朧月夜

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 その晩、楓は夢を見た。ひさしぶりに四季彩を歩いている。少年男娼だったころとおなじよう、紫色に大輪の花が咲く襦袢を身に纏い、板張りの廊下を行く。素足に感じる冷たさも懐かしかった。
 連なる障子の向こうから聞こえてくる淫らな声。広間では宴会をしているのだろう、にぎやかさも伝わってきた。三味線の音もする。
 どこからか、お香のにおいも楓に届いた。
 敷地内に幾つもある中庭、そのひとつの前で楓は立ち止まる。
 手すりに手を置き、夜空を見上げた。郊外にある四季彩からは都会よりも多くの星がちりばめられており、きらめきに微笑う。
(遊郭はいい)
 しみじみと思う。
 此処に売られてきた子どもたちのなかには、この場所を憎んでいる者も多い。そのことに対し、当たり前だとも楓は思う。望まない売春をさせられ自由を奪われた日々に心を病む者や、叶わない恋をして命を絶つ者さえもいる。
(……俺が変わってるのかもしれないけど、やっぱり好きだな。この場所が……)
 改めて実感する、夜風に撫でられながら。
(男娼の仕事もいい。嫌いじゃないんだ。お客さんを俺の持っているすべてで癒してあげられる仕事なんて、ほかにはない)
 庭に面する縁側に人影を見つけた。
 黒髪の短髪、小柄な身体つき。楓とおなじ襦袢、柳腰にゆるく帯を結んでいた。じきに成人を迎えるというのに少年と言っても通りそうなその姿は楓と瓜二つだ。ガーゼの眼帯が左右逆なこと以外は。
「茜……」
 小学校に上がったばかりのころに亡くしてしまった双子の弟の名を呼ぶ。遊郭では、ときおり弟の姿を見たけれど、美砂子と飛びだしてからは出会っていない。
 再会に驚き、懐かしさに惹かれ、近づいていく。

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「となり、いいか?」
 尋ねると、茜は頷く。楓を見て微笑もする。
「ひさしぶりだね……楓……突然呼びだして、ごめん」
「呼んだ……? 茜が俺を?」
「うん、そうだよ」
 茜は手招きの動作を見せ、袖を揺らした。
「魂だけを呼んだんだよ」
「あいかわらず、すごいことが出来るんだな、茜は」
 感嘆しつつ、楓は自分の胸に触れてみる。感触も体温もちゃんとあるから、茜の言うように実体をともなっていない自覚は沸かない。
「楓を見つけたって、遊郭のひとが喋ってるのを聞いたし……楓が此処に帰ってくる前に、ちょっと話しておこうかなって思ったんだ」
「茜の耳にも入ったのか」
「盗み聞きは得意だから」
 茜は眼帯に触れ「盗み見も得意だけど」と、はにかむ。
「あのさ、僕……ずっと探してたひとを見つけたんだよ」
 その表情はさらに柔らかに綻んだ。
(探してたひと? まさか……)
 相手がだれか、楓にはすぐ見当がつく。
 琥珀色の瞳を持つ、蜜という名前の女郎。
 御菓子司・雛屋の跡取りと結ばれたが、日生の一族に疎まれて自害した。それから日生家には琥珀の瞳を持つ赤子が生まれつづけ、女郎の呪いと語り継がれた。
「灯台下暗し。ねぇ『母さん』は四季彩の遊女だった──だから、ずっと此処に……遊郭に居たんだ」
「ずっと?」
 いったい、どれほどの歳月なのか。楓は目を見開く。
「……だからね、楓も帰ってきたら、母さんに会って欲しいな」
「あぁ、もちろんだ。いったい、どんなひとなんだ?」
「可愛いひとだよ……呪いだとか、怨念とは、無縁に感じられる」
「楽しみにしていて」と、茜は目を細め、楓もおなじ顔で頷いた。

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 色々と語りあった。お互いの近況を明かし、ときにはふたりで笑い声を上げる。
 語りあう背後に遊郭の人間が通り過ぎていくこともあったが、楓たちには気づかない。
 気づかないから、楓は彼らをじっと見てみたりもする。知っている顔はなかった。
「楓と仲良くしてた男の子たちは、此処から巣立っていったよ」
 茜は楓の肩を叩いた。
「そうだろうな……みんな、もう、年期明けか」
 少年たちの姿を思いだす楓の心には、懐かしさがこみあげる。
「彼らそれぞれの顛末を話すとものすごく長くなっちゃうから……、また別の機会に話すよ。ただ──克己君だけは、まだ此処にいる」
「あぁ、克己は若いしな」
 楓は思いだす。少女のように化粧をし、髪を結い、艶やかな着物を纏った姿は幼くも美しかった。
 十六歳に育った克己はさらに美貌と色気に磨きをかけていることだろう。
「違うよ。そういう意味じゃない」
 茜は表情を陰らせ、眉間に皺を寄せる。
「じゃあ、どういう意味なんだ」
「閉じこめられてるんだ。遊郭の地下に」
「え?」
 楓は聞き間違えたのかと思った。しかし、茜はとても切なげな表情を浮かべたままだ。
「あの子は頑固だね。プライドが高いっていうかさ……」
「なにがあったんだ、茜」

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 教えられたのは、越前谷家の前当主の妻である早百合と、克己が、愛人関係にあったという話だ。それだけでも驚きなのに、克己の出生について聞かされ、楓は言葉を失ってしまう。
(俺は……、ミサと相沢さんの関係といい……いつも、ひとの秘密を知ってしまうな)
 隠された真実を見てしまう境遇も、琥珀の瞳が招いているような気がした。
「出生を話せば助かるものを」
「どうして言わないんだ、克己は……」
「男娼で在りたいんだ。長原克己で居たいんだよ」
 茜はうつむいた。 
「ときどき様子を見にいくけど……衰弱して……夢と現実の境も分からなくなってるみたい。放っておけば死んでしまうんじゃないかな」
「嘘だろう──……!!」
 瞠目する楓に、茜は言葉を返さない。それは肯定を表している。
「俺のいないうちに、そんなことになってたのか……」
 楓はぎゅっと拳を握った。脳裏によぎるのは、幼くも、いつも一生懸命に仕事をする克己の姿。
「克己は俺のかわいい後輩なんだ。絶対に死なせない。遊郭の人間に血筋を話せば助かるかもしれない」
「どうして克己くんの出生を知ってるのって、不思議がられるよ」
「左目が教えてくれたって言えばいい」
 楓はガーゼの眼帯を押さえる。
「……なるほど。便利な理由だね」
「茜こそ、どうして、克己の出生が分かったんだ」
「知りたい?」
 悪戯っぽく茜は微笑った。
「おじいさまと会ったんだよ……遊郭の先々代当主」
 会話を交わすなかで、さきほど、亡くなったと茜に聞かされた。高齢ゆえに仕方ないと理解しつつ、寂しさも感じた楓だ。印象深いのは、母屋の縁側で将棋をさした思い出。
「僕も驚いたけど、おじいさまも驚いてた、雛屋の次男に弟がいたのかって」
「はははっ……双子だって知らないひとは多いかもな」
「克己くんの真実を僕に話せて、安心したのかも。四十九日で気配がなくなったから」
「そうか。おじいちゃんに克己を託されたんだな……じゃあなおさら、克己を助けないと」
 改めて決意を深める楓の横顔を、茜はちらりと見る。
「自分のことより他人の心配だなんて、楓は変わらないね」
 茜には、ため息まじりの苦笑もされてしまった。

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 瞼を開くと寝室の天井があった。まだ夜は明けていない。
 帰ってきたことを理解し、寝返りを打つ。
 ベッドに家族三人で寝ている、セイをまんなかにして。
 身を起こし、薄闇で眺める、擦り寄って眠る美砂子とセイ。ふたりは寝息のリズムもおなじだ。
 楓は微笑む。寝相で剥がれた布団をかけなおしてやりながら。
(本当は帰りたくない……ずっと、こうして、ミサとセイと暮らしていたい……)
 遊郭は好きだ。男娼の仕事も嫌いではない。
 けれど家族とおだやかに暮らす毎日が一番大事だ。
 楓はベッドを離れる。キッチンの換気扇をつけて煙草を吸った。ゆっくりとバニラのフレーバーを味わえば、本当にすこしだけ、心の慰めになった。