Noir

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(あー、ねみぃ……だるい)
 国語の授業中、大貴は大きく欠伸をした。黒板の字を眺めていても眠いし、教科書の文字を追ってみても眠い。ノートに書き写そうとしても、うとうとしてしまって、はかどらなかった。無駄にシャープペンの芯を折る。
(かえろっかな……)
 黒板を書き写すのを諦めて、頬杖をつき半ば眠っていると、やっとチャイムが鳴る。起立、礼、の後に教師は出ていき、大貴はロッカーにカバンを取りに行った。指定の白い肩掛けカバンを。
「あれー、だぃき、かえるの?」
 教科書などをしまっていると、クラスメイトから声がかかる。
「んー、帰る。ぐあいわりーもん」
「まじでー、大丈夫かよ。なんで? カゼ?」
「そんなんじゃねーけど……」
 クラスメイトたちは当然だが、年相応に子供っぽい。
 口が裂けても本当のことなんて言えない、男に買われて犯されすぎて不調だなんて。
 ずっとホテルで絡みあって、帰宅したのは朝6時。
 酷く突かれたせいか胃のあたりまでヘンだ。こんな鈍痛は、小さな頃から慣れているからいまさらなにも思わないけれど。
 保健委員の女子が、保健室までついていこうかと言ってくれたが、断った。それでも最初は本当に保健室に寄ってから帰るつもりだったが、階段を降りていくうちに行く気は削がれる。仮病なんて面倒くさい。
 だれもいない下駄箱に降りた。教師に見つからないうちに逃げてしまおうと思って、上履きからコンバースに履き替えると早足で逃げる。いまはもう使われていない焼却炉の前を走って、裏門から出る校外。
 昼前の通学路、快晴の青空が眩しい。梅雨前のさわやかな季節だ。
(はー、痛ってぇ…………)
 すこしばかり走ったせいか、腹痛が増した。制服の開襟シャツの腹部を押さえながら歩く。そうしながらもまた零れる欠伸。今日ははじめから学校に来るんじゃなかったなー、と後悔した。
(しまったなー……あ、さわかみ……?)
 路地裏を歩いていると、見知った姿が向こうから来る。
 沢上紫帆。同じクラスの、ちょっとヤンキーっぽい女の子で、髪は脱色されて茶色い。ピアスの孔もある。
「! 真堂じゃん。おはよ」
「おはよーって、おまえ、もう昼じゃん」
 シュシュをはめた手を上げて、声をかけてくれた紫帆に大貴は苦笑する。
「あたしはさっき起きたよ。真堂はどうしたの?」
「ねみーから、帰って寝るッ」
「あははは……、あたしと逆だね。じゃあね」
 お互いに立ち止まったのはわずかな間で、紫帆は行ってしまう。最後に大貴の背中を手のひらで軽く触れてから。
 紫帆は他のクラスメイトよりも大人っぽい。だから素で話しやすい。その後姿に「おう、じゃーな」と返してから、大貴も再び前を向いた。
 名駅方面に歩いてゆくと、薫子の借りている高層マンションがある。良くも悪くも、きっと薫子は其処にはいない。だから勝手に学校から帰ってきてしまっても、大貴を咎める人はいないのだ。

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 家にはやはり誰もいなかった。家事だけはやってくれるから、綺麗に掃除されて洗い物も終えられ、洗濯物はベランダに干してある。
「うわ、もうルスデンきてるし」
 固定電話のランプは不在着信を表して光っていた。カバンを下げたままで再生ボタンを押せば、担任の篠宮の声。またかけ直しますとのことだ。
 かけ直さなくていいのに、と呟きながら自室に入った。昼食にするつもりで行きのコンビニで買ったパンとミルクティを喉に流しこむ。ダイニングで食べるとガランとしていてさみしいから……散らかった自分の部屋の学習机で120円のクリームパンを食べるなんて、実家にいた頃には考えられない生活。咀嚼しながらスマホを弄って客に返信したり、ゲームアプリを起動したりする。
 この生活の現状を知ったら、使用人たちは嘆きそうだ。ほら見ろ、峰野家の令嬢に預けるんじゃなかった、と。
 だからやっぱり真堂家には黙っておいたほうが良さそうだ。最近、薫子に距離を置かれていることは──
(なんでこんなことに、なっちゃったのかなー……)
 食べ残した包装をそのままに、大貴はベッドに倒れこんだ。胃の違和感は続いていて、いつもよりも量を食べれなかった。
(さけられてる? 俺…………)
 いつも機嫌の悪くなった薫子はマンションにもあまり帰ってこなくなってしまい、大貴が留守にしているときにサッと出入りして家事を済ませているようだ。
 わけがわからない。いったい、何が原因で。
 嫌われたのかと怖くなるが、家のことはしてくれるし、いまでも夕食は作り置いてくれることが多いし、学校のプリントにも目を通してくれている。
「わかんないよ。俺にダメなところがあるなら、なおすのにー……!」
 机に散らかした食べ残しに気づいて起きあがった。それらをゴミ箱に捨てる。床に散乱したマンガやゲーム、脱ぎ捨てた衣類にも目がとまった。作りかけのガンプラも片付けないといけない、本当は……。
(今日はもうねるけど、そうじする。ちゃんと……)
 胃が痛いのはひょっとしたら客に掘られすぎたせいだけではないのかも知れない。表情を拗ねたように曇らせて、大貴は制服を脱ぐ。
 下着だけでベッドに戻った。素肌にシーツの感触が好きだから、安らぐ。遮光カーテンで暗くした室内、目覚ましをセットしたのは18時──仕事の時間まで熟睡したい。

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 起床するとシャワーを浴びて、仕事の準備をする。尻孔の中も洗い清め、肌にベルガモットの香りを染みこませ、男娼の身体にしてゆく。
 服選びはすこし迷う。客からそれとなく好みを伝えられることもあれば、シャツや下着にいたるまでの細かい指定を受けることもあった。客それぞれだ。指定されなければ好きな服を気分で着て行くのだが、それでも相手の趣味を多少は考慮するし、格式の高いレストランだとかフォーマルな場所に誘われているときは品のいい装いで行く。今日はそれほど重要でない客と街中のホテルで会うだけなので、気に入っているTシャツに黒く細身のパンツを合わせる。手首にはスタッズをはめた。
(薫子おねえちゃんがいてくれたら、服、えらんでもらえるのになー……)
 全身を姿見でチェックしながらもさみしくなる。
 仕事の服を見立ててくれたのはまだ最近のこと。髪の毛をセットしてもらえることもあって、彼女の手で色々と触られて整えてもらえるのはうれしい時間だった。
 ひとりきりだから、ワックスを使って自分でセットする。夏休みには髪の毛を染めてみたい、その頃には薫子おねえちゃんと僕はどうなっているんだろう、と思っていると、スマホが震えた。この着信音は、薫子の運転手である長田からの連絡。音はすぐに切れる。
 マンションの下に着いたという意味だ。
「やべー、いそがなくっちゃ……」
 今夜はSMなど、マニアックなプレイの予定はない。だからキャリーバッグにたくさんの荷物を詰めていく必要はないのだけれど、カバンにはローションやジェル、換えの下着、歯ブラシなどを入れて行く。そういえば座席に常備しているフリスクも切れていたから、箱買いしているケースからいくつか掴んだ。客と別れて車に戻ったときの口直し用だ。
 戸締まりをして家を出た。我ながら、此処に引っ越して来たときはなにもひとりで出来なかったのに、ずいぶんと出来るようになったと思う。
 そのことに対して、ちょっとだけでいいので崇史に褒められたい。小学五年生の夏から会っていない父親に頭を撫でられたい。
(でも……パパは……)
 下降するエレベーターでうつむく。崇史に褒めてもらえるのは、ベッドでの所作がうまくなったときや、変態性欲の大人を悦ばせたときなど。性的なことでしか褒めてもらえない……
(……なにをいまさら。分かりきってる、ないものねだりじゃん)
 口を尖らせた表情を、冷たい微笑に変える大貴。
 性的なことではなく、普通の子供が褒めてもらえるようなことで褒めてくれる人は母親亡きあと薫子だった。
 でもいま彼女はいない。距離を置かれてしまっている。
(おねえちゃんが悩んでるのならなんで悩んでるのか、教えてほしいのに……)
 一階に着いて、エントランスに出た。いつもの場所に泊まっている黒塗りの車に向かう。

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 行きの車内では、目を閉じて集中することが多い。イメージトレーニング。普段の素の自分は心の奥底に沈める。そして少年男娼を演じる。
「なんだか……顔色悪くないかい」
 ふとした瞬間、ハンドルを握る長田に言われた。大貴はすっかり昼間とは違う顔つきになった表情で両眼を開き「は? 俺が?」と意外そうに振る舞う。
「ぜんぜん平気だよ。つーか、今日も延長させるから」
 繁華街の信号待ち、きらびやかなネオンに窓ガラス越しに包まれながら大貴は告げた。ひとりで夜眠るくらいなら中年男と寝たほうがマシだ、さみしいから。
「大貴くん、最近ずっと朝帰りだけど、それで大丈夫な──」
「うるせーな。お前は運転手なんだから俺を運ぶだけでいいんだよ」
 酷いことを言っている、と沈めたはずの心がチクリと痛んだ。いま表に出ている少年男娼は口の端を歪め、横柄に脚を組む。そして幼い頃から見慣れた夜空に目線を流した。
 長田はそれ以上何も言って来ず、客の男が待つシティホテル前で大貴を下ろす。カバンを持ち建物に入るとロビーは素通りし、そのままエレベーターで上昇した。指定された部屋に赴く。
 エレベーターの扉が開いた瞬間、今宵の客が立っていた。大貴を驚かせようとの行動らしい。たいして驚きはしなかったが「わー、びっくりしたぁー」などと言って喜ばせてやった。部屋に入るとすぐ唇を奪われる。ドアに背中を押しつけられながら。
(もう、かよ……。たまってんのかよ、コイツ)
 欲望のままに掻き回され溢れる唾液。巧くもない舌先。スーツ姿の男はディープキスを堪能しながらも大貴のTシャツに手を入れてくる。素肌を撫でられる。
 ドアの向こうで足音が響いてきた。数人の男女。旅行客らしく、楽しげに会話している。
「あッ……ふ……!」
 彼らの気配に気づくと責めの濃度が上がった。大貴の乳首に吸いつきながら、布越しに股間を掴む。
「ベルト外して、大貴くん」
 耳元で囁かれた。吐息が首筋にかかったときは、すこしだけど素で震えてしまう。
 言うなりに外すと黒のズボンは下ろされ、じかにペニスを掴まれる。
 旅行客たちが部屋の前を通る瞬間ゴシゴシと激しく扱かれた。そうしながら客は大貴を興味深そうに見てくる。大貴は吐息を漏らすのをこらえているような表情を作ってやった。そして脚を揺らしてみせる。拒むかのように。
「イヤなのか、外に聞かれちゃうのが」
「あたりまえじゃん……、やだよ……」
「大貴くんがエッチな男の子だってことばれちゃうからなあ。身体売っちゃうような淫乱だって……」
 手の中で膨らみを帯びてきたソレを、男はしゃがみ、嬉しそうに舐める。
「だめ……」
「ダメじゃないだろう、嬉しいくせに」
「こんなトコでしゃぶったら、ホントにばれちゃう……」
「大貴くんが我慢すればいいんだよ。感じた声出すのをね」
「ムリ……、あー……!」
 すべて演技だ。本格的に咥えこんでくる男の頭を押さえながら、意図的に呼吸も乱し、喘ぐ。そんな大貴を客の男は嬉しそうに仰いでいた。