御燈

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「あれー? かえでくん、いつもより早くないっ?」
 帰宅すると不思議そうな顔を向けられる。
 美砂子はラフな部屋着のワンピース姿で、午後のリビング、ファッション雑誌を広げていた。
 うさぎのスリッパを履いた白くてすべすべした素足も、楓の目には愛らしく映る。そんな美砂子を目にしたとき、いつもならきっと微笑ってしまうはずの楓だけれど、那智に抱かれて帰ってきたいまは唇をゆるめられない。
「体調わるいの?」
「いや……そんなことは……」
 手洗いうがいをしてから美砂子のもとに赴いた。コンビニのビニール袋から取りだした牛乳プリンをひとつ、冷蔵庫に入れておく。これはセイのぶん。もうひとつはリビングに持っていく。
 留守番電話にメッセージが入っていた、帰りに買ってきてと。
「う……!」
 美砂子の横に座ろうとして、よろけてしまう。バランスを崩しながらローソファに倒れこむ。後孔に激しく抽送されて残った違和感のせいだ。
「だいじょうぶ?」
 シュシュをした手で撫でられつつ、楓は起きあがる。テーブルに美砂子のプリンとスプーンを置いた。
「どうしたの……かえでくん、ちょっとヘン……それに……かおりがする」
「香り?」
「なんのかおりかな。なつかしいにおい。ミサ、このにおい、知ってるよー……」
「…………」
 楓は眉根を寄せ、唇を噛む。美砂子は首をかしげつつも楓の言葉を待っている。
「……那智に会ったんだ」
 意を決して伝えた。
 一言だけで、美佐子は、色々な意味を察するだろう。
「そっか……なっちゃんのにおい……」
 至近距離で眇められる美砂子の瞳。遠くを見つめるように。
「それなのにかえでくん、おうちに帰してもらえたんだ……」
「あぁ」
 頷くと、勢いよく抱きしめられた。
「……よかったぁ……!」
 那智の腕とは違う、細くしなやかな女の子の腕に包まれる。
「そのままさらわれなくって、良かったよう」
「ミサ……」
 楓も抱きしめ返す。美砂子は小刻みに震えてもいた。
「ごめんな。ミサ。迷惑ばかりかけて。心配ばかりさせて……俺は……」
「ううん、そんなことないっ……」
 前から思っている──美砂子といる資格などないかもしれない、と、続けようとしたのに、遮られてしまう。涙声で。
「かえでくんはなにも悪くないんだもん、自分を責めないでってこないだも言ったのに」
「……」
 耳元に響く美砂子の言葉。あたたかな温もりとともに。
 この温もりを突き放したほうが美砂子やセイのためになるのだろうかとも楓は思う。
 以前からずっと考えていることだ。彼らを愛していて大切がゆえの苦悩。
「ミサ……俺じゃなくて……普通の世界を生きている男と生きていったほうが、いいんじゃないか……」
(貯金だってある。だから、俺がいなくても、ふたりは当分のあいだ生きていける)
「那智に、近いうちに帰って来いって言われたんだ。遊郭からはいつ出れるか、分からないぞ」
「お手紙かくよ」
 美砂子は平然と言ってのける、抱擁をゆるめて目元を拭きつつ。
「電話もするよ」
「……ミサ……」
 まじまじと美砂子を見つめてしまう楓だ。
 美砂子は真剣な瞳に楓を映している。

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「ミサはかえでくんの奥さんなんだよ。かえでくんがラムネ屋さんでも、何屋さんでも、男娼でも、かんけいなく大好きだけど、それっていけないことなの……?」
「いけなくはないと、思う、けど……」
 楓も胸の内の想いを明かす。 
「俺の気持ちだって、ミサとはじめて、おたがいの気持ちを伝えあったときから変わらないんだ。ミサと出会うまで、女の子と話をしてもつまらないなと感じてたけど、ミサは違った……あのころもいまもずっとそばにいて守りたいと思いつづけてるんだ──」
「ミサだってかえでくんを守りたいよ!」
 両手を握りしめて、また瞳を潤ませながら、強く伝えてくれる美砂子に、今度は楓が震えた。
(それほどまでの気持ちでいてくれているのか……)
 美砂子のためを思ってという理由で突き放すなんて、逃げだ。
 しばらくの静寂の後、楓は指を伸ばし、美砂子の涙を拭いた。
「……俺以外の男を選んだほうがいい、なんて、もう言わない」
「ほんとう……?」
「絶対にミサのところに帰ってくる」
 小指を立てて差しだす。それを見て、美砂子もおなじように右手をおずおずと出してくれた。
 交わす指切り。
「帰ってきたらちゃんと籍を入れよう。セイもミサも俺もおなじ名字だ」
「……!! ほ、ほんと、に……!?」
 大きな瞳をさらに大きく見開く美砂子だった。
「約束する。それで本当に今度こそずっといっしょにいるんだ」
「わぁあああっ……! ど、して、いま、そんなこと言うのぉっ……?!」
「ミサ……?」
 また泣きだしてしまう美砂子に対し、楓は、自分の伝えたことがプロポーズだったかもしれないと気づいた。
「わ、悪い……!」
 女の子にとって大切なことと分かっているから、しまったと焦る。
「こういうことは、その、もっとちゃんとあらたまって……レストランとか、綺麗なところで言ったほうがよかったか……?」
「場所なんてどこでもいいよぉ、かんけいないよ」
「じゃあ、どうして、泣……」
「ふいうち、すぎたから、予想してなかったもの。だからおどろいたのと、うれしかったの」
「ごめん」
「あやまらなくていいっ」
 楓は何度でも美砂子の涙を拭う。薄化粧は取れてしまった。
 泣き顔は、ティッシュで拭いてやっと落ち着く。
「ミサ、かえでくんが帰ってきたら、もうひとり赤ちゃんを産んでもいい?」
「! な……っ……」
 楓も不意打ちを食らった。どきっとさせられる。
「だめ?」
「い、いいけど……」
「今度はかえでくんがお名前をきめてね、清志郎はミサがきめちゃったから」
 美砂子はローソファに座り直して、テーブルのスプーンを撮り、牛乳プリンを食べはじめる。
 楓も前を向いた。
「今日はいっしょにセイを迎えにいけるね」
「……そうだな。行こう」
 ふたりで笑顔を浮かべ、楓は美砂子からプリンをひとくちだけもらった。

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 秋祭りの夜、 路地にずらりと屋台が並んだ。夜闇を彩るのは連なる提灯の色とりどりで鮮やかな明かりと、人々の楽しげな姿。
 セイも嬉しそうにしている。楓と美砂子と手をつないで。
 わたあめの店を見つけたから、みっつ買って、神社の石段に座り三人で食べる。
「「おいしーぃっ!」」
 嬌声を重ねる美砂子とセイ。その様子に楓は微笑った。
「はははっ。良かったな……」
 楓も齧れば口のなかに広がる甘い味。
 そういえば前にもこんなことがあった──
 記憶を辿っていると、先に美砂子に言われてしまった。
「なつかしいね、かえでくん、覚えてる?」
「あぁ。覚えてるぞ」
 中学二年のお祭りの夜、神社に座って話した。それから一緒にわたあめを食べた。
 あの日美砂子は浴衣を纏っていて、とても可愛かった。また美砂子の浴衣姿が見たくなる楓だ。
「えー? おれはぁ、おぼえてないよー?」
「だってセイの生まれる一年くらい前のできごとだもの」
「おれはそのころなにしてたのー」
「ええっ、なにしてたのかな……前世かなぁ?」
「おかーさんぜんせってなぁにー?」
「えっとね、それはぁ──……」
 美砂子とセイの会話をそばでこうして聞けるのも、残りわずか。
「なぁ、セイ」
 わたあめを食べ終わったころ、楓は切りだした。
「……そういえば……おとうさん、セイに話したいことがあるんだ」
「おはなしー? なにぃー?」
「俺は……仕事で、遠くに行かなくちゃいけない。だから、しばらく家には帰れなくなる」
「とおく? それ、どこ?」
「四季彩っていうところだ」
 楓は、生まれ育った古都の風景を、山間の竹林に潜む遊郭を脳裏に描く。
「ほいくえんよりとおいー?」
「遠いな……」
「おかあさんのおみせより、とおい?」
 頷く楓に、セイは表情を悲しげに歪める。
「おとーさん、そんなにとおくいっちゃうのっ? おれ、やだぁ、そんなのー!」

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 楓に出来ることはセイの黒髪を撫でることくらいだ。ひたすら「やだ、いやだぁ」と繰り返すセイを美砂子も撫で、なだめた。
「離ればなれになってもセイのおとうさんじゃなくなるわけじゃないんだよ……それにね、かえでくんはちゃんとお手紙も書いてくれるって言ってるよ」
「うぅう……」
 セイの大きな瞳から大粒の涙があふれだす。楓の心は切なく締めつけられる。
「ごめんな。どれくらいかかるかわからないけど、帰ってきたら、ずっと一緒にいる。また山に出かけよう、海にも行こう。セイの好きなバスに乗って」
 美砂子はバッグからハンカチを取りだし、セイの涙を拭いた。
 そして楓はさきほどから、夜空にひとつの星を見つけている。
「ポラリス……北極星だ」
 指をさして示すと、潤んだ大きな瞳も空を眺める。
「一年じゅうおなじ位置に見えるんだ。二等星だから、都会ではすこし見えづらいけど。あの星になっていつもセイを見守ってる──って言ったら、死んじゃったみたいだな……はははっ」
「やだよー、かえでくんっ。じょうだんでもそんなこと言っちゃだめ!」
 非難の声を上げる美砂子に、楓は苦笑する。すり寄るセイを抱きしめながら。
「それくらい。たとえ離れていても、いつも、セイのことも……ミサのことも大切に想ってる」
「ほし……」
 楓の腕のなかで、セイは自分でもごしごしと瞼を拭う。
「おれ、おとーさんいなくても、ぽらりす、みて、がんばる……」
「ぜったいにかえってくるんだよね?」「ね?」と、何度も念を押すので、楓も何度も頷いた。
 ミサともしたように、セイとも指切りを交わす。
 楓の手よりずっと小さな手の温もりに、自然と溢れる言葉があった。
「清志郎」
 名前を呼び、指先を解いた。
「生まれてきてくれてありがとう。俺は一度も後悔したことはないんだ。だけど掟は掟だ。俺は掟に背いてしまったから、それを精算しにいく。……おとうさんの言ってること分からないだろうけど……まぁ、そういうことだ」
「えー……? ……うん!」
 まだすこし泣きながらも、笑顔を浮かべるセイのとなりに、もうひとつ笑顔がある。
「かえでくんも生まれてきてくれてありがとう」
 美砂子は当然のように告げてくれた。
「……こちらこそ。ミサも生まれてきてくれてありがとう。俺と出逢ってくれてありがとう」
 楓も伝え、頬をゆるめた。