雨惑い

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 少しずつ、灰色の雲が重なりはじめた。

 窓際の席で、楓は空を眺めている。このぶんだとじきに雨が降るだろう。予報は天気の崩れを夜だと言っていたけれど、それよりも早く。

 ずっと蔵に幽閉されていた楓は、そういった変化を読み取ることに長けていた。分厚い壁の中で、格子窓の向こうに過ぎる空色を定点観測していたから。

 匂いもそうだ、雨の前には匂いがする。地面に湿度が染み渡っていくような、草木の滲んでいくような独特の匂い。それが今まさに楓を撫でていた。
 クラスメイトは雨の予感に気付いていないようだけれど……

 終鈴が鳴ると、少しばかり急いで教室を出る。親しくしている少年達は、帰りに何処かに寄ろうと誘いをかけてきたけれど、楓は断った。
 のりが悪いと責められ、豪雨が来るから早く帰る、と答えても、案の定信じられずに笑われてしまう。

 スニーカーにはきかえて、校舎を出、大通りに出たときにぽたりと雫が頬に落ちた。
 まずい、と楓は思って、歩調を速めてみたけれど──滴は大粒になるばかりだ。
 楓の予想よりも雨足は早かったらしい。見上げれば、黒く立ち込めている曇天。雨は楓の眼帯も湿らせた。

 周りでは、傘を持つ人が一つ一つと開いてゆく。瞬く間に車道を挟み、歩道は色とりどりに彩られる。もちろん予定よりも早い雨に傘のない人も多くて、雨宿り場所を探す姿も群れる。
 楓が前に向き直り、走りだすと、運良く見つかる庇( ヒ サ シ )。古い文房具屋の軒で、今は閉店してシャッターは閉じたきりだ。楓は其処に身を滑り込ませる。

 先客は居た。
 楓と同じ年頃の少女で、この辺りでは見ない制服を纏っている。プリーツスカートはかなりの短い丈なのに、気にせずに体育座りをしていた。

「あっ。ぬれてるよー!」

 少女は楓を見るなり、声を上げる。傍らに置いた学生鞄を開いて、差し出してくれたハンドタオル。

「これでふいて。はい」
「……ありがとう」

 薄いピンクのそれを受け取ると、楓は髪を拭いた。学生服の雫も払うと、すぐに小さなタオルはびしょびしょに染みてしまう。

「ごめん。洗濯して返すよ」
「えー、気にしないで。それあげる」
「いや、その……」

 あげると言われても、女の子らしい絵柄のタオルをとても普段に使えない。楓は少女の傍らに腰を下ろし、改めて断る。

「いいよ、ちゃんと洗って返す」
「元彼とおなじ学校なんだ、きみ」
「ん?」
「ふうーん……まぁいいや、もう、ふっきれたもん。きみはお名前、なんていうの?」

 少女は楓の襟元の校章を凝視したが、すぐに覗き込んでいた顔を離した。

「楓」
「かえでくん?」
「うん。日生楓っていうんだ。めずらしい名字って言われるけど……」
「とってもすてきなお名前だね。ミサの名前はね、美しい砂ってかいて美砂子。吉川美砂子だよ」
「──きれいな名前だ」

 楓が頷くと、美砂子は嬉しそうな表情を見せる。

「かえでくんは善い人。ミサ分かるの。きたない大人をたくさん見ているからね、すぐに分かるの」

 美砂子はどこか不思議な空気を纏う少女だ。澄んだ瞳でそんな風に言う美砂子に、楓は微笑を漏らした。

「俺は悪者かもしれないぞ?」
「わるものはじぶんのことわるものってゆわないよ。だから、かえでくんはやっぱり善い人だね」

 水音が世界を叩く中、二人は少しばかり話をする。
 雨が通り過ぎるまで、学校の話だとか、突然の雨についての文句だとか、とりとめのない話を。

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「お前もドジっていうか、ぬけてるよなぁ!」

 鮮やかな着物が無数に吊るされている様は極彩色、粧し込むための鏡と席が幾つも並び、開店前の支度に勤しむ娼妓が集まる控室。

 その一角、楓は同僚の娼年達に笑われてしまう。
 むすっとしながらも、事実なので否定できない。

「連絡先も学校も聞いてないんじゃ、返しようがないじゃんか、どうするんだよ?」
「かえ君、実質借りパクだよね〜、きゃははっ」
「うるさいぞ…! 誰だってうっかりする事くらい、あるだろう?」

 少女に渡されたハンドタオルは洗濯を済まされ、もう幾日も此処に置かれたままになっていた。化粧用具や書類、飲みさしのペットボトル、様々なものが雑多に散らばった長テーブルの上に。

(何だ…みんなして面白そうに……!)

 からかわれるのも嫌になって、楓はいじけた表情で席を立ち部屋を出た。背後からは「でもそういう楓が好きなんだって」とフォローも飛ぶけれど、楓の眉間には皴が寄ったまま。

 開店までは時間があったけれど、楓は見世に向かうことにする。

 その途中、廊下に張り出された先月の成績表に目が停まった。順位には大して興味のない楓だが、掲示されていればちらりと見る──



※ ※ ※

 少年部・五月期順位

 一位 320点 克己カツミ 
 二位 275点 眞尋マヒロ
 三位 265点 楓カエデ
 四位 261点 由寧ユネ
 五位 240点 紫雲シウン
 六位 222点 椿ツバキ
 七位 208点 藍杜アイズ
 八位……

※ ※ ※



「あーあ。君に負けたよ」

 声がして振り返ると、薄墨色の浴衣を羽織った線の細い少年がいる。楓と同い年の男娼だ。

「ここの所ずっと僕が三位で、君が四位だったのに」

 少年は楓を睨むような目で射貫く。
 彼……由寧のあからさまなライバル心に、楓はいつも戸惑ってしまう。

「4点しか違わないだろ。ほとんど、変わらないじゃないか……」
「だから悔しいのさ。ところで君も、相沢様の宴に招かれているらしいね?」
「由寧も?」
「ああ。楽しみだ、楓とおなじ仕事に出れるなんて」
「……」

 この少年、由寧に嫌われているのか好かれているのかも、楓は計れずにいた。由寧は黒漆の櫛を取り出すと、さらさらの髪に入れ、梳きながら微笑む。

「女の子にハンカチを貸して貰ったらしいけど。連絡先なんか交換しなくて僕は良かったと僕は思ってるよ。万が一、恋愛感情でも抱いたら苦しむのは君だよ」

 忠告めいた一言を残し、由寧は歩き去る──抱くはずがない。
 恋愛というものがどういうものか、楓はよくわからないし、考えたこともない。規則で禁止されている故に考えないようにしているのもあるけれど、楓自身の性格でそういったものに疎かった。

(宴は、そういえば明後日だったっけ……)

 霖雨( リ ン ウ )の続く窓の向こう、雲間に覗く朧月。今宵はまだいびつな丸を描いているけれど、月齢が満ちた夜、くだんの宴は開かれる。

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 宴会の夜は、開店と同時に佐々木に指名されていた。
 主催者である相沢が四季彩に来るまで、楓は彼と個室にて過ごすことになる。

 佐々木が所望したのは、部屋備え付けの浴室に二人で入ること。宴の前に身を清め、汗を流したいと言った。

「感度が良いな、楓くんは」

 浴槽の中で乳頭をこね回され、性器も手で包まれたり弄られたりし、性感を誘われた。

「毎日毎日、色んな人にいじってもらってるクセに、ちゃんと勃起するからね」
「ん……くッ、つまんじゃ嫌だ……」
「どうして。嬉しいんだろう、カチカチじゃないか」
 
 性器を握られると、楓は身体を震わせてしまう。
 この肉茎は自慰をすることも挿入することも禁じられているため、こうして客の手で触って貰える時が唯一、直接刺激を与えてもらえる時。故に、過敏に反応してしまう。

「あひッ、くぅう……!」 

 擦かれると、腿が引きつるほどに快楽を覚える。
 だが、ペニスへの愛撫で射精すれば罰だ。
 楓は後孔に打ち込んで貰うことでしか、絶頂に達することを許されていない、四季彩に。

「ひっ、ふぅ、うッ、駄目ぇ……でるッ…」
「しごいてお漏らししたら、百叩きだったかな?」
「ふ…ぅ、嫌……」

 表情を歪め快楽に耐えていると、やっと手を離して貰える。楓は安堵の吐息をこぼした。
 
 浴室での楓の作業は、これからが本番だ。

 二人して湯から上がると、楓はまず、普通に洗うか、淫らに洗うかを尋ねる。殆どの客が淫らな方を選択するが、今宵の佐々木もそうだった。

 楓は石鹸を手に取り、尖り起った両乳首の辺りや、興奮あらわな股間に泡を含ます。それらの部位を客に擦り付けることで、肌を洗い清めるのだ。勃起ペニスもスポンジ代わりとなる。

「あん、あっ、あっ、あんッ…!」

 恥知らずな性娼妓らしく、擦りに合わせての掛け声はアエギ声。リズミカルに、泡だらけの性器を男の背中等に腰を振り付けながら艶声を反響させる。

 こんな風にして客の洗浄が終わると、次は楓自身の洗浄だが──

「まずは、洗う前にスッキリしようか」
 
 佐々木は楓に排尿を求めた。
 四つん這いになり、佐々木に尻を撫でてもらいながら小便を零す。出た出た、たくさん出てるね、などと言われながら楓は恥ずかしく思いつつも、乳絞りのようにペニスを握られて興奮してしまう。

「変態だから、人前で平気なんだね。四季彩の男の子達はみんな、恥ずかしいとかの感情がないのかな」

 そんなことはない、すごく恥ずかしい。楓は頬を赤らめながらそう返したが、信じてもらえない。

 羞恥は続く。尿をシャワーで流すと、楓は壁に片手をついて肛門の洗浄をはじめた。
 これは、蔵の中で散々習ったこと。
 客に向かって尻を出し、泡立てた指を使って丹念に蕾をほぐし、中指を突き込んだり掻き混ぜたりしてのピストン運動。洗っているというよりは自慰。

「はぁ、あぁッ、奥まで洗ってる所、見て欲しい、あぁあ……」

 雫に濡れながら、タイルに頬を付け、楓は己を惨めにも思う。こんなことをしながら生きているなんて。

 望んで性的な商品になった訳ではない。
 だけど運命は織りなした、今の現実を。

 此処から、逃げることはできない。
 売られて、買われたのだから。
 琥珀の左目が示しているように古( イ ニ シ エ )からの業にも導かれ、四季彩に囚われたのだから──

 運命なのだ……。

「ひ……ぅう……!」

 恥辱の中で震え、常に空腹を感じ、行動までも幾らかの制限を受けて、夜毎大人の男に遊ばれるこの現実は、運命だから、逃げられない……。

「挿れたくなってきちゃったよ。楓くん。でも我慢しようかな、宴で犯したいからね……」

 風呂場では、抱きあいキスにとどめられた。
 出ると肌と髪を乾かし、お互いに浴衣を纏う。楓は黒地に紅の唐花模様が染め抜かれたもので、佐々木は四季彩で用意される縞の浴衣。

 支度が整った頃には、宴の時刻が迫っていた。
 連れ立って個室を出ると、渡り廊下を行き、離れの大広間に向かう。

 襖を開けて会場に入ると、上座には既に主催者・相沢壮一の姿があった。

「あ……ッ……!!」

 そして楓は、息を呑む。
 
 驚きで、心音も大きく脈動を打つ。

「え……っ、かえで……くん……?」

 壮一の隣に座っていたのは、壮一の“彼女”ハルエ嬢ではない。
 雨宿りで出逢った、少女・美砂子だ──…