もっと涼しくなってほしい。 「……考えなおせよッ……ヤスエには俺みたいなことしてほしくねー、汚れてほしくない……知ってほしくない……絶対……ぜったい、絶対ダメだ。あんなことさせられるかよ……!」 ついてくる大貴のことも、鬱陶しく感じる。 「自分からこんな世界、入んなよ。ヤスエはフツーの世界で生きれるんだぜ? ずっと、そうしてろよ……ダメだ、ダメだ……」 「俺は決めた……」 振り返らないまま、告げた。 手首を大貴に握られる感触を、覚えながら。 (またか) また無理矢理に力づくで感情をぶつけてくるのか、と思った。 こんな道ばたでも。 傍らには車も行きかっているのに、押しつけられ転ばされて、首元をねじ上げられるのかと、祥衛は身構える。 同時に、うらやましさも感じる。 気持ちをこんなにもストレートに表せるなんて、祥衛には出来ない。 「なぁっ。ホントに、やめろよ。どぅしたらやめてくれんの? ぜってーしてほしくない。いいのかよ、沢上は……」 「紫帆は関係ない」 大貴が歩を止めたので、祥衛も仕方なく立ち止まった。 「沖縄に行ったから男娼になっても、ばれない」 「なんだよそれっ……」 ぎゅっとひときわ強く握られた。 けれどそれは一瞬で、大貴からこめられる力は弱まる。 「……シンドウ」 やっと振りむけば、大貴は崩れ、しゃがみこんでいた。 歩道に。 「イヤだ。ダメだ。頼むからっ……」 「…………」 祥衛からすべり落ちた大貴の手は、アスファルトに触れる。 「俺……すげーツライときあるんだぜ……学校のヤツらと俺はちがってる……きたなくて……! それだけじゃなくて、いろんなところが……フツーに生きてるヤツらとは、ちがってて……ヤスエに、ヤスエに、まじで、俺みたいになってほしくねーのに……!」 大貴の姿を痛ましく感じた。 必死に訴えてくれていることも。 けれど、祥衛の心はゆるぎない。 「……俺には……家も、お金もないから」 「…………」 うつむく大貴の髪が、かすかに揺れた。 「でも、生きる……から。親とか、あてにならない……他の大人も、あまり。だから、自分の身体を、使って」 「どんな理由があっても、許さねぇ。俺はぁっ……!」 大貴は立ちあがり、祥衛を見据える。 いまにも泣きだしそうな表情だったけれど、強い意志に溢れていて、気圧されそうになる。 祥衛はそれでも、大貴を見つめかえし続けた。 「……俺は止めたし、ぜってー認めねぇってゆったんだ。それなのに……後で後悔しても、しらねーからな!」 大貴は鋭い眼光で祥衛を睨みつけ、祥衛を通りすぎて歩き去る。 (真堂…………) なにごとかと、様子をうかがう通行人の目線があったから、祥衛は大貴の背中を眺めるのもそこそこに、道路を渡ってコンビニに入る。 しばらくのあいだ、大貴の表情や言葉が脳裏にこびりついてしまって、迷惑だった。 謎の着信も、大貴からだったのだろうか。 |