Cardinal

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 シクシクと、大貴は泣きつづけている。
 食事も咽喉を通らない。ずっと学校を休み、部屋に閉じこもっている。
 崇史はいない。こんなときだから頼りたいのに、また出張に行ってしまった。
(パパ……、パパ……!)
 パジャマ姿の大貴は寝返りをうち、瞼をこする。
 大貴の頭のなかには、もう自分には崇史しかいなくなってしまったという考えも浮かんでいた。
 もう、とても薫子には触れられない。話せない。
(どうしてパパは、いないの? だきしめられたいよ。パパにキスしてもらいたい。いっしょにいたい……!)
 闇世界に精通する崇史ならば知っているだろう。
 FUCKER FAMILYのことを。
 尋ねてみれば、仮面の令嬢と薫子の関係もわかるかも知れない。
 けれど、電話で質問するのもはばかられる、崇史は忙しいのだ。
 今回の出張先は関西方面で、大規模な複合商業・リゾート施設を建設するための現地視察や、関連企業との会合を行うため。
 真堂不動産、真堂土地開発、真堂商業マネジメントなど、真堂グループが連携して計画を進める大きなプロジェクトだという。
 分刻みのスケジュールを送る崇史の時間を割かせるなんて……大貴は遠慮してしまう。
 それに……尋ねるのならば、直接会って聞いてみたい。
 ひとりで知る勇気なんてない。崇史にそばにいてもらって真実を知りたい。
「もう、やだよー……ママにあいたいよー……!」
 いつもなら、男の子のくせに泣いていたらいけないと自分で自分に言い聞かせるのに。あの夜からはそんな思いは消えてなくなった。
 大貴の心は出来事を受けとめるだけの余裕がなく、打ちひしがれ、混乱しつづけている。
 Jackが薫子であるということを裏付けるように、事件の直後から、薫子から何度も真堂家に電話が寄越されていた。けれど大貴は取り次いでもらっていない。薫子と話すのは怖すぎる。
 岩佐からの電話にはでた。イヤな思いをさせてしまったのかと気に病んでいて、そんなことはない、ただ具合が悪くなったのだと言い訳をする。岩佐は納得していないようだったが……
(ほんとうはおねえちゃんの声がききたい。お話したい……!!)
 また涙が溢れた。大貴の心はいまにも砕けそうだ。
 いったい、どうすればいいのだろう。薫子にどう向き合えばいいのだろう?

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 薫子はどうしてあの場所にいたのだろう。そもそも本当に薫子なのだろうか。信じられないくらいに似ていた別人? まさか……
 本人だとしても、大貴自身のことをどう説明すればいいのか。岩佐とはなにもなかったと弁解し、性玩具ではないと嘘をつき通せばいいのか。
(嘘、なんて、つきたくない。おねえちゃんに……)
 いままでずっと純粋のふりをすることでさえ、心苦しかった。ふつうの子どもを演じて、性虐待なんて知らないといった顔をして、どんなに乱れた夜のあとでも無邪気にしてみせることが騙しているようで辛かった。また、過激な妄想で自慰をしたあとに薫子に会うのも罪悪感と恥ずかしさで押しつぶされそうで──これ以上、嘘の上塗りをすることなんてできない。
「や……、やだ、いやだよ……、やだ……」
 それでも、素顔を晒す勇気もない。知られたらきっと嫌われる。
 大貴は嫌々と首を振り、ただ泣きつづける。
 状況も精神状態も混乱を極めていた。解決の糸口を見つけられない。
「……おぼっちゃま、お友だちの尚哉さんがお見舞いにいらしてくださいましたよ」
 ノックされたあと、入室してきたのは家政婦だ。
 布団のなかでそっぽを向いたまま、大貴は「会わない」と即答する。
「そうおっしゃられましても……おぼっちゃまのことを心配していらっしゃるご様子で……」
「うるさい、会いたくないんだ。あいつの顔なんて見たくない!」
 家政婦はため息を吐いた。そしてすぐに部屋を出てゆく。大貴はまたひとりきりになる。
(ナオヤはいいな……普通に暮らせて。僕みたいに、身体じゅうめちゃくちゃにされて、おちんちんしゃぶらされたり、痛いこともされないんだ。SMもしらないんだ! しらないんだ、なにも……!)
 瞼を閉じると嫉妬が溢れる。
 大貴にとって、クラスメイトたちは全員眩しい。特に親しくしている尚哉に対してもその羨望は同様。彼らは無垢で、汚れを知らない。
 夜ごと犯されて調教される自分とは違い、当然のごとく初体験も済ませていないだろうし、ファーストキスでさえもまだ奪われていないのだろう。
 好きな人としか、そういったことをしないままで死んでゆくのだろう。

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 どうして、どうして僕だけ?! こんな目に遭ってるんだろう?!
 普段は押し殺している感情が溢れだす。大貴は怒りにも似た嫉妬の表情を浮かべ、それはとても子供の顔ではなかった。憎悪に支配されてギリギリ歯を食いしばりながら、両肩を抱く。
「むかつく、僕ばっかり、ぼくばっかりヘンなことされて、ふつうにあそんでもらえなくて、こんな身体にされて、ゆるせないぃぃ…………」
 目にとまるもの全部壊してやりたくなる、殺してやろうかと思うほどの激情。
 残酷に呪ってから、次の瞬間には……泣き顔に崩れ、大貴はシーツにうずくまった。
「…………うわぁあああああぁああッ、ぁあああっ、うぅうう……!!」
 零れる涙は止まらない。拭っても拭ってもおさまらない。痙攣するように震えてしまって、寒気も感じる。
(ごめんなさい、こんなことかんがえてごめんなさい、うそだから、じょうだんだから、ぼくはわるいこなんだ、あたまがおかしい、おかしいー……ふふふふふふふふ)
 今度はクスクス、キャハハと笑いながら身を起こす。
「ぼくは……ぼくはなにもしたくなかった。しりたくなかった。いやらしいことなんかしたくない。したくない、ちょうきょうなんてだいきらい! されたくない、きもちわるーい……」
 大貴はベッドに腰を下ろし、腫れた目からの涙の筋を残したまま、腹を抱えてなぜか笑いつづけた。
 極限に触れた大貴の精神状態は、そんなふうに揺れ動いてはフラッシュバックを起こす。ふだんは大貴が壊れないようにと、辛い記憶を閉じこめておいてくれる深層心理が、ほころんでしまう。
 忘れていた残虐な記憶が幾つもこみあげる。
 発狂しそうなほどの勢いで嫌がる幼い大貴を、強姦する崇史。偶然に通りかかった大貴の前、首を吊った舞花が様々な液体を垂れ流していた。
 焼けた鉄の棒を当てられて、自分の肉が焦げる感覚を味わった夜もある。性徴を誘発させる薬の副作用で嘔吐がとまらなかったのも辛かった。いまより小さい頃は嫌がりながら犯されているとよく過呼吸になって、その度に死んでしまいそうに思えて、それなのに突きこまれる衝撃を止めてもらえないからもう身体はバラバラになりそうでーー
「! や……、だぁ、やだ、頭、いたい……!!!」
 急激に蘇った回想で苦しい。大貴は両手で頭を押さえる。

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 脳髄を突き抜けるような激痛みのあとに眩暈がした。
 そしてまた情景がよぎる。
 はじめて犯された相手はパパ。
 ジャアハジメテ犯シタノハ?
 人形のように無表情に横たわる母親の裸身が、大貴の意識に浮かぶ。
(な……に、いまの……?)
 わからない。身に覚えがない。舞花の自殺を見つけてしまったことはぼんやりと覚えている、崇史に犯されるよりさらに壮絶なショックを受けて言葉にできないほど悲しくて気が狂いそうでしばらく学校を休んで、ずっとずっと泣いていたから。
 普段は思いださないようにしているけれど、本当は覚えている。
(ぼくは……ドウテイ、じゃない……けど)
 イツ? ダレト? 最初ニシタ相手ハ?
(え……、え……っ……?)
 はじめて誰かを貫いたときの記憶だけは、おぼろげでつかめない。心臓は脈拍を速め、妙な冷や汗も流れる。思いだしてはいけない!と、大貴の本能は激しく囁いてきた。
 それを思い出したら終わりだ。
 耐えられずに崩壊すると、警鐘を鳴らされる。
(おもいだしたらだめ、だめなんだ、このきおくは)
 大貴は瞼をきつく閉じ、思い出しかけた情景を押しこめた。脳の奥のほうにしまいこむ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、…………」
 荒ぶって乱れる呼吸を整えようと、胸に手を当てた。首から下げているロザリオが熱く、熱を持っている気がする。それを握りしめてみたら、パニックはしだいに収束してきた。
「おねえちゃん。会いたいよ、すき、だよう……」
 鼻水をすすって、また涙を零す。薫子の優しさに触れたい。撫でられたい。お話したい。薫子にとてももう会うことができないと怯えながらも、大貴の心は薫子を想うことで落ちつきを取りもどし、鎮静してゆく。
(ナオヤ……、ごめん……)
 冷静になって後悔する。せっかく来てくれたのに追い返し、一瞬だとしても激しい嫉妬と憎悪を燃やしてしまった。どの友達や大人もそうであるように、尚哉もきっと尚哉なりに悩みを抱えているはずなのだ。大貴の苦痛ほどではないにしても。
(僕らしくない……僕ばっかり、不幸だなんて、思うなんて……どうかしてた……)
 大貴は表情を曇らせる。羨望がひどい。うらやましさにイライラする、自分が嫌だ。

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 パジャマを脱ぎ、ブラウスと半ズボンに着替えた大貴は母親の私室に赴いた。
 大貴の部屋と同じ二階にある陽当たりのいい角部屋。ドアノブをひねれば、落ちついたピンクの壁に女性的な曲線美の調度品が配置された空間に迎えられる。生きているころと変わらぬ手入れがなされ、いまでも住人がいるようだ。
 愛用品であったグランドピアノも遺されていて、黒く艶やかに磨きぬかれていた。大窓から望める英国様式の薔薇園にピアノはよく映えている。
 立ち尽くしてピアノを眺めていると──大貴の視界に、舞花の想い出がゆらいだ。
 舞花はいつも、鍵盤に可憐な運指をつまびかせている。ロングスカートにゆるく巻いた髪を揺らし、上品に微笑む。華奢な身体にはかなげな美しさがあった。
 そして薔薇の香りをただよわせている。使用人に「おやめください」と言われながらも、体調の良い日には自らで薔薇園の手入れをしていたほど薔薇を愛していた。花瓶には絶えず薔薇を挿し、花びらを見て微笑んでいた。
「ママ……僕、もうだめかもしれない……」
 大貴は嘆き、ピアノに近づくと椅子に座る。このピアノと対話することは、大貴にとっては母親と話すことと同じだった。
「……おねえちゃんに見られちゃった。お仕事してるところを……どうしておねえちゃんもあそこにいたのかな。わかんない……」
 訴えて、うつむく。弱々しい声色の大貴からはまた、涙の雫がにじみだした。
「おねえちゃんに嫌われたら、生きてる意味なんてない。もう、ママのところにいきたいきぶん。いままで、おねえちゃんがいるから、どんなことされても、がんばってこれたんだよ……! でも、でもっ……」
 崇史は薫子と婚約しても構わないと言う。けれど崇史に汚されたせいで、薫子に触れてもらいたくないほどにどっぷりと性玩具の身体になってしまったのではないか。残酷な矛盾だ。
「パパの……パパのせいだ、パパなんてきらいだ。ぼくをめちゃくちゃにして。こんらん、させて……ううっ、うぁああっ……──!」
 声をあげ、泣きながらママ、ママ、と繰り返し叫ぶ。当然、返事が返ってくることはけっしてない。部屋には大貴の泣き声がただ反響しつづけるだけ。大貴は薫子の名も呼んだ。
「おねえちゃん、おねえちゃぁん……!!」
 愛している。
 異常なほどに。
 こんなにも好きだなんて、おかしいのではないかと想うほど恋している。はじめて会った5才のときは、まず外見に惹かれた、なにもかもが大貴の好みの形をしていた。信じられないほど。きつい眦(まなじり)も、太陽を知らないような白い素肌も、闇を映したような長い髪も。シルエットでさえも好みだ。

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 感動と憧れを抱いて接しているうちに、大貴は彼女の内面も知る。冷たくすましているように見え、実はとても優しい。孤高でありながらも繊細な一面もあって、それでもだれに罵られてもおのれの美学を貫く、まるで一輪の薔薇にも似た凛とした気高さにも惹かれていった。
 薫子が家庭の不和に悩み、手首に傷を作っていた女学生時代には守りたいとも思った。幼い大貴なりに。

(……守るひつようなんて、もうないや……僕がそばにいなくたっていい……最近のおねえちゃんはしあわせそうだし……)

 薫子が幸せなら大貴はそれでいい。でも……

「僕のきもちはどうすればいいの……?!」

 そばにいたい、ほんとうはずっと!
 
 うわぁああああ、と激しく叫んでから、鍵盤蓋に突っ伏した。すこしばかり痩せてしまった身を震わせて、大貴は嗚咽を漏らす。
 泣いていると、薫子との想い出が溢れた。この真堂邸で遊んでもらった数々の記憶、薫子のピアノの発表会を観に行った春の日。チョコレートをもらって、嬉しくてしばらく食べられなくて部屋に飾っていたバレンタイン。夏休みには宿題を手伝ってくれたことも幾度となくあって、その度に心躍り、嬉しかった。
 薫子に関係する出来事は、大貴のなかですべてきらきらと輝かしい。
「うっ……、うう、うー………イヤだ、やだぁ……!!」
 自室で感じたように、また頭痛がする。気分も悪くなってきた。大貴は表情を曇らせ、眉間に皴を寄せ、朦朧としてゆく。脳震盪(のうしんとう)を起こしたように急激にゆれる意識は、奇妙な幻想に触れた。
 蜃気楼の向こうには、大貴の行ったことのない礼拝堂がある。丘から見下ろした西欧の港町もよぎり、かと思えば古き良き日本の情景も見えた。
 中世の古城に鳴り響く鐘の音は、敬虔な信徒が鳴らしている。どこまでもつづく草原。凍える果ての地に降りそそぐ粉雪の中で微笑う女性は顔を隠すように深いフードを被っている。
 様々な絵柄のタロットカードがはじけるように、一瞬にして壮大な走馬灯が廻った。
 この幻想を、目覚めた大貴は忘れてしまう。深層心理に蓄積する、無数の前世の残像を。
 どの命でも結ばれてきた。
 大貴と薫子の関係は、宿命であり、業だ。
 前世、大貴は大貴でなかった時代でも、ずっと脈々とその時代の薫子を想いつづけてきたのだった。
 生まれる前から愛している。
 突っ伏したまま、大貴はそのまま意識を溶かしてゆく。
 夢に堕ちてゆく。
 大貴に気づかれることもなく、幾千の過去は色褪せずに永遠に存在し、運命を実証するのだった。