空蝉

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 色々と大変なこともあったし、秀乃とは最後までも別行動だったけれど、夏祭りの夜は楓にとって、とても楽しいひと時となった。

 一度は泣いてしまった美砂子とも、色々とまた語り合うことが出来て、より仲良くなれた気がする。

 そして、祭りを過ぎるとすぐに、学校は夏休みに入る……

 長い休暇だが、四季彩に飼われる子供たちにとっては完全な休みとはいえない。当然のごとく夜は仕事があるし、学業以外は基本的に外出禁止だ。夏休みは事実上の軟禁といっても過言ではない。
 遊廓から出る理由を失い、誰も彼もが廓の中で時間を過ごしている。

 楓はというと、那智の奥座敷でくつろぐことが多かった。涼しいし、薄暗いし、快適極まりない空間。なぜ同僚達が怖がり、近づこうとしないのかが分からない。

 今日も其処にごろごろと転がり、惰眠を貪る。部屋の主・那智は親族との会議に出掛けてしまって今は薄闇に一人きり。敷き詰められた布団の上、上半身裸体の素肌を晒し、ハーフジャージだけを履いた姿で。

(あ……、伽羅……)

 寝返りをうつと、歩いてくる黒猫の姿が見えた。
 廊下に面した襖はわずかに開けてあり、其処から伽羅が入ってきたらしい。

 楓は枕に横顔をうずめたまま、黒猫の姿をじっと観察する……やっぱり、伽羅の瞳は琥珀色ではない。薄く緑がかったような褐色の目をしている。

(……何だったんだろう。お祭りの夜に見たのは。あの猫は絶対、伽羅だったはずなんだ……!)

 腕を伸ばせば、伽羅は楓の指先に近づいてぺろぺろと舐めてきた。楓は身体を起こし、なめらかな毛並みを持つ身体を抱き上げる。高い高いをするように──

「伽羅。ミサの居場所を教えてくれたのはお前じゃないのか? 鳴き声もおんなじだったんだ、耳の形も」

 尋ねても、伽羅はじっと楓を見下ろしているだけだ。楓も伽羅を見つめてみる。

(俺の目が、いたずらをしただけだったのか……? うーん、わからない……)

 しばらく無言のにらみ合いをしていると、いきなりに縁側の障子が全開された。布団敷き詰めた部屋に射し込む、夏の太陽光。蝉の声もじわじわと響いてくる──

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「ただいま、楓。エサの時間にしようか」
「姐さん。そんな云い方は可哀想だよ、楓にとっては食事だろ?」

 室内に踏み込んでくるのは那智と秀乃、従兄弟同士の二人だ。艶やかな女装の着物姿と、学生らしく爽やかなシャツの姿、相反する服装だが背格好は同じで顔形もよく似ている。

「おかえり、那智、秀乃。……意外とはやかったな、もっと遅くなると思ってた」
「別に長老達と話すことなんて何にもないしね。ほら、伽羅と分け合って食べて」

 畳の上に置かれたのは銀の皿。盛られているのは小さく四角状に刻まれたゼリーの山で、その隣には水の入った皿も並べられた。

 こういった容器で食事を出されたときは、手を使わずに家畜のように食べなければいけない。叩き込まれた条件反射で、何も言われずとも楓は這う姿勢になる。

「嬉しい、いただきます……!」

 舌を使いピチャピチャ音を立て、まずは喉を潤す。続いて口をつけるゼリー。かろうじて僅かにイチゴの風味がするけれど、ほとんど無味だった。

 那智は時折、わざと与える食事のランクを落として楽しんでいる。食事の量がいつも少なく、慢性的に腹を空かしている楓はどんなモノでも食べてしまうのだが、それが面白いらしい。

「姐さん、楓さ、もうちょっと太らせてもいいんじゃないか?」

 痩せた四肢を見て、秀乃は言った。だが、那智は首を横に振る。食事中の楓を撫でながら。

「駄目だよ。わざと発育不全にしてるの。栄養をあげたら大人になってしまうよ、わたしは嫌だね……! 楓はオッドアイの小猫で居なきゃ駄目」

 那智は歪んだ微笑を零し、楓の髪を引っ張って起こすと、眼帯を剥ぎ取った。突然の眩しさに楓は瞼を閉じようとしたが、那智は指で直接に琥珀の瞳に触れてくる。

「!! な……、ぁあっ、痛いっ!!!」
「ふふふふ。大袈裟だよ。宝石みたい、えぐり出して首飾りにしたいな」
「痛ッ、いぁああ……、那智っ……目が、俺、の目、い、たい、壊…れ……」

 触れるだけでは飽き足らずに那智は舐め上げたりもして、眼球は唾液に濡らされていった。

「あッ、あっ、ひ、あ、ぅ……!」
「ははは、姐さん、楓ビクビク痙攣してるよ。弄り廻し過ぎ」
「那、智、や、めッ……」

 涙のように涎を垂らしながら、楓は染みつく痛さに表情を凍りつかせる。那智に左目を遊ばれることは時折あるけれど、やめてほしい遊びの一つ。

「本当に不思議な瞳。わたしも魅了されてしまったのかな? 魔眼、だよね。本当に……」

 うっとりと囁く那智の声を聞いていると、皿はどけられてしまう。まだ楓には全然足りない、お腹は空いていて続きが食べたいのに、ゼリーの残りは伽羅の物とされてしまった。

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「まだ左目がすこし痛いぞ。病気になったら、どうしてくれるんだ!」

 今宵の衣装に着替えて、控室へと向かう楓は膨れっ面だ。傍らを歩く那智は楓をなだめるように背中をポンポンと叩く。

「お医者さんを呼ぶから大丈夫だよ、楓」
「そんな問題じゃない。いきなりにひどいことをするんだ、いつも那智は!」
「いきなりじゃなければ良いの?」
「そうだな、まだましだ。するならするって一言言ってくれれば、心の準備も出来るのに。突然目を触るなんてマナー違反だ!!」

 楓は真剣なのだが、那智は楽しげにくすくす微笑う。その様子に楓は余計むかついてしまう。

「何がおかしいんだ、俺は本気で言ってるんだぞ」
「楓は面白いな、やっぱり。……ごめんよ、可愛いからつい虐めたくなるの」

 渡り廊下の途中、立ち止まった那智は楓を抱きしめてきた。那智の髪は良いにおいがする、いつも。温もりと馨りに楓は流されてしまう……頬を触れ合わされて軽くキスをされれば、楓は瞼を閉じた。

「……反省してるのか、那智っ…」
「してるよ。おわびに仕事が終わったら、またわたしの部屋においで。今日は楓、宿泊のご予約は入っていないでしょ?」
「うん、そうだけど……」
「実は会議に出たらね、美味しそうな西瓜をもらったんだよ。楓にも食べさせてあげる」
「! スイカ……」

 ゆるく結んだ帯のあたりを、那智の手で撫でられた。腹の中には先程のゼリーしかない。想像してじゅるりと唾を飲みこむ楓だ。

「それで、今夜は一緒に眠ろう? 良いよね、楓」
「……那智、じつは俺も、那智に謝らないといけないことがあって……」
「ん? わたしに?」
「こないだのお祭りで、秀乃と別れてから……わたあめを食べてしまったんだ。ごめん!」

 那智に謝られたついでに、楓も告白して謝ってみた。手を合わせて頭を下げる。

「ふふ。正直だね、楓は。それくらいの違反、他の子なんてみんな平気でやってるさ。美味しかった?」
「うん、すごく甘くて、懐かしい味で……秀乃がはぐれるからミサが泣いてしまって、なぐさめるために一緒に食べたんだけど。というか……秀乃、好きな人がいるんだな……」
「ああ、相沢様の息子さんの事か」

 那智があっさりと許してくれたようなので、楓はほっとする。安堵したところで……那智の言った台詞に気付いた。

「今、何て……那智……!」
「相沢様の息子さん。今回は本気らしくて、秀乃ったら相当お熱を上げてるよ。端から見てると面白いけど。あれ、どうかしたの、楓」

(相沢壮一の、息子って……ミサの……お兄さんに当たるんじゃないのか……??!)

 美砂子は愛人の娘として通されている。美砂子は楓のことを信用してうち明けてくれたのだ、那智といえ、このことは話せない。

「いや、その……。びっくりして……」
「そうだね、わたしも驚いたよ、まさか秀乃の片思いの相手がお客様の息子だなんて」
「……」

 心臓がばくばくして、何も話せなくなりながら、楓は再び歩き出した。驚きすぎだよ楓、と那智にまた笑われてしまったけれど、真実を知る楓にはとてつもない衝撃だ……

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 楓のように順位の高い上級娼妓になれば『見世』に出る機会も減る。開店前にすでに一日分の予約が埋まっている日は、ジッと座って指名してくれる客を待つこともない。

 今宵の予定は三件入っていて、中には佐々木の名前もある。……控室の長机に頬杖をつき、まずいな、と楓は考えていた。

 佐々木は四季彩での遊興にのめり込んでいる。頻繁にこの場所を訪れ、莫大な金額を使っていく。佐々木の許容範囲を超えて支払っているのは明らかで、それが楓には気掛かりだった。

 ──このままでは、佐々木という客は破滅する。

 娼妓の中には客の懐事情など考えず、金を絞り取るだけ絞り取り破産させるような者もいる。
 だが、楓はそういった仕事はしたくない。楽しみにきたはずの客の人生を壊すようでは、陰間( カ ゲマ )失格だと思った。

 長い目で見れば売上げ的にも──毎日通われて半年で破産されるより、月に一度、半年に一度……稀に来るだけでもずっと通ってくれるほうが良い。それが、楓の考え方だ。

 とりあえず、佐々木の遊廓への熱を鎮静させなければいけない。今日は真面目な話をしなければ、と計画を練る。無理のない範囲で遊んでくれるように説得しなければ……

(どうしてそうまでして、通うんだろう。分からない……そういえば、最近は俺のことを好きだなんて言うこともあるな、あの人……)


 ……『好き』って何だ?


 先日のお祭りの時に見た、秀乃のときめく顔。元彼のことを話すときの、美砂子の切なそうな様子。
 学校でもクラスメイトたちが恋話で盛り上がっていることもあるし、禁止とされながらも四季彩の娼妓達も隠れて付き合っていることがある。性商品の恋愛は悲恋が主だけれど、客と結ばれて円満に身請けされていく例も見たことがあった。

 ……ふう、と楓はため息を吐く。考えても、分からないものは分からないのだから仕方がないな、と自分に言い聞かせる。

 壁の時計を見れば、一人目の客が訪れる予定時刻が迫っていた。そろそろロビーに向かった方が良い。

 席を立った楓の視界に、ふと映るのは黒椿の浴衣を着た由寧の姿。鏡を凝視めながらビーズチョーカーをつけている彼は整った顔をしていて、羨ましかった。どうして俺は葵の弟なのに美少年じゃないんだろう、不公平だな──そんな考えもよぎる楓だ。

「……なに? 楓クン」

 楓の視線に気付き、由寧は振りむいた。

「いや、べつに……なんでもない」
「ふうん。用がないなら見ないでくれる。ところで夏休みに入ってから、いつもにも増して那智様といちゃついてるよね。僕を苛々させて楽しい?」
「えっ。何言って──」
「さっきも渡り廊下で仲良くしてさ。那智様もその瞳でたぶらかしたんだろ、君のことが僕は嫌いだ」
 
 由寧はツンと見下したような目をして、楓のそばをわざとらしく追い越すと、部屋を出てゆく。

 何故、嫌いと言われたのか?
 楓には分からない。

(俺、由寧に悪いことしたのか……?? 那智といちゃつくと、駄目なのか? どうして由寧が怒るんだ??)

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 問題の佐々木は、今夜三人目の客だ。

 床に入って性行為を行ったあと、控室で考えをめぐらせた事柄をうち明ける──布団の中で身体を寄せ、楓はひとつひとつ言葉を選び、慎重に話す。

「無理をしてほしくないんだ、四季彩はふつうの店じゃなくて、値段も高いし……」

 今までも、客を説得したことは幾度となくある。給料のほとんどをつぎ込むような様子ならば、時間を作ってゆっくりと諭してきた。

 分かってくれて、それからは自分のペースで遊んでくれる客もいるけれど。楓の心配を分かってくれない、理解してくれない客ももちろんいる。

 どうやら佐々木は、後者のタイプだったようだ──

「そりゃあ、俺にもう来るなってことか」

 不満げな表情を作り、そう漏らす。楓は首を横に振った。

「ちがう。長く付き合っていきたいと思ってる。佐々木さんを……お客さんを大切にしたいから」
「小さく見られたもんだ。俺を貧乏扱い?」
「そんなこと言ってない。ただ、最近はお金を使いすぎだって思う」

 ふん、と佐々木は鼻で笑った。
 身体を起こし、乱雑な手つきで枕元の煙草を取る。

「迷惑だとか嫌いならハッキリ言ってくれ。俺は楓くんを気に入ったし、好きだな。好きだから成績も上げてやりたくて指名するんだよ」
「……その気持ちは嬉しいけど。俺は、順位や売上ってあんまり興味が無いんだ……お客さんにめいっぱい楽しんでもらえれば、それでいい……」
「純朴そうな子だと思ってたけど、楓くんもやっぱり男娼だ。言い逃れが上手いね」
「違っ──…」

 ライターで火を点けてやろうとしたが、腕を振り払われて拒まれた。佐々木は自分で灯し、煙を吐き捨てた。

「やっぱり手玉に取られてるのかな、俺は。宴の日に言われたんだよ、ユネ君に」
「? 由寧に? 一体なにを……」
「あの夜も上手いこと抜け出して、さぼってたみたいだしね。ずるいよ楓くん。純粋そうな顔して、実は腹黒い淫娼だなんて」
「さぼってなんか。相沢さんの……ミサにタオルを返しに行ってた。雨宿りの時に借りたから」

 もう、何を言っても無駄だった。佐々木は布団から出ると、慌ただしく帰途の準備をはじめる。脱いだ衣服を素早く纏い、鞄を手にし、吸殻を灰皿に潰す。

「佐々木さん、俺は佐々木さんの為に言ってるんだ、無茶なお金の使い方をしてほしくない。このままじゃ四季彩で破滅する。そう思って、本当に心配で言ってるのに……!」
「余計なお世話だ。もうきみは指名しない。ユネ君を指名するよ」
「……!!」

 佐々木は楓の方を見ることもなく、足早に部屋を出てゆく。楓は廊下を歩き去る佐々木を追おうかどうか迷ったけれど、行ってしまう小さくなる背中を見てしまうと締めつけられて、動けなくなった。

 たとえ仕事でも、捨てられるのは悲しい。

(そんな。俺は! 本当に心配で……遊廓で遊び過ぎて、借金してまで通って、最後はどうにもならなくなった人を何人も見てるんだ)

 楓は表情を曇らせ、襖を閉める。自分しかいなくなった客室。先程まで情交を行っていたシーツには佐々木の温もりがまだ残っているのに、切ない。

(俺は駄目だな。男娼として、いたらない……!)

 胸に手をあてて、その場に崩れ落ちた。

 どんなに手を尽くしても離れていく客は離れていく。無理をしてまで繋ぎ止めたいとは思わない。けれど、今回のパターンは心配だった。佐々木はこれからも四季彩に通うだろう、破産するまで通うかもしれない──…

(眞尋だったら、どう対処したんだろう。克己だったら? 椿だったら? 紫雲だったら……)

 他の人間だったらもっと上手くできるに違いない、楓はため息を零す。

(こまったな……。とりあえず、那智に相談しよう。それに由寧。一体、佐々木さんに何を言ったんだ……)

 うなだれながらも立ち上がった。楓は中庭に面する簾戸を開ける。夜の風はぬるく、楓の黒髪をゆるゆると撫でていく……