Epilogue

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 綺麗な建物内の雰囲気に息を飲みながらも、ボストンバッグを手に空港のエスカレーターに乗る。
 あまり自分の暮らしている街から出たことのない祥衛は、いまでさえ緊張しているのに、これから空を飛んで海を超えるなんて現実感がなさすぎて想像できない。
 想像すらできないから、そのおかげで考えすぎて怖くなるという現象が起きなかった。
 まだ飛行機に乗る時間まではずいぶんあるため、どこかで時間をつぶさないといけない。
 ガラケーを出して時刻を見たあとで、思った。

(やっぱり、大貴についてきてほしかった……)

 だけど空港にひとりきりだ。
 祥衛は心細さを感じながら、ガラケーをボア付きベストのポケットにしまう。

『沢上にもー、真堂もおいでよってゆわれてるし、俺も沢上に会いてぇけどー』

 薫子のマンションに遊びに行った折、真冬なのにガリガリ君をかじっている大貴が言った。

『祥衛がはじめて沖縄いくのにー、俺いたらジャマじゃね?』

(ジャマじゃない……)

 むしろ、必須だったような気がする。
 大貴は海外旅行の経験があり、飛行機には乗り慣れているようなのだ。
 いろいろ案内してほしかった。

『次いっしょにいく。今回はー、祥衛ひとりで行ってこいよなー』

(しまった……)

 もっと説得すればよかった。
 むりだ、と、空港内に並ぶおみやげ屋さんや、大きなキャリーバッグを手に歩く外国の人を横目に、緊張や不安でざわついてきた胸を押さえる。

(かえりたい。でも。それもむりだ。チケットを克己君に買ってもらったんだ、し……紫帆に、行くって、いってあるし…………)

 結局チェーンカフェにも入れず、空港内のベンチに腰を下ろして発着のときを待つことにした。
 びくびくと怯えながら。

『ぜったいヒニンはしろよ。まだ中学生なんだぜっ』

 そんなアドバイスしか大貴にはもらえなかった。
 空港のしくみや、なぜ飛行機は鉄なのに飛ぶのだろうということを教えてもらいたかったのに。

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 びくびくしながらも、周りの人のマネをしながら荷物検査をクリアして、搭乗もした。
 荷物はそう大きくないボストンバッグひとつなので預けなかった。
 自分ひとりで飛行機に乗れていることがいまだに信じられないまま、窓際席から地上を眺める。
 海原と日本の輪郭を眺め、紫帆だったら下界の光景を写真におさめそうなだと思った。
 その紫帆ともうすぐ会えるということも信じられない。
 沖縄という言葉の響きだけでものすごく遠く感じられて、二度と会えないような気がしていたのに──また紫帆に会える。

 杏の容態は良くも悪くもなっておらず、祥衛は売春をしなければ生活できない。
 学校には、少しだけ参加できるようにはなった。
 そんなに状況は良くはないけれど、きっと最悪というほどでもなくて、大貴と仲良くなれて、それから、紫帆に会いにいける。

(……死ななくてよかった)

 機内に文庫本も持ってきていたけれど読むことはなく、ずっと光景を見下ろしていると、あっという間に沖縄に着いてしまう。
 那覇に着くと、紫帆に会えるうれしさなのか、緊張からなのか、頭のなかはほとんど真っ白になってしまって機内を出るとき転びそうになった。
 周りの人の迷惑になるのは怖いので必死に手足を動かして、空港内を歩く。

(シホ…………)

「ヤスエ……」
「……あ……」

 すぐに紫帆は見つかった。
 ハニーブラウンに染めた髪に、パーカーを羽織ってショートパンツ、柄入りのレギンスにカラフルなスニーカーを履いた姿で。

「……あははははッ……」

 紫帆はいきなり、腹を抱えて笑ってみせる。
 予想だにしない反応に、祥衛はポカンとしてしまう。
 おかげで妙な緊張は飛んでいってくれた。

「祥衛が沖縄にいるなんて、なんか、ヘンな感じ」
「……たしかに」
「自分で言う? 」
「あつい……」

 着てきた、ボアつきのダウンベストに祥衛が触れると、また紫帆は微笑う。

「だろーね。きょう、18度あるんだよ」
「ふゆ、なのに」
「そうだよ」

 歩きだす後ろ姿に感じる懐かしさ。

「荷物、重くない?」
「あまり」
「預けたりしないでも大丈夫? 持てる?」

 こんなふうに、となりで心配されるのもひさしぶりで、うれしい。

「服しか、入ってない……から」
「じゃあゆいレール乗ろ? 祥衛ははじめて沖縄来たんだから、国際通りとか案内したいし」  
「あぁ…………」

 ダウンベストを脱いでたたんで、バッグに突っこむ。
 切符を買ってホームに行くと、モノレールはすぐに来たのだけど、すこしだけ混雑していた。
 車内で紫帆に密接して立つことにドキドキする。
 なんだかまだ完全には実感がわかない。
 あの街を離れ、紫帆に会いに来たことに対して。

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 県庁前でゆいレールを降りると、国際通りを歩いた。
 沖縄観光におけるメジャーな大通りで、さまざまなおみやげショップや飲食店が並んでいる。
 修学旅行に行った経験もなく、生まれてからまったくといっていいほど旅行をしたことがない祥衛には見知らぬ街をきょろきょろと見ているとなんだか脳に入ってくる情報量が多すぎて、頭がパンクしそうだ。
 となりに紫帆がいてくれてよかった。

(ていうか…………)

 紫帆がいてくれれば何処でも楽しいということに祥衛は気づく。
 それは祥衛には、ちょっと目からうろこだった──
 温かな風になびく髪。
 揺れるブレスレットとピアス、変わらない香り。

「あ、アイス食べる?」

 アイスクリームやフラッペなどを売る店を、紫帆の丸く整えられたちょっと長い爪が指差す。
 大貴が冬なのにガリガリ君を食べているのをヘンだと思ったのに、おなじ季節でも沖縄だと妙に感じない。

「ごはん食べてからのほうがいいかなぁ……こっちだよ、祥衛」

 慣れたように紫帆は案内してくれる。
 大通りから曲がって進んでゆくのは市場通りで、またすこし街の雰囲気が変わって祥衛は緊張と警戒を覚えた。

(紫帆がいるから、だいじょうぶだ……)

 でも、はぐれたら怖い。

(はぐれないようにしたい、紫帆と)

「めずらしい魚ばっかりじゃない?」

 牧志公設市場の建物内に入ると、たしかに地元のスーパーでは見たことがないトロピカルな色の魚が並んでいて、熱帯魚のようだ。
 此処では、普通に調理して食べるらしい。
 市場のなかは活気があって、人も多くて、戸惑いながらも紫帆に導かれるがまま2階に上がると食事が出来るお店が何軒か営業していた。

「どこもおいしいよ。どこがいい?」
「…………どこでも」
「あははっ。じゃあ、このお店にしよっか」

 並んだテーブルのひとつに紫帆が座り、祥衛も従う。

「沖縄の料理にフーチャンプルーっていうのがあって、あたし、好きなんだ。祥衛にも食べてほしい!」

 さっそく紫帆が開くメニューを覗きこむけれど、それがどんな料理なのかよくわからない。

「麸(ふ)を炒めたやつ」
「…………」
「まぁ食べてみて。あとは、やっぱり、ソーキそば?」
「それなら、聞いたことがある」
「ヤスエはめん類すきだし、食べなよ」

 そんなに食べられるだろうか、不安だ。

「大丈夫、あまったらあたしが食べるから」

 祥衛の不安を察してくれる紫帆は頼りがいがあるけれど、もうすこしは自分も紫帆を支えられるくらいになってみたい、と祥衛は思った。

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 食後は牧志駅からふたたびモノレールに乗って、首里城を観光した。
 此処もメジャーな観光地だ。
 こういった歴史的な価値がある場所に訪れたことは初めてで、積まれた石垣や、暮らしている街とは違う木々の下にも紫帆は似合うから、見とれた。
 行き交うさまざまな人々の中に紫帆といるのは楽しくて、時間が流れるのを忘れそうになる。
 夕方になり、車で迎えに来てくれたのは紫帆の母で、軽自動車の後部座席に紫帆と並んで座った。

「……体調、とか、へいきなんです、か……?」

 祥衛はたずねてみた。
 そもそも沖縄に引っ越したのは、紫帆の母親の負担を減らすためだ。

「うん、なんとかね。ずいぶん落ちついてるよ」

 母親は気丈に答えてくれる。
 夕陽を浴びながらハンドルをまわす笑顔は、ウソではなさそうだ。

「おばさんのことより、祥衛くんと杏ちゃんは大丈夫なの。本当はね、あんたたちも引きとりたいくらいだよ」
「お母さん……」

 紫帆はまじまじと母親を見ていた。
 祥衛は無表情のままだ。
 うれしくてありがたい申し出だけれど、本当にどうしようもなくなるまでは、助けを求めたくない。

(紫帆の家だって、よゆうがない、のに……)

 それを口にしたらきっと「気にしないでいい」と言ってくれる大人なのはわかっているけれど。
 祥衛は自分の力で生きていたかった。
 どうしようもなくなったときに迎え入れてくれそうな存在や場所があるということだけで、じゅうぶんすぎるほどに心強い。

「だいじょうぶ、いまの、親の彼氏は、おこづかいをくれる人だから」 

 用意しているウソを口にする。

「杏は……ちがう病院に移ることになって、そこで治療をつづけていくことになって、」

 FAMILYの大人たちに手伝ってもらいながらも、転院の手続きはすべて祥衛がやったので、ひょっとしたら母親は妹の行く病院を知らないかもしれない。
 この場で、こんな事実はとても言えないけれど。

「……とにかく……だいじょうぶ、です」

 祥衛は紫帆を見た。
 相変わらず、心配そうな表情をしている。
 しかし、紫帆は微笑ってもくれた。

「なんか……ちょっとかっこよくなったね」
「美容院にいったから」

 自分の髪に触れると、紫帆は首を横に振った。

「ちがうよ。外見じゃないよ……まぁ外見も、かっこいいけど……なんか、安心した。強くなったのかな、祥衛」
「安心……してほしい」

 紫帆は「うん」と頷く。
 しかし、すぐに右手の親指と人差指をくっつける仕草もする。

「ちょっとだけね。ホントに少し!」
「…………」

 それだけ評価が上がっただけでもうれしい。
 だけどやっぱり、さらに頼りになる男になりたい。

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 沖縄市にある紫帆の家に着いた。
 近くにはコザという沖縄市でもっとも栄えているエリアがあって、芸能人の別荘も多いらしい。

「明日案内してあげるよ。夜はちょっと子どもには危ないところもあるから」

 紫帆の母親はそう言って料理を振る舞ってくれて、紫帆の弟妹たちはひさしぶりに会う祥衛にはしゃいでくれたし、初めて会った紫帆の祖父母も優しかった。
 夕食後、庭に置かれたベンチに座って煙草を吸っていると、紫帆も来る。
 さすがに夜はすこし冷えるからボア付きのベストはちょうどよかった。
 紫帆もコートを羽織ってきていて、祥衛はライターを差しだしてあげようと思ったけれどポケットから出そうとしてもたつき、紫帆は父親のデュポンで火をつけてしまった。
 夜の空気に響くキン、という音も祥衛には懐かしい。
 本当に紫帆に会っているんだと、ふいにひどく実感が湧く。
 夢じゃない。
 また、隣同士に立って、おなじ風景を眺めている。
 ふたりともにベンチに置かれた灰皿に灰を落とした。

(もっと……たいせつにすればよかった。近所に住んでるとき。どうして、離れて、気づいたんだろう……)

 後悔しても、時間は巻き戻らない。

(あのとき逃げなかったら、杏も、ここにいっしょに、沖縄に来て、笑ってた……のか……)

 しばらくしぃんとして会話はなく、背後の家屋からひびく弟たちの笑い声を聞く。

「ありがと、祥衛」

 紫帆は煙を吐きつつ、しんみりと呟いた。

「沖縄に来てくれて。お金もかかるのに……遠いし……」
「遠くない」

 言いきって、祥衛は吸い殻をつぶす。

「思ってたより……来れた。だから……また、来たい。なんどでも」
「ほんとう? ……うれしいよ……」

 紫帆は片頬を押さえ、うつむき目を細める。

「…………紫帆が、嫌じゃ、ないなら──」

 そんな紫帆を見てから、改めて前を向いて告げた。
 家の前は、舗装されてはいるけれど細い道。
 カブに乗った若者たちが海の方角へと通りすぎていった。

「将来は、引っ越しても、いいと思う。沖縄に。杏がいいっていうなら、杏も連れて沖縄にすんでもいい」
「ヤスエ…………」

 紫帆は驚いたように目を見開き、煙草を地面に落としてしまう。

「あっ、あたし……」

 呆然とした様子のまま拾いあげて灰皿に潰す。

「いいの? そんな……祥衛、せっかく真堂と友達になったのに……またはなれちゃうよ……」
「……大貴はどこでも、遊びにきてくれる……」
「……そーだね。あははっ」

 紫帆は笑顔を見せてくれた。 

「今度は真堂とも首里に行きたいね。水族館も、アイツ、よろこびそう。まぁ、ほっといても勝手に観光して満喫して帰っていっちゃいそうだよね」

 たしかに、と思って黙っていると、腕に触れられ、手首を掴まれる。
 そのまま手をつないだ。 
 今年もいろいろあったし、現実は良いことばかりじゃないけれど、紫帆と仲良いままで年を越せそうだからよかった。

「もし、よかったら、来年も……なかよく、してほしい……」
「あたりまえだよ。もー……もっと自信持ってよ」

 苦笑する紫帆にも祥衛は見とれてしまう。
 怖いくらいの至福に包まれ、いま、祥衛は生きている実感を感じている。
 幸い、明日の天気も快晴だ。

G E N E S I S E N D