細雪路

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 楓の日々は日常に戻っていった。ずっと休んでいた中学にも通い始めている。

 休学の理由は『入院』だが、冗談でそれとわかる嘘をつくならともかく、真剣につき通すには労力がいる。やっぱり俺に嘘は向いてないと思いながら、自室への廊下を歩く学校帰りの楓だ。

 制服のポケットに手をつっこめば、携帯電話がある。
 番号も変えさせられたし、美砂子のアドレスも消されてしまったけれど──天秤座のストラップは繋がっていた。感触を指で確かめれば、微笑みが零れる。美砂子を想えばいつでも優しい気持ちになれた。

 あの夜は何度も抱きしめあった。そして約束した、大人になったら逢おうと。楓が遊郭を辞めたときには、四季彩から美砂子の連絡先を教えてもらえるそうだ。

 大人になってもこの気持ちを忘れずにいる自信はある。美砂子も『絶対忘れないよ、ずうっと大好きだよ』と言っていたけれど。楓は強制したくなかった。逢えない自分なんかに縛りつけたくない。美砂子のことが愛しいからこそ。

(ミサがしあわせなら、それでいいな。俺を忘れてしまっても……)

 別れ際には美砂子のほうから抱きしめてくれて、可愛くて、嬉しくてたまらなかった。あの日を思いだすと意識は一瞬でとろけてしまう。

「楓!」

 回想を遮るのは那智の声だ。いきなり肩を叩かれて、楓は驚く。

「あッ、な、那智……」
「どうしたの、ぼおっとして。またあの子のこと考えてたんだね」
「え……!」

 ニヤニヤと笑われながら頬をつつかれれば、赤らむのを感じた。図星を指されて恥ずかしい。

「ほら。そうだったんだね。可愛い、楓ったら恋愛覚えてから、余計に可愛くなっちゃった」
「う、うるさいぞ。俺はべつに、えっと……」
「童貞卒できたしねえ、嬉しかった?」
「! ど、どっ……そんなことここで言うな!」

 逃れようと歩調を速めても、那智はさらに笑って追いかけてくる。

「可愛いなぁもうっ! 男娼とは思えないよ、いつまでもうぶで真面目で、ふつうの男の子みたいなの」

 追いつかれ、後ろから抱きしめられた。羽交い締めに近く身動きを封じられてしまう。

「ちょっ、那智、や……」
「いっしょに夕飯食べる約束だったでしょう?」

 首筋に口づけられつつも、楓はハッとした。

「そういえば。そうだったな……!」
「忘れてたね、楓。早百合さんがもう支度してるよ」

 再調教を終えてからというもの、客も同僚も、越前谷家の面々もみんな優しい。
 楓は鞄を置きに行くため自室に急ぎ、那智も一緒についてきてくれた。

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 今宵最初の予約客が来るまでは時間があり、衣装の上にダウンジャケットを着て中庭に出る。不釣り合いな格好だが、何も羽織らずにいたら風邪をひいてしまう。

 白い息を吐きだし、眼帯を取って双眼鏡をあてる。

 凍てつく霜に耐えてでもこの季節の星空は見たい。
 シリウスとベテルギウスとプロキオンで出来た冬の大三角形、オリオン座の大星雲、プレアデス星団。牡牛座のアルデバランとぎょしゃ座のカペラ。北極星も神々しく輝いている。

 石段に座り眺めていると、膝の上に伽羅がやって来た。猫の身体の温かさを感じながら、楓は星図を確認する。左目の便利さを感じるのはこんな時だ、暗い中でも文字が読めるから。

「……どうしたんだ?」

 再びレンズを覗こうとしたとき、伽羅の様子が変わった。身を起こして耳もピンと立てている。異変を怪訝に思ったとき、楓も気づく。
 
 人の気配がする。
 
 振り向けば、遊廓の建物を背に近づいてきたのは由寧だ。着物の上に毛皮を羽織っていて、それはとても似合っていた。

「由寧じゃないか。おはよう」

 楓は普通に話しかける。そうすることしか、未だぎくしゃくした関係の由寧に対して、最善の策が思いつかない。

「……相変わらずだね、君は。何も変わらず……」

 由寧はというと、楓を憮然とした面持ちで見てきた。

「呑気に、あんなことがあった後なのに星なんか見て。猫と遊んで。楽しそうにして……苛々するッ」
「勝手だろ、天体観測は趣味なんだ。……どうして由寧の機嫌が悪くなるんだ?」

 本当に分からなくて問いかける。伽羅は欠伸をして、後ろ足で顎を掻いていた。

「……嫉妬なのかも知れない」
「しっ、と……?」
「どうせ君には理解できない感情だろうけど、さ。そういうところも含めて、僕を苛立たせる」

 由寧は心境を吐露する。

「……那智様の部屋でのことも……本心からの言葉じゃない……僕は、ほんとうは、君の左目にも嫉妬している位なんだ」

 楓は近頃気づいた。

 由寧は那智のことが好きだ。
 美砂子を好きになってみて、はじめて分かった。

 今日は由寧なりに謝ろうとしているのだろう。素直じゃないゆえにものすごく遠回しだけれど、楓には伝わった。

「俺は那智に対しては、恋愛の好きじゃない。那智も俺のことをかわいがってくれるけど……猫をかわいがるのとあまり変わらないぞ。だから、その、」

 由寧にもチャンスがあると思う、と話すと、笑われる。

「本当に人が良いね、君は。僕は君のお客さんも奪ったのに」
「……佐々木さんのことなら、俺が悪かった。顧客管理できてなかったんだ」

 由寧はそれ以上何も言わず、楓から顔を背けた。しかし歩き出そうとして──思いだしたようにもう一言漏らす。

「君が好きな子の“おじさん”だったね」
「?」
「相沢壮一……」

 なぜ由寧が彼の名前を口にするのか分からなかった。次の瞬間には驚愕の言葉を告げられる。

「亡くなったそうだ。僕のお客様に彼と親しい方がいて……聞いたよ」

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 楓は駆け出した。向かうのは越前谷家の母屋。
 居てもたってもいられず、双眼鏡も星図も放り出したまま敷地を走る。

「那智! 秀乃ッ!!」

 不作法だということも厭わず、勝手に上がり込んで探した。家政婦に何事かと尋ねられたとき──「楓」と名を呼ばれる。

 出くわした、学生服姿の秀乃は帰ってきたばかりという様子だ。
 
「聞きつけたか。早いな」
「秀乃、ミサの……お、おじさんは……!」

 お父さん、と言いそうになりあわてて直す。
 秀乃はいつも通りの冷静な表情で受け答えてくれた。

「血相を変えて来たっていうことは、知ったんだろう。亡くなった」
「どうして……」
「焼死だ。火事に巻き込まれてね。うちにもさっき、連絡が入ったよ」
「そ……んな!!」

 楓は、その場にぐしゃりと崩れた。身体に力が入らなくなって、膝から床に落ちる。視界は一瞬白くなり、そのあとに霞みだす。

「壮一さんが……。そんな、そんな……!!」

 美砂子の実の父親なのに。いじめる母親とは違い、優しくしてくれる唯一の親類なのに──

「ミサは、壮一さんのことが好きなんだ……! なの、に……ッ……!!」

 彼を失えば、美砂子は天涯孤独も同然だろう。

「……楓は本当に美砂ちゃんが好きなんだな」

 秀乃もしゃがみ込み、楓の歪んだ表情をまじまじと見てくる。

「お前が、取り乱してるところを初めて見たよ」
「っ……!」

 顎を掴まれ、さらによく観察された。楓は今になって左目にじわじわと染みる光を認識する。眼帯を外したままで明るい所に入ったのに、眩しさも忘れていた。

「大抵のことは受けいれて、動じない子なのに」
「秀……乃……」
「美砂ちゃんのことは考えるな。遊廓に戻れ。仕事のことだけ考えていればいい」

 秀乃は身を起こすと手を差し伸べ、楓の身体も立ち上がらせてくれる。

(そうだ……俺はもう……ミサの様子を知る権利もないんだ……本当は、想うことすら許されない……)
 
 恥辱の再調教の中で改めて暗唱させられた規則が、脳裏を駆け回る。一人の人間である前に性玩具。四季彩の商品。いやらしい性家畜だから、厳しく飼育管理されるのは当然。恋愛は毎日の交尾に身が入らなくなるから禁止。指名されているあいだ、指名してくれている相手のことだけ好きになればいい。

 理解っている。
 解っているけれど──

 胸のあたりがキリキリと締めつけられ、痛い。

 確かに、身体は男好きの淫乱に育った。
 でも心は。
 心を殺せない。
 心まで淫猥に染まることができない。
 
(俺は男娼なんだ……ミサを気にしていたら、駄目なんだ……)

 楓は唇を噛みしめ、ゆっくりと歩き出した。秀乃に見守られながら。
 
 足取り重く、越前谷家を後にした。先程まで見ていた星空の煌めきはもう、今の楓には映らない。

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 今宵入っている予約は二件。

 一件目は上の空のままで終わった。美砂子のことしか考えられず、からっぽの作り笑いといい加減な喘ぎ声で取り繕う。

 こんな風では良くないとは思うが、溢れる想いを止められず、美砂子が心配で仕方がない。

 二件目は馴染みの暮林で、客が彼であることを安心すると同時に怖くなる。暮林はきっと気づいてしまう。

 案の定、顔を見ただけで「何かあったのか?」と尋ねられる始末。その場ははぐらかせたけれど、ごまかしきれる自信がない。何しろ、今日の暮林は宿泊。あまりにも時間が長過ぎる。

 暮林は一人で風呂に行き、楓は寝室に残された。障子とガラスで二重になった窓の外には粉雪が舞いはじめており、楓はそっと近づいてみる。

 薄化粧されてゆく四季彩の風景。
 ため息を零せば、白く曇った。

 ……今も、美砂子のことしか考えられない。
 
 美砂子はどうしているんだろう?

 絶対に悲しいはずだ。
 泣いている。
 辛くてたまらなくて、涙を溢れさせている。

 ──分かる。

 その姿が、目に浮かぶようだ。

(ミサ。……ミサ! 今すぐに行きたい。ミサの所に。なぐさめてやりたい。会いたいっ……!!)

 無意識のうちにガラスを叩いていた。
 拳を握り、ガツン、と音を鳴らす。

 悔しい……美砂子の辛いときに側に居られない、話も聞いてやれない、何も出来ない。
 力になれない……
 好きと言う気持ちだけがただ此処にあって、激しく燃えているだけなんて、切な過ぎる。

「ごめんな……、ミサ。ごめん……!」

 無力さに首を横に振り、額も窓に押しつける。

 性玩具に堕とされた運命を恨んだ。呪われた左目のせいなのか、蔵に閉じこめた家族のせいなのか、四季彩のせいなのか。どの原因を憎めば良い?
 
 ……次の瞬間には、どれも恨みたくないと気づく。

 全て大切だ。
 どれかが欠けていたら今の楓は無い。
 美砂子にも出逢えていないのだ。

 震えだした己の肩を抱くと、畳の軋む音がした。振り向けば、浴衣に着替えた暮林がいる。

「暮……さん…」

 見られた。楓はにわかに慌てる。湯上がりの暮林にどんな嘘をつこうかと思考を廻す。

 だが。

「なんて顔をしてるんだ、楓くん」

 言い訳をする必要はなかった。暮林は歩み寄ると楓の頬を拭う。そうされて、楓は泣いていることを知る。

「え……ッ。俺……」

 暮林は優しい。そのまま強く抱きしめてくれる。
 石鹸の綺麗な匂いを感じながら、楓は何かが爆発するのを感じた。

「俺……は……、あぁ……!」

 みっともなく泣きついてしまう。

 あやされるように髪を撫でられると、情けなさは余計に増す。美砂子の涙を拭えないことが悲しくて泣いてしまうなんて世話無い。美砂子の彼氏にもなれないし、男娼としても不完全。
 どっちつかずの中途半端だ──