Prologue

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 男娼の仕事を終えて、帰宅すると深夜だ。はやく風呂を済ませて眠らないと、明日の学校もキツイ。大貴は手早く入浴して、汗も仕事の汚れも、タバコや酒や相手の香水の移り香も洗い流す。
 顔つきも、普段子供らしく過ごしているときと、夜の仕事をしているときとでは変わっている。
 そのことには大貴自身も気づいているので、シャワーの水流のなかで両頬を軽く叩いたり、二度洗顔をして落ち着かせる。鏡のなかの自分を見て(ふだんにもどったかなー)と納得してから、もういちど湯船に身体を浸してバスルームを出た。
「ふー、今日もつかれたなーっ」
 ドライヤーを使って、BURBERRYのボクサーパンツを履いた。常連客のひとりからもらった下着だ。その姿でタオルを肩から下げてぺたぺたと素足でダイニングに行くと、冷蔵庫を開ける。ペットボトルのコーラを掴んで、そのままラッパ飲みした。
「ちょっと」
 隣接する、薄明かりのリビングから声をかけられる。口を拭って見ると、ソファに腰掛けている薫子は不機嫌だ。大貴が帰ってきたときとおなじよう、いまもホラー映画を鑑賞している。
「下品な飲み方しないで頂戴。グラスを使って」
「あ、ごめん……」
 意識せずにしていた大貴は、素で謝る。それでも黒いワンピース姿の薫子は眉間に皺を寄せたまま、柄ストッキングの脚を組みかえた。
「すこし、感化されすぎじゃなくって。学校のおともだちに。あの子たちと貴方は違うのよ。立場も約束された将来も……」
「そんな言いかたないじゃん。なんだよ、いきなり」
「そもそも下着姿で歩きまわらないでって、前も注意したでしょう? そんな格好で私の前に現れないで──」
「薫子おねえちゃん、ずっとふきげん、さいきん」
 大貴はグラスを取りだすと、氷をいくつか入れてから、コーラを注いだ。薫子の視線を感じるので、丁寧な動作を心がける。ペットボトルを戻して冷蔵庫を閉める動作も。
「おかしーよ。俺につっかかってばっか」
「…………」
「なやみでもあるの……?」
 気遣って大貴は訊ねてみた。しかし、薫子は忌々しげに、顔さえも大貴から逸らしてしまう。
「うるさいわね。はやく自分のお部屋で寝なさいよ」
 ──なにを言っても叱られてしまう。
 不可解さに唇を尖らせ、グラスを手にその場を離れた。言われた通り自室に戻る。
 学習机のスタンドをつけ、置くグラス、泡と氷がカランと音をたてる。
「はー…………、なんなんだよー……」
 大貴は崩れおちて床に座りこんだ。上半身をベッドに倒れこませる。シーツからはリネンウォーターの薔薇の香りがして、薫子のにおいに似ているからすこしだけ癒やされた。
(俺がー……僕がなにしたってゆうんだよ。いっつも、イライラして……)
 最近の薫子は少し、変だ。
 当たられると悲しいし、腹が立つこともあるけれど、心配な気持ちにもなる。
 いったい、薫子はどうしてしまったんだろう。
(またいっしょにねたいな。さいきん、いっしょにねてくれないもん。さみしい……)
 中学生になったのだからひとりで寝ないといけないのだろうとは分かっているけれど、つらいものはつらい。
「パパに相談してみようかな。でも……」
 シーツに埋めていた顔をあげて、大貴は呟いた。
(よけいな相談したせいで、もう薫子おねえちゃんといっしょにすんじゃダメだってなったら、イヤだし……)
 ため息が零れる。困った。薫子がなにかに悩んでいるのなら助けてあげたいし、支えになりたいのだけれど。
(俺じゃまだ、力になれないのかな……)
 床に放られた通学カバンからロザリオを取りだした。幼いあの日に手渡してくれた、薫子の大切なロザリオ。
 実家にいたころは会えないさみしさで取りだしては眺めていたのに、いまはおなじ家に住んでいるのに。こうして取りだして、目の前で揺らしている。
(薫子おねえちゃんの力になりたい。おねえちゃんが、俺を助けてくれたみたいに)
 でも、薫子が一体何に悩んでいるのか、苦しんでいるのか、わからない。そんな自分にいらつく。
 男娼の仕事をしているとき客が何を思っているのか、以前よりも察せれるようになったし、疑似恋愛のようなかけひきも、小学生のころよりできるようになった。
 それなのに、肝心の薫子のことはよくわからない。
 一番好きな人なのに。一番好きな人だから?
 近すぎて、わからないのだろうか。
(スキだよ……おねえちゃん。僕はなにをゆわれたっていい。冷たい目でみられたって……おねえちゃんの気がおさまるなら……いい……)
 いつもするみたいに、ロザリオの十字架にキスをした。
 首にかけて、それからTシャツを着る。大貴はコーラを飲みつつ、客にメールを返したりして、就寝前の時間を過ごす。