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 泣きわめく大貴は意識を手放したり、取り戻したりを繰り返した。その度に舞花を犯した夜の回想が蘇ったりする。崇史がなぜ、そんな残酷な命令を下したのか大貴にはわからない。
 ただ、嬉しそうだった。崩壊した妻と、崩壊しそうな大貴を眺めて……
 錯乱のなかで、優しくて淡い記憶もよぎる。
 薫子の姿も思いだす。
 大貴の行ったはずのない礼拝堂と、西欧の街並みと、古都の情景、石畳の街、白銀の雪原も色とりどりに散らばった。大貴の鼓動が脈打つごとに、様々な想い出と感情がこぼれてゆく。
 膨大な衝撃を受けとめきれない。大貴は行為が終わっても正気を取りもどすことはなく、混濁していた──……











 
 ……気がついたときには、洋館にいる。

 ステンドグラスが美しい。広間に倒れていた大貴はゆっくりと身を起こす。鎖の音がしたのは、重厚な首輪をはめられているからだった。
「ぼく…………」

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 まだ、夢を見ているのかもしれない。泣き叫び疲れて、身体が重い。崇史に放たれた精液の残滓を尻穴の奥に感じる。行為の後いつもそうであるように、いまも挿入されているかのような違和感も続いていた。
(あたまがいたい、きもち、わるい……、ここはどこ?)
 母親との初体験に関してはふたたび、ぼやけた曖昧な記憶に戻っていた。先程のように鮮烈な映像を描けない。犯したという事実でさえも、いまの大貴からは薄れている。
 そういえば行為のあとに韮川が呼ばれて、大貴を鎮静させる薬を処方してくれたり、注射を打ってくれたような気がした。本当にそうだったのかどうか、意識を虚ろにさせていた大貴にはわからないけれど。
 このところ、もう……夢と現実の境界が薄い。 
 だだっ広い空間を見まわしてみると、既視感はあった。高い天井からは真堂邸よりも立派で豪奢なシャンデリアが揺れている。敷きつめられた絨毯はヴィクトリア調で、おばあちゃんがすきそうな柄、とぼんやり大貴は思った。
「まだ、夢を見てるのかなー……もう、つかれたなあ……」
 身に纏っているのはワイシャツ一枚。崇史のシャツだから大貴には大きすぎて、ワンピースのようにだらりと太腿までを覆っている。よろけながらも素足で立ちあがると、大貴は歩きはじめた。首輪から繋がった鎖が長く、邪魔だ。ひきずって広間を出ると、やはり見覚えのある長い廊下が続いている。
「あ……!」
 気づいて、大貴は目を見開く。
 此処はあの夜アンダーグラウンドな宴が行われていた洋館だ。この廊下を進んだ先にある階段で、漆黒の令嬢──jackに出逢った。

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 今宵もあの夜と同じで、月は綺麗だ。窓からの光が優しい。
「大貴くん」
 後ろから呼び止められた。
 その声は、ずっと聞きたかった──
 だれよりも好きな人の声。
「大貴くん、何処に行くのかしら?」
「…………お、おねえちゃん……」
 高いヒールの音を響かせて、近づいてくる。大貴は振りむくことが出来ない。怖かった。薫子と対峙することが。
「イヤ、だ、来ないで……」
 うつむき身を震わせながら言うと、足音が止まった。
「……私のことは、嫌いかしら」
「嫌いじゃないよ!」
 問いかけに、即座に声を荒げる。
「スキ、だよ……! だいすき、すき、だから…………」
 怖い、と大貴は小さく呟く。パーティーの夜とは違い、今宵は静寂に包まれている。また泣きだしてしまった大貴が鼻水を啜るそぶりと共に、その呟きは薫子に届いた。
「ぼ、ぼく、…………ぼくは、せいがんぐなんだ……!」
 言ってしまった。伝えてしまった。一言漏らせば、それがきっかけになって本当のことを零してゆける。
「……ずっと、ずっとおねえちゃんにかくしてた……言えるわけない、そんなこと、ぼくがこんなに汚くて頭おかしくてエッチな身体してて、いやらしいってばれたら、おねえちゃんにきらわれちゃう、汚い僕にさわったら、おねえちゃんも汚れちゃうよッ……!」
「安心なさい。私はもう穢れているわ」
 薫子の言葉も大貴に届く。声色は大貴の心臓を絡めとるように甘く、それでいて強く、染みていった。
「私は貴方と同じ闇に生きているの。鞭を与えることに悦びを覚え、鮮血を愛するわ。サディズムの気があるのよ」
「…………!!」
 大貴はやっと振りむいた。涙で滲む目を擦ると、薫子がたたずんでいる。やはり全身を漆黒に包んでいて、もう夏だというのに長袖のロングドレス。被っているトーク帽とチュール飾りが、喪服のように薫子を彩っていた。チュールから覗く口紅だけが闇色の装いのなかで唯一紅い。

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 薫子は『Jack』本人の口から明言はされていないが、それはもう確かなこと。
 アンダーグラウンドな組織の一員として、あの夜に淫靡なショウを魅せていた。
 女王と向かいあい、大貴はさらに本音を告げる。
「ぼ、僕も……ぼくもエスなんだ。パパにいろいろされてるくせに、痛いって、わかってるくせに、傷つけたくてっ……」
 こんなことを薫子に打ち明けてしまっているなんて、信じられない。大貴はワイシャツの胸元をぎゅっと両手で握りしめる。そうでもしないと、震えを抑えこめない。
 歩みよってきた薫子は、大貴に向かって手を伸ばした。魔女のような長い爪で顎に触れられる。涙を拭ってくれているのだとわかると、安堵のあまりに崩れ落ちそうになった。その場に……
「私は愚かね。貴方がこんなにも傷ついて、苦しんでいたことに、崇史さまからFAMILYにお話が来るまで気づかなかったなんて。辛かったでしょう……けれどもう大丈夫よ。安心なさい。貴方を孤独に悩ませないわ」
 優しく抱き留められる。崇史から話……? なんのことだろうと思ったが、いまの大貴は薫子への想いばかり溢れるから、小さな疑問はすぐにかき消されてしまう。
 薫子の纏う薔薇の香りに包まれながら、大貴はまた涙を流す。腫れすぎた瞼はもう痛いくらいだ。
「嫌いにならないの? 僕、おじさまたちといっぱいエッチして、調教されてて、おまけにサドのヘンタイ、で……ッ、でも、嫌いにならないの……?」
「貴方こそ、私を嫌いにならないのかしら?」
「はじめはショック、だったかも。でももう、そんなことない……」
 大貴は薫子にすがりつき抱きしめ返す。ヒールを履いた薫子は素足の大貴よりも、まだまだ背が高かった。
「僕の大好きなおねえちゃんには、かわりないもん。僕はおねえちゃんのぜんぶがスキ。だからおねえちゃんがなにものでも……いい……!」
 抱きしめる腕に力をこめる。

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 こんなにも幸せで満たされた気持ちになれたのは、ずいぶんと久しぶりな気がする大貴だった。心から癒されてゆくのを感じる。薫子の感触が嬉しい。
「私も、貴方とおなじ気持ちよ。ふふ、可愛い子ね……」
 頭を撫でてもらうと、さらに癒された。大貴は身体を寄せたまま問いかける。
「でも、どうして僕に隠してたの? ファミリーの女王さまってこと……」
「だって、子どもには刺激が強すぎるでしょう?」
「僕はふつうの子どもじゃないから、へいきだよ」
 抱きあう密度をゆるめ、薫子を見上げて大貴は伝えた。すると薫子はやや哀しげな表情になってしまう。なぜそんな顔をされたのかわからず、大貴は不思議に首を傾げる。
「おねえちゃん?」
「私と一緒にいきましょう。大貴くん」
 薫子の顔は真剣になる。
 月光のなかで、大貴は息をのんだ。
「……あ……!」
 掴まれたのは鎖だ。引っぱられるとバランスが崩れ、大貴は前につんのめってしまう。
「…………」
 ゾクリとする、薫子に首輪の鎖を握られたことに。
 背骨を駆け上がったのは、いままでに感じたことのない妙な興奮。大貴は子ども離れした倒錯の快楽に痺れる。すこしだけマゾの気持ちが解ったような気もした。
「これからは……お父様の玩具でなんていさせない。子どもらしい時間もたくさん与えてあげるわ。すてきな想い出を作っていきましょうね」
 やっぱり……これはまだ夢なのかも知れない。薫子の宣言を受けながら、大貴は恍惚を覚えた。

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 薫子と共に洋館を出ると、大貴の送り迎えをしてくれるおなじみの車だけでなく、薫子の車も停まっていた。
 そういえば此処には、桐島の車で連れられたような気がする。崇史との行為のあと、韮川に診てもらってから、執事の黒柳と来たような……
(僕、これからどうなるんだろう……)
 薫子と黒柳が話しこんでいるさまを、大貴は薫子の車のなかから眺めている。
 本当に、これから薫子と生きてゆくなんて出来るのだろうか。薫子はそう言ってくれたけれど。
(もう、おうちに帰らなくていいの? ずうっとおねえちゃんのそばにいられるの?)
 願ってもない天国だ。けれど当然ながら、不安もとめどない。生まれてからずっと暮らしてきた真堂家から離れるなど、考えたことがなかった。
 どこかほっとする大貴もいる。このまま、あの家にいたら僕は壊れる……大貴はそれを分かっていた。これ以上複雑な気持ちを抱きながら崇史に『溺愛』され続けていたら、本当に気が狂っておかしくなる。性に関してだけは著しく発達させられているが、ほかは年相応であどけない子どものままの大貴には耐えられるはずもない。
 食事に混ぜられる鎮静剤や安定剤の量が増えてきていることにも、韮川にされる注射が以前みたいに身体をいやらしくする作用の注射ではなく、そういった効果のモノになっていることにも大貴は気づいている。
 この頃、泣きじゃくって学校を休んでも、使用人たちは大貴になにも言わなかった。だれもが大貴が限界に近づいていることを感じとっている……
(僕、パパのことだいすきなのに。パパも僕のこと、だいすきってゆってくれるのに。なんでこんなことになっちゃうんだろう……?)
 ズレている。悲しくてつらい。このまま真堂家にいたらおかしくなってしまうという危機感も強い。そして薫子のそばに居たい。崇史と離れ離れになるつらさよりも、薫子といっしょに居たいという気持ちが勝つ。それは大貴にとって驚きのような気もしたし、当然のような気もした。

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 不安と向きあっていると、話を切りあげた薫子と黒柳がこちらに歩いてきた。運転席にいる峰野家の使用人・長田はボタン操作で扉を開ける。
「どうか、大貴さまを宜しくお願い致します」
 大貴の隣に乗りこむ薫子に、黒柳は深く腰を折る。それから大貴のほうにも顔を向けてきた。
「大貴さま。定期的に、お手紙をしたためます。お電話も致します」
「うん。ありがとう……」
 事態が動いてゆくことを実感しきれず、大貴はぼんやりと頷く。
 ドアは閉められ、車は発進する。それでも黒柳はずっと頭を下げていたし、桐島までも外に出て同じく頭を下げていた。
「待たせてしまったわね。ごめんなさいね」
 謝る薫子に、大貴は首を横に振った。
「ううん。ぜんぜん待ってないよっ。でもおなかすいちゃった」
 洋館から離れてゆくのどかな景色は、夜明けはじめている。大貴はあくびもひとつ零した。
「お食事をして、お風呂に入って……とりあえずはゆっくり、眠りなさい。ああ……いまの貴方は痛々しくて、見ていられないわ……」
 そう言って、薫子は大貴の頬を撫でてくれた。大貴は、薫子とアフタヌーンティーを味わったときよりも痩せてしまっているのだ。腫れた目は充血しているし、顔色も悪い。寵愛用玩具ゆえに使用人たちによって日々入念に手入れされ、栄養状態も当然のごとく気を遣われているのに。すべてがストレスからであることは明白だった。
「本当に……私は、どうして気づいてあげられなかったのかしら。もっと早くに」
「僕が気づいてほしくなかったんだもん。必死でかくしてたんだよ」
 大貴はそっと胸元のボタンを外した。ふたつみっつ外して、薫子に晒してみせる。薫子の目がまばたきを忘れ、凝視し、息を飲んだのが大貴に伝わった。
 そこにはいつも通りキスマークや調教の傷痕がある。乳首も色艶こそピンク色の初々しさを保っているが、ぷっくりと膨らんでいるのは日ごろから愛されている証だ。
「えへへ。下はないしょだよ。はずかしいから……!」
 大貴はすぐにボタンを閉じた。そして無邪気に笑いかける。薫子にあまり気を病んでほしくない。大貴の気持ちが通じたのか、薫子も微笑んで、頷いてくれる。
 好きな人に隠しごとをしなくてもいいということが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
 大貴が心からの笑顔を零せたのも、思えばずいぶんとひさしぶりのことだ。

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 今宵表向きになされた契約は『大貴をFUCKER FAMILYのJackに預ける』というもの。
 この洋館は人身売買のやりとりを行う際にも時折使われる場所なのだった。

 崇史の代理人である黒柳と、薫子は契約を交わす。
 大貴の身はあくまでも崇史の所有する性玩具だが、首輪の鎖は薫子に預けられるという内容の契約だ。
 性玩具という言いかたに眉をしかめる薫子だったが、黒柳を通じ、崇史の親らしい言葉も聞けた。
 できる限り、普通の生活をさせてやって欲しいと言うのだ。
 崇史には『普通』というものがどういったものなのかは分からない。だが、大貴がそれをひどく望んでいることは分かるらしい。有名私学ではなく公立の平凡な学校に入れてやるのも良いかも知れない、とは崇史の案だ。
「英国の寄宿舎ならまだしも、庶民の生活ですか、と私は反論したのですが」
 黒柳は薫子に苦笑した。薫子も皮肉めいた微笑を見せる。
「けれど……あの子はいままで、歪んで偏った、特殊な世界にどっぷりなのでしょう?」
「……」
「できる限り、あの子には貴方たちの見せなかったものを見せてあげたいわ。私にとっても大切で、愛らしい子……そう、まるで弟のような存在ですもの」
「薫子さま、おぼっちゃまは、貴女のことを──」
 そんな感情では見ていない。もっと激しい、恋焦がれて性愛の対象にするような視線で薫子を慕っている。黒柳は伝えようとしたが、遮られた。
「知っているわ。……まだあの子は小学生なのだから、先を急ぐ問題ではないはずよ」
 薫子は黒柳と洋館に背を向けて、黒髪をなびかせて歩きだす。大貴を待たせている車へと。
 毅然とした麗しい姿を追いかけながら、さすがは大貴さまの選ばれたご令嬢だと感慨深く思う黒柳だった。

 明けてゆく夜は、洋館のまわりに咲く夏薔薇を明らかにする。ひとつの呪縛が終わり、新しい日々のはじまる光景を薔薇は鮮やかに彩っている。

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「epilogue」


 長い夏季休暇が開けた。
 始業式が終わり、教室では大貴のまわりには少年たちが集まっている。なかには隣のクラスから駆けつけてきている子どももいた。
 彼らに囲まれた大貴は照れくさそうに、けれど嬉しそうに笑う。これからもときどき連絡が欲しいだとか、また遊ぼうと言葉をかけられ、じゃれつき半分にハグをしたり、賑やかな輪ができている。
 大貴は遠くの街に引っ越し、転校するのだ。
 尚哉も輪に加わりたかったけれど、話しかけることができない。教室でひとり席に座って、頬杖をついている。
「ナオヤとだいきってなかよしじゃん、どうしたの?」 
 そんなふうに声をかけてくれるクラスメイトもいた。尚哉は言葉を濁し、大貴をちらちらと盗み見たりして時間を過ごす。
 話しかけづらいのは、夏休み前のことが原因だった。
 体調を崩して休む大貴のお見舞いに行ったものの、寝込んでいると告げられ、会わせてはもらえなかった。
 そのときに、ふと思いついた。ずっと前から気になっていた、真堂家の書斎を調べる絶好の機会だと。
 尚哉は手洗いを借りるふりをし、書斎に向かう。そして扉を開くと──室内には執事がいる。長身で浅黒い肌の、黒髪、鋭い瞳をもつ彼だ。
 なにをしにきたのかと、尋ねられた。答えられずにいると頬を打たれてしまう。人に叩かれたことははじめての経験で、尚哉はその場に崩れ、あろうことかお漏らしをした。下着と制服の半ズボンだけでなく、書斎に敷かれている濃紅の絨毯まで汚して水たまりを広げる。
 衣服を洗われて乾くまで真堂邸にいた。
 この出来事は家族にも誰にも言えず、大貴とも夏季休暇中、いちども遊んでいない。
 尚哉にとって、すこしばかりトラウマになってしまった出来事。
 真堂家の書斎は確かに気になる。けれど確かめないほうがいいと、思い知らされた。 
「ナオヤ!」
 大貴とは二度と話せないまま終わるのかな……と、落ちこみながら上履きを履き替えていると、声をかけてくれたのは大貴だった。
 大貴はしばらく会っていない夏休みの間に、またすこし背が伸びたような気がする。
「電話するねっ。たまには東京にもどってくるから、そのときはあそぼ!」
「う、うん……」
 大貴はどこまで知っているのだろう。尚哉はそう思ったけれど、大貴はきっと知っていてもなにも言わない。優しさを感じて、その場で泣きだしてしまう尚哉だった。
「ちょ、ちょっと、ナオヤ」
「だいきごめん。ありがとう。転校しても、げんきにくらしてね。またあそびたい! だぃきぃ……」
「しょうがないなー、これつかいなよ」
 いきなり泣き出す尚哉に、戸惑いを見せた大貴だったが、すぐにハンカチを取りだしてくれた。大貴の大好きなブランド、ヴィヴィアンウエストウッドのオーブが刺繍されたもの。
 手渡されて涙を拭いながら、尚哉は歩きだす。大貴も隣を歩いてくれた。
 ハンカチを出すときに開け閉めしたカバンからは、筆記具の他に黒いロザリオも覗く。それは大貴が大事にしていて、いつも持ち歩いているものだと尚哉は知っている。
「みんなには秘密だけど、ナオヤだけにはゆおうかな」
 泣いている尚哉をなにごとかと見る視線もある道程で、大貴は笑った。
「え、なあに、だぃき……」
「僕、いま、薫子おねえちゃんといっしょに住んでるんだよ。えへへ! ……いいでしょ」
「!! ほ、ほんとにぃ? だいきのだいすきな人だよね?」
 大貴は表情をよりいっそう輝かせる。心底嬉しそうな様子で、その場で一回転くるりと回っても見せた。
「うん! そうだよ。ふたりで住みはじめたから転校するんだー。おねえちゃんのマンションでくらしてるんだよっ」
「えー、それってドウセイっていうのでしょ、ママがそうゆうドラマ見てた!」
「声おおきいよっ! みんなには絶対にひみつなんだから!」
 尚哉と大貴は笑いあっていた。夏休み前のように、無邪気な関係に戻る。きゃはは、と声を出してはしゃぐように話しているとすぐに辿りついてしまう校門。
 正門前に停車している車に大貴は乗った。尚哉の知らない男が運転している、見慣れない車。大貴をいつも送り迎えしていた桐島とは尚哉も面識があるから、真堂家の車ではないとすぐにわかった。
「じゃあね、ナオヤ。そのハンカチあげる」
「そんなあ。でも……」
 悪いよ、と言おうとした尚哉を遮るように、クラスメイトたちが駆けてきた。大貴の乗った車を囲むように広がって、いろいろと話しかけて、窓を開けた大貴は笑顔のままで応対している。
 この笑顔と離れ離れになってしまうなんてさみしいと、尚哉はしみじみと感じる。今日限りで転校なんてあまりにも急だ。
 けれど、大貴が峰野の令嬢をどれほど好きでいるか知っている尚哉は、祝福してやりたいと思う。他の友達には打ち明けていないことを打ち明けてくれたことも嬉しい。
 大貴に内緒で書斎に忍びこもうとした自分が、恥ずかしかった。
「だいき、ありがとう。ごめん。またね!!!」
 大声で叫んでハンカチを振る。発車して去ってゆく車に。
 また必ず会えるから、悲しくなんてない。
 次に会ったときには峰野のご令嬢の話しをたくさん聞かなくちゃ。涙を拭い、尚哉は見送る。

 H E A R T E N D