因果

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「楓くん、少し見ないうちに……色気が増したね」

 突然の言葉に、楓は戸惑う。行為を終えたあと素肌のままで布団に座り、ぼおっとしていただけなのに。

「? ……そんなこと、言われたことないぞ?」
「俺は、たまにしか会わないから分かるのさ」

 煙草を吸う男は暮林といい、楓が遊廓に来たばかりの頃から指名してくれている古株の客だ。彼が上海に転勤になってからは稀にしか会えなくなったけれど、帰国した際は必ず遊廓に寄ってくれる。

「もしかして、恋でも覚えたのかい」

 煙を吐きながら、暮林が呟く台詞。
 恋?
 その単語を聞いた瞬間、胸がズキリとした……

「えっ。俺が……まさか!」

 慌てて笑い、取り繕う。実は、今も考えていたのは美砂子のことだった。今日はうろつかずにちゃんと施設に帰っているかなだとか、もう寝たのかなだとか──

「そうだね。恋愛なんかしたら怒られるどころじゃ済まないからね。君たちはお客さん達のモノなのだから」

 暮林は吸い殻を、灰皿に潰した。ゆらりと影は動き、楓の座るシーツを覆う。そして楓の唇を親指でなぞってキスをくれる。

「ん……!」

 楓は口づけを受け止めながら、自身の違和感に戸惑い続ける。恋? もしかして、仕事中にも美砂子のことを考えてしまったり、こんな風に心臓の辺りが痛くなることが恋というのだろうか。

「可愛いな、しがみついてきて。そんなに舌に酔う性質だったかい?」

 絡めたあとで、暮林は離れる。楓の頬は紅潮し、吐息も乱れていた。

「……暮さんが上手いから。本当だ……」

 キスはこれほどまでにどきどきするものだったのだろうか。性的に気持ちよくなったりはしたけれど、ここまで脈拍が乱れることはなかったのに。

 一体、どうしたことだろう。
 なんだか近頃おかしい……

「ふふふ、そうか。……楓くん、チャイナドレスを着てくれないか。見たいな」
「うん……」

 暮林の買ってきてくれたお土産が、テーブルの上に置いてあった。楓は立ち上がると紺藍のそれに袖を通す。暮林は微笑ましそうに、楓の着替えを見守っていた。

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 今宵の時間は全て暮林に捧げた。複数の男を相手にしたわけではないし、気心の知れた仲なのでさほど疲れはない。彼を見送ったあとの客室で一人、楓はシャワーを浴びる。

 身体を洗いながらも──頭の中では先程の暮林の台詞がぐるぐる廻ってしまう。もしかして恋でも覚えたのかい、なんて……

(恋……? 俺が?)

 信じられない。そう言われてみれば、そうなのかも知れないとは思うけれど。

(誰かを……、ミサを、すきになるなんて……?)

 美砂子のことを考えるとまた胸がズキン、と苦しくなった。思わずタオルで口許を押さえる。

「ミサ……?」

 確かに、美砂子の笑顔には癒される。時折哀しげな表情を見せられると励ましてあげたくなる。どれほど電話してもメールしても会話は途切れなくて、ずっと話していられるし、実際に会えば元気を貰えた。服の趣味も可愛くて、姿形も可愛くて、声も話し方も好きだ。純粋かと思えばとんでもないことを言ったり、したりする所も──

(そんな。俺がまさか、すきになるなんて。誰かを……ミサを……?!)

 目を見開いて驚いていると、頬も熱くなってきた。一体どういうことなのだろう、分からない。

 分からないままに浴室を出る。身体を拭き、外していた眼帯を嵌めると、薄闇に明かりをつけた。手早く浴衣を着、ドライヤーで髪を乾かし、部屋を後にする。

 今日も終業後は、那智の座敷に行く約束をしていた。廊下を歩きながらも楓はため息を吐く。

 いつもだったら悩みや分からないことは那智に相談すればいいけれど、今回ばかりはそういう訳にいかない。恋愛はご法度だ。ばれてしまったら酷い罰を受けるし、美砂子とは引き離されるだろう。

(それに、まだ俺がミサをすきだなんて、決まったわけでもないし……でもどきどきするのは何なんだ……?)

 初めての感情に戸惑いながら奥座敷に着くと、誰もいなかった。伽羅の姿さえない。来慣れている楓は衝立の奥へと踏み込むと、勝手に布団に倒れる。

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 ……いつの間にか、眠りに攫われてゆく。意識が呼び戻されたのは話し声が聞こえてきたから……

「……那智様といえど、僕のやりかたに口を出さないでいただきたいです。僕は……」

 楓は目を開いた。その声は由寧のものだ。那智と彼の会話が、薄明かりとともに漏れてくる。

「だけどね、由寧。プロの娼妓ならばお客様を追い込んではいけないの。人道的な面からしてもね──」
「僕は一位を取りたいんだ。だからどんな手だって使いたい。それに那智様、まだ子供の僕たちを買って、売春させるあなた方に人道的だなんて。道徳の話なんかされたくないんですけど」

 いつもながら、由寧は棘々しい。そんな言い方は無いと楓は思う。確かに休み無く性交させられる毎日は辛くもあるけれど、恩もあるはず。
 例えば、自分の場合、幽閉を解いてもらったこと。遊廓に引き取られなければ今も蔵の中にいた。

(由寧だって家の借金を、助けてもらったお礼に此処に来たはずなのに……)

「……わたし達を恨むのは構わない。けれど、お客様には何も罪が無いでしょう」
「いいえ、遊廓に来る時点で罪人だ、変態だ。変態から金をむしり取って、何が悪いんですか?」

 那智は呆れたようにため息を吐いた。その後は沈黙。衝立の向こう側は見えないけれど、重苦しい空気は楓にも伝わる。
 
「そんな気持ちでお仕事をしていても、一位なんて取れはしないよ、由寧」
「もし、取ったらどうします? 那智様、僕の言うことを何でも聞いてくれますか。僕が一位になったら、楓を捨ててください。あんなヤツ……化け物だ、おかしな左目……アイツなんかより、僕のほうが那智様を楽しませてあげられます」

 直後、頬をはたいた音が響いた。

「化け物? 由寧は楓のことをそんな風に思っているの? おかしな目って……!」
「あり得ない色だ、気持ち悪い! 光を嫌ったり、変なものが見えるなんて言ったり、呪われてる! 一緒にいたら僕にまで呪いが移らないかって心配だね、アイツなんてずっと家で閉じこめられてれば良かった。そしたら那智様も誘惑されること無く──」

 由寧の台詞が途切れたのは、楓が行灯を倒してしまったから。起き上がろうとして腕が触れ、派手な物音が伴う。

(馬鹿! 俺の……)

 焦っても、もう遅い。衝立からは那智が覗いている。

「か、楓……居たの……?」
「あっ。ごめん……、話を続けてくれれば──」 
 
 どうして俺は謝っているんだろう、楓は我ながら思った。那智に叩かれた頬に手を当て、呆然としている由寧の姿を右目に映しながら。

「言われ慣れてるし、あり得ないって自分でも思うし、その……」

 由寧は踵を返し、走り出した。由寧、と那智は呼びとめたが、行ってしまう。

「隠れてたわけじゃないんだ。来たら誰もいなかったから、つい寝てしまって……」
「楓、ごめんね、ごめんよ……!」
「那智……」

 那智は布団に膝を落とし、楓を抱きしめてくる。
 由寧なんてまだ良い方で、もっと心無いことを吐く人間もこれまでに居た。だからあれくらいを聞いても、全然平気なのに──

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 もやもやとした気持ちのままで登校して、授業を受けた。あの後那智は気を落としてしまうし、偶然に朝、洗面所で会った由寧の顔はこわばっていた。

 楓は少しばかり罪悪感を抱く。那智の部屋に自分がいなければこんなことにはならなかったはず……

(ミサと話したいんだけどな。こういうときは……)

 今日に限って、ちっともメールの返信がない。美砂子と話せば癒されるのに。

 着信があったのは帰り道だった。学校の友人とは既に離れ、一人歩いていた楓は電話に出る。美砂子も学校が終わった所なのかな、などと思いながら──

『かえでくん、どうしよう。どうしよう……!』

 予想だにしない声だった。美砂子は泣いている。

「ミサ……? 何かあったのか」
『どうしようッ……!』

 一体、何が起こっているのだろう。楓には全く分からない。ただ心配になって、不安になった。耳元でぐずぐずと嗚咽は止まらない。

「どこにいるんだ?」
『……イヤ……来ないで……!』
「え……」
『きらわれる……、かえでくんにきらわれたくないもの……でも、でも……助けてほしいし、どうしたらいいのか分かんなくて……!』
「嫌うわけがない、俺はミサのこと──」

 そこまで言って、楓は詰まった。

 好きだと、漏らしてしまいそうになったから。

(……そんな……、やっぱり俺は……)

『ミサのこと、なに……?』

 驚いていると、美砂子に聞かれた。動揺を抑えられないまま、楓は携帯を握りしめる。

「……大切に想ってる。ミサは、俺のしていることを見ても、知っても……俺と仲良くなってくれた。俺も……ミサのどんな姿を見ても、どんなことを知っても。嫌いになんてなるはずがないんだ」

 心からの言葉だった。想っていることを伝えると、美砂子は余計に泣いてしまう。事情は分からないが、しゃくりあげる泣き声を聞いていると、楓の表情も悲痛に染まる。助けたいと思う。

『かえでくん、かえでくんっ……!』
「今、ミサの所に行く」
『でも……でも……』
「待ってろ。俺が助ける」

 美砂子の居場所を聞いたあとで、楓は従業員に電話をかけた。

 遊廓の車は街角、いつも同じところに迎えに来てくれる。それに乗って山間の敷地に帰るのが常だ。車には楓と同じく、街に通学する子供達で乗り合い、送迎バスと言っても良い。
 
 忘れ物をしたから取りに戻る、自分で帰るから先に行ってくれて構わない──楓は初めて遊廓に嘘を吐いた。