破戒

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 楓は大通りに出ると、タクシーを拾う。小遣いを節約し、貯めておいたのが役に立った。本当は新しい天体図鑑を買おうと思っていたもの。

 向かう先は、雰囲気の悪いホテル街。風俗店も軒を連ねており、客引きが佇んでいたり、ミニスカートにピンヒールの女性が道端に座り込んで居たりもする。

 何故、美砂子はこんな場所に──流れる風景の中、楓の脳裏には葉月に警告された事柄が頭をよぎった。
 

 やはり、美砂子は……。

 待ち合わせ場所は、その界隈の公園だ。楓は降りて敷地に入る。スプレーで落書きされたトイレ、散らかったゴミ。環境の悪さからか、遊ぶ子供の姿はない。

(……どこにいるんだ……! ミサ……)

 一見しただけでは見当たらず、歩き回って探しだしたのは遊具のトンネルの中。円筒のように狭い内部で、美砂子は縮こまっていた。膝に頭をうずめて。

「……ミサ!!」

 呼ぶと、身体はビクツクように震えた。楓はよじ登って筒の中を這いずる。傍らに密接すると顔を上げてくれたが、やはり今も泣き濡れている。

「ほんとうに……、きてくれたの……」
「当たり前じゃないか。俺は心配で──」

 美砂子の両肩を掴んだところで、楓は気付く。切り裂かれ、無残に破られたセーラー服。特に胸元は酷く、下着のキャミソールがあらわだ。

「ケガはないのか?」
 
 楓は自分の学ランを脱ぎ、美砂子に羽織らせた。美砂子は驚きの表情を浮かべる。

「かえでくん……」
「俺には、事情は分からないけど。もう大丈夫だ、俺がミサを守る。だから泣かなくていいんだ」
「う……っ……」

 励ますつもりで言ったのに、美砂子は余計に泣いてしまう。表情を歪め、大粒の滴を溢れさせた。

「……どう……して…?! どーして、そんなにやさしくしてくれるの……! ミサ分からないよ!!」
「ミサ……」

 楓は一瞬戸惑ったが、指を伸ばして涙を拭った。けれど拭っても拭っても止まらず、楓は切なくなる。美砂子が悲しむと自分も悲しい。

「あたしは、かえでくんが思うより悪い人で、だめな人なの、どうしようもないの! かえでくんに嫌われるくらい──」

 美砂子は楓を振りほどき、わぁああ、と声を上げた。激しく泣きじゃくる姿に、楓は語りかける。

「……だめな人間なんかじゃないぞ。ミサはすごく優しい。俺の眼のことを放っといてくれるし、男娼の仕事を目の当たりにしても何も言わなかった。見た目とか、立場とかで人を区別しない。それって、なかなか出来ないことだと思うけどな……」
「……」
「俺も、ミサの何を知っても、嫌いになんてならないんだ。俺に見せてくれる笑顔は本当にいい笑顔で……そういう顔の出来る人間が、悪い人のはずないだろ。なにより、ミサと話してるといやされる……」

 話していて、楓は微笑を浮かべてしまった。美砂子は真剣に聞いていて、泣き顔のままで頷く。
 
「ありがとう、かえでくん……。すごくうれしいよ、本当にありがと……! でも、あたしは……」

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「……すごくさみしがり屋なの。ひとりでなんていられない、いつも誰かといたいよ。だからどんな人でも良いの、エッチする。誰とでも遊ぶし、デブでぶさいくなおじさんとでもするよ。ずっと他人とつながっていたいと思う……」

 美砂子は悲しそうに打ち明ける。真実を聞いても、もちろん、楓に嫌悪など込み上げるはずもない。

「今日はね、学校を途中で抜けて、前にナンパしてきたひととデートしたんだよ。けど、いきなりホテルに連れていかれて、照明とかカメラとか用意されてて……すごく乱暴で、怖くて、逃げてきちゃった」
「俺がずっといられたらいいのにな。ミサのそばに」
「え……」
「そうしたらミサに、さみしい思いなんてさせずに済むのに。悔しいな……四季彩の男娼ってことが……」

 楓は唇を尖らせた。すると美砂子は、ぎゅっと学ランの胸を押さえてみせる。

「だめだよ……!」

 何故、そんなふうに切なそうに言ったのかが分からない。楓は不思議に感じて、美砂子を見た。

「……かえでくんとは『お友だち』でいなきゃいけないのに……ミサ、これ以上、かえでくんのことをすきになったら……」

 楓の心音は鼓動を打つ。どくんと波打つ──どきどきして止まらなくなり、頬も熱くなる。

「…ミサ……っ…」

 今更意識した、此処は遊具のトンネルの中だ。狭くて密着していて、美砂子の顔も近い。沈黙になるのは気まずくて何かを言わなくちゃと考えれば考えるほどに言葉が浮かばない。ただただ脈拍だけが速く巡る。

「そ、その、俺も──…」
「美砂ちゃん!!」

 意を決して口を開いたが、男の声に掻き消された。

 “知っている声”だ。

 美砂子は振り向き、楓もそちらを見た。光差す、トンネルの入り口を。

「此処に居たのか、ごめんよ、まさかアイツが美砂ちゃんを連れて来るなんて、俺もびっくりした。しかしアイツ滅茶苦茶するな、何も服まで裂かな……」
 
 楓の呼吸は驚愕のあまり、止まりそうになる。自分たちを覗いている男は──夏に楓を離れた客、佐々木だ。

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「だれにも言わないで。お願いだからひみつにして……!」

 美砂子は佐々木に気付くなり、血相を変えた。ぶるぶると震え、楓にしがみついてくる。楓も戸惑い、佐々木の姿と美砂子を交互に見た。

「どういう……ことなんだ……? 一体……」
「ど、どうして楓くんが!?」

 佐々木もまた、楓同様に驚いた様子だ。
 すると次の瞬間、美砂子は遊具から離れようと動く。

「今日のあたしのことは……忘れてください……! 相沢のおじさんにも、ぜったいに言ってほしくない!」

 美砂子に捕まれ、楓は引きずられるようにトンネルを出た。佐々木のことが気になりつつも、慌ただしくグラウンドを走り去る。

「ミサ、まさか、佐々木さんがナンパ……」
「ちがうよ、編集のおじさんはもう部屋にいたの」
「えっ?」
「ホテルのお部屋に入ったら、撮影の道具と一緒におじさんがいたの。ミサに声をかけてきた人は、編集さんとミサのエッチを撮ろうとしていたんだよ!」

 公園を出て、路地裏に入り込んだ。狭い道でやっと美砂子は速度を緩める。お互いに息は切れている。

「あの佐々木さんが、そんなことに関わってるのか……?」

 追ってくる気配はない。楓は涙を拭う美砂子の手を引いて、再び歩き始める。ホテル街からは早く離れたほうがいい気がした。

「……大人ってやっぱりわかんない。いくつもの顔を持っているんだね。編集者のお顔、四季彩でかえでくんを買う顔。そうしてホテルで撮影する顔。ナンパの人も最初はやさしかったのに……」

 楓について歩きながら、美砂子はうつむいて呟く。相変わらず、寂しげな声色だ。

「知らない人についていったらダメだ、いくらミサがさみしくても。危ないだろ」
「うん……」
「俺は、ミサが……その、誰かとすることよりも、そっちのほうが心配だな。服を破られるだけじゃすまされないかもしれないぞ。怪我させられたり」
「……」

 美砂子は頷いたものの、曖昧な様子だった。楓はため息を吐いてしまった。危なっかしすぎる。ずっとそばで守ってあげたくなる。

「……そういえば、かえでくん、さっき何を言いかけたの?」

 しばらく無言で歩いていると、思い出したように美砂子は問い掛けてきた。楓は言葉に詰まる。改めて言うのは気恥ずかしい。

「……規則に違反することなんだ。だからやっぱり、言えな……」
「ミサはかえでくんがすきだよ、ひとりごとだよ」
「!!……」

 明るい通りに出た瞬間に、美砂子はそう言う。温かな夕陽に照らされながら、楓は目を見開いた。

「ミサと身長も体重もおんなじだし、学年も一コ下だけどね、そんなの関係ないもん。すごく男らしくて、格好よくて、優しいの。今日は王子さまみたいだった。あたしを助けにきてくれた……!」
「あ、ありがとう。格好良くはないと思うけど……」
「ひとりごとだから、返事しちゃダメ!」

 嬉しいのと、照れ臭いのと、可笑しさが混じって笑ってしまう。

「じゃあ、俺も。ひとりごとを言うぞ」
「うん、ミサは何も聞いていないよ」
「自分の気持ちには、気付いたばかりだけど。ともだちじゃないんだ……ドキドキして、仕事のときもミサの顔が思い浮かんだりして……うん、好きだな……考えてるだけで嬉しくなる……!」

 恥ずかしさもありつつ、口に出すとすっきりする。美砂子も嬉しそうに楓を見つめてくれる。独り言じゃないな、と思うと楓はまた笑えてしまった。

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 並んで歩き、駅前の停留所に辿り着いた。
 
 美砂子には学ランを着させたままだ。裂かれた服をあらわに帰すわけにはいかない。

 本当なら今日の美砂子を独りで帰したくない、ずっと隣にいてやりたいと思う。けれども、そんな訳にいかない。自分は四季彩に飼われている男娼なのだから。

 はじめて、己の立場が歯がゆかった。そんな風に感じることにも戸惑う。もっと話していたい、そばにいたいだなんて……誰にも思ったことはない。

 美砂子によって変わりゆく自覚。
 これが恋愛というものなのか?

「ね、かえでくん!」

 バスを待つ列で話しかけてきた美砂子は、何やらカバンの中を探っている。ごそごそと取りだしたのは、愛らしいラッピングの施された小さな紙包み。

「そういえば、お誕生日だったよね。ちょっと過ぎちゃったけど……ミサ、次に会えたときに渡そうと思ってたんだよ」
「えっ。俺に……?」
「お誕生日おめでとうっ。開けてみてほしいな!」

 まさか、このタイミングで。楓は驚いてしまう。
 シールを剥がし、入っているものを摘み出すと、それは銀色に輝くストラップ──

「天秤座だよ。昆虫と迷ったんだよ、でも虫のストラップってあんまりなくて、お星さまにしたよ」
「……いいのか……、こんな、もらって……」
「イヤ……?」
「そんなわけないだろ、すごく嬉しい!ありがとう」
 
 楓はすぐさま着けてみる。きらめく星座は携帯電話になじんだ。

 本当に嬉しくてストラップを眺めていると、郊外に向かうバスが来てしまう。手を振る美砂子に振り返して、乗り込む楓だ。

 窓際の座席に座り、独りになると改めて今日の出来事がよみがえって、込み上げる。

(すきだって、伝えてしまったんだな……!)

 いまさら頬が熱くなった。胸に手を当ててみると締めつけられるような切なさも覚える。

 幸せだ。素直にそう感じた。美砂子のほうも、好きだと想ってくれていて……誕生日プレゼントまで渡してくれた。こんなに心が通じ合うなんて。

(大切にしたい、この気持ちも、ミサも……。俺は男娼だけど、許される範囲で……想っていたいな)

 嬉しい気持ちのままでバスを降りた。陽は落ちかけていて、急がなければならない。薄暗い山道を歩きながら今日の営業のことや、どの衣装を着ようかなど考える。