星の雨

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 眠りをさまたげる、内線のベルの音。楓は薄目を開く。
「ん…………」
 寝室を満たす陽光が眩しい。寝そべったまま腕を伸ばしてアンティークな受話器を取った。
 芙蓉館のフロントに立つ従業員からの連絡。このあと午後一時から楓を指名したいと連絡があったそうだ。
 受話器を置いて、枕元の時計を見れば十一時半。楓はあくびをする。就寝して三時間も経っていない。朝まで宿泊客と戯れていた。
(良くないな……こんな状態が続くのは。覚悟はしていたけど……)
 罰を受けているときもろくに休息は与えられなかったが、接客はしなくてよかった。ただ自分がつらいだけで済んだが、男娼として復帰し、客を取ることになれば違う。きっと接客に支障が出てしまう。体調を崩して客に風邪でも感染してしまったらそれも申し訳ない。
(そうだ、自分を指名することはできないのか。ベッドも買えたんだ。時間も買えるかもしれない)
 数日に一度はまとまった睡眠時間がほしい。
(ゆっくり確実に仕事をしていけばいい。急いで此処を出ようとしてもうまくいかない気がする。身体を壊したら元も子もないし……)
 あれこれと思案を巡らせながらシャワーを終え、バスローブのまま水を飲もうとリビングに赴く。
 ソファに琥珀色の瞳をした少女が座っている。目があうと、慌てた様子だ。きょろきょろとあたりを見まわすも、最後は微笑いかけてくれた。
 そのまま消えてしまう。楓も唇をゆるめるころには跡形もない。
 恥ずかしがり屋だと茜から聞いていた通りだ。
(うーん……、茜みたいに『母さん』とは、なかなか……呼びにくいな)
 大人の女性だとばかり思っていたのにとても幼い。
 楓は濡れ髪を掻いてから、冷えたレモン水をグラスに注いだ。

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 その夜は指名がなかったから、窓際のデスクで手紙を書く。
 セイと美砂子に宛ててのものだけではない。ずっと心配させていた客たちにもしたためている。身体を使った奉仕以外でも気持ちを伝えたいからだ。
 何通かの封を閉じたとき、茜が現れた。
「母さんはね、ただ、自分の子どもが成長する姿を見たかっただけなんだ──」
 楓はカーディガンに下着だけのラフな姿なのに、茜は襦袢姿。窓にもたれる姿を、昔の自分みたいだと思いながら眺める。
「呪いだなんてとんでもない、自分とおなじ琥珀色の瞳をした子どもが成長した姿、ただそれを見たかっただけなのに、ずっとずっと殺されつづけてきたから。だから、この世に留まりつづけてきたんだ……」
 茜はうつむき、楓は万年筆を置いた。
「僕は──はじめて殺されなかった琥珀色の子ども。外には出してもらえなくても、生きていたら、もっと母さんを喜ばせてあげられた」
 ついには、顔を手で覆ってしまう茜だった。
「どうして自ら命を断ったんだろう。こんなにうつろな存在になってしまったんだろう……」
 楓も表情を曇らせる。
「茜……」
 物心つくかつかないかのころからずっと土蔵に閉じこめられて、心を病まないほうがおかしい。
 それだけでなく琥珀色の両眼は茜を苦しませた。人々の思念が流れてきたり、この世に在らざるものを見てしまったりする。
 楓は立ちあがり、弟の前に立った。
「茜は悪くない。俺だって……もっと早くに片目を交換すればよかったのに、そんなこと思いつきもしなかったんだ。茜が苦しんでるのに。ごめんな──」
 髪を撫でてやると、否定するように首を横に振られる。
「僕だってごめん……ずっと罪悪感を感じてた。その眼を持つつらさも、閉じこめられるつらさも、知ってるのに……知ってて、楓をおなじ目に遭わせるなんて……僕は性格悪いんだ」
「そんなことない、茜」
「ごめんなさい。楓。僕は楓の人生を狂わせちゃった、男娼なんてさせるつもりじゃなかったんだ、ここまで、酷い目にあわせるつもりじゃ、なかったんだよ、ちょっと僕の気持ちを分かってほしかっただけなんだ……!!」
 震える茜の両肩を抱く。おたがいの額が触れた。茜は体温のない、冷えた身体で嗚咽を漏らす。
「……ごめん、ごめんなさい、楓……」
 楓はただ穏やかに事実を告げる。
「遊郭に売られなかったら、きっとミサと出逢えなかった」

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 匂い立つ、雨の香り。急に降りだした午後。
 中学の帰り道。
 古い文房具屋さんの軒先。
 楓は、体育座りをしたセーラー服の女の子を見つけた。

『……きみはお名前、なんていうの?……』

 たやすく鮮やかに思いだせる、あの日のことは一生忘れない。

『日生楓っていうんだ。めずらしい名字って言われるけど……』
『とってもすてきなお名前だね。ミサの名前はね、美しい砂ってかいて美砂子。吉川美砂子だよ』
『──きれいな名前だ』

 楓の言葉に、美砂子は嬉しそうに笑った。

『かえでくんは善い人。ミサ分かるの。きたない大人をたくさん見ているからね、すぐに分かるの……』

 思い出を眺めて、楓も微笑う。

 唇をゆるめる楓のことを、茜は不思議そうに見やる。
「かえ、で……?」
 生まれつきに琥珀色の右目と、楓と交換した左目、うるんだその両眼をこすりながら。
「ミサと出会わなかったら清志郎も生まれなかった。それから、何度も言っているけど、俺は男娼の仕事が嫌いじゃない……むしろ、好きだ。俺のすべてでお客さんを癒やしてあげられるから、好きなんだ」
「もうっ……どこまで、いいひとなんだよ、だから苦労するんだ」
「苦労なんてしてないぞ」
 美砂子やセイには迷惑をかけて申し訳ない、そんな想いはある。足抜けして遊郭に関わる人々にも心配させてしまった。
「俺は恵まれてると思うんだ。まわりの人たちに支えてもらって、助けてもらって」
 死んでしまった弟とこうして話せていることも、本当ならばきっとありえない。
 琥珀色の瞳がくれた奇跡だ。
「俺たちが眼を分けたのは良いことだったんだ」
 やっと茜もすこしだけ笑ってくれた。
 泣き顔を見せてしまって恥ずかしかったのか、茜は離れていき、窓を向く。カーテンの隙間から覗く黒い夜。
 楓は気になったことを尋ねた。
「……そういえば『母さん』の姿がないけど、今日は何処に行ってるんだ」
 茜は、硝子を指先でなぞった。
「伽羅のところだよ」
「そうか。いつも仲良しだな」
 何度も伽羅の身体を借りて、楓の前に姿を表していたらしい。
 知って驚いたが、言われてみれば納得もできる。
(あのひとは、神社の夜も助けてくれたんだ。いつも、俺のことも見守ってくれてたんだな──)
 茜はぽつりと呟いた。
「……伽羅はもう、長くない」
「え……、そう、なのか……」
「結構な歳だからね。母さんは伽羅といっしょに昇るつもりなんだ」
 茜は苦笑してから楓に向き直る。
「僕……今夜は、楓のそばにいていいかな、手紙を書く邪魔はしないから」
「……あぁ。隣に座ればいい」
 ハーブティーのカップに口をつけると、すっかりぬるくなっていたが、楓は気にしない。ふたたび万年筆を走らせていると、茜は照れくさそうに伝えてくれる。
「楓の弟で良かった、ありがとう」

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 昼下がり、従業員に付き添われて部屋を出る。
 軟禁生活を送っているため、階段を降りる感覚が懐かしい。
 楓は指先で手すりを撫ですべり、一階に降り立った。大正時代に作られた歴史ある瀟洒な空間は、老舗ホテルのロビーかカフェテリアのようだ。くつろいでいる客はおらず、ただひとりソファに腰かけているのは那智。
 優雅にティーカップで紅茶を啜る姿はいつも通りにエスニックな装いなので、この場所にはあまり似合っていない。
「ちょっとひさしぶりだね、楓」
 現れた楓を視界に認めると、嬉しそうに微笑んだ。ブレイズの髪が揺れる。
「疲れてるのに呼びだしてごめんね」
「あぁ、ひさしぶりだな……疲れてはいないぞ、昨日はよく寝たからな」
 向かいの席に腰を下ろすと、那智は飲みもののメニューを見せてくれる。
「自分を指名して休息を取るなんて、そんな発想をする子はいままでいなかったの。秀乃も驚いてたよ」
「ははは、そうか。俺は……ゆず茶にしようかな」
 那智に「かわいいものを飲むね」と言われながら、注文した。
 それから、あれこれと近況を聞かれる。困ったことはないか、入り用なものはないかと気も遣ってくれる。
「いまのところは大丈夫だ。ベッドも、備品も揃ったからな。ちゃんと接客できる」
「それならよかった。わたしもそのうち、お部屋で楓を指名するね」
「那智はお金を払わなくたっていいんだぞ」
 耐熱グラスに注がれたゆず茶が運ばれてくきた。ひとくち味わってみると、あたたかくて、柑橘の香りが鼻に抜けて、美味しい。
「本題に入ろうかな」
 那智は楓に向き直った。
「克己のことなんだけれどね。やっぱり……楓の言ったとおり、わたしたちの一族だったよ」
「調べたのか?」
「うん。ちゃんと遺伝子を……」
「じゃあ、克己は助かるんだな」 
 ほっとする楓に、那智は複雑な顔をする。
「那智?」
 表情にひっかかりを覚える楓の、不穏な予感は的中した。
「とりあえずは牢を出られる。拷問も終わる。けれどね、克己はこれからも男娼として扱われるみたい」
「……そんな、もう克己に、身体を売る理由は無いんじゃないのか」
 楓は、克己は完全に自由を手にできるはずと思っていた。
「本人が男娼でいたいのだから、させてやれと長老たちは言うの」
 複雑な心境になる楓だ。
「それはそうかもしれないけど……」
「彼らは、克己が越前谷の血族だったなんて、信じたくないし、信じられないのさ。ささやかな腹いせで『本人の意志を汲んで』これからも男娼をさせるんだよ」
「…………」
 すっきりしない気持ちで、楓はグラスを口に運ぶ。あたたかな味わいは本当にすこしだけれど楓を癒やしてくれる。
「なんだか、おじいちゃんが死んでしまってから……」
 グラスを置いて、楓は憂いた。
「四季彩は良くない方向に向かってるんじゃないのか……?」
「わたしもそう思ってるよ──だから楓には早く此処から去ってほしい──」
 清々しく言い放たれると、とても切なくなる。
「俺は好きなんだけどな。遊郭も、男娼の仕事も」
「変わってるね、相変わらずに楓は。そんなことを思ってる子は少ないよ。地獄だと思っている子の方が多いはずだから」
 苦笑する那智は紅茶を飲み干した。
「……ゆっくり過ごしていきたいんだけど、伽羅を病院に連れて行かなくちゃいけないの」
「具合よくないのか」
 残された時間は長くない、そう茜に教えられているが、楓は明かさない。那智だって予感しているだろうから、わざわざ予言せずともよいことだと思った。
「うん……ご飯もほとんど食べてくれないし。わたしが子どものころに貰われてきた子だから、寿命は仕方ないのだけれど、弱っていく姿を見ているのは悲しいね」
「……そうだな……」
 伽羅の寿命とともに茜たちとの別れも迫っている。
「とりあえず克己は牢を出られるんだ……それだけは、良かったな」
 すこし、無理にほがらかさを意識して、唇をゆるめる。那智も切なげなままだったけれど、微笑ってくれた。

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 最後の客が帰っていった。急な指名が入らなければ、朝まで休息できる。楓はシャワーを浴び、下着姿に薄手のカーディガンを肌着として身につけた。髪を乾かして肌の手入れをし、ひとりベッドに入る。それからすぐに呼ばれた。
「楓」
 自分と同じ声色。茜の声だ。
「……どうした?」
 楓は身を起こした。眼帯を外しているから、明かりを消した闇のなかでもよく見える。
 遊郭にいたころの楓が、宴の夜に身に着けていた紫に鮮やかな刺繍が踊る着物。花をかたどった髪飾り。軽く化粧もしているようだ。
 どこか、いつもと違う空気を感じていると、茜の後ろに少女も現れる。長い髪を結い上げ、いくつもかんざしを差し、長く帯を垂らしたさまは紛れもなく花魁で、幼くも妖艶な色香が漂う。
 いままで見かけていた幼子が、楓はやっと、蜜という花魁なのだと、心から納得できた。
 蜜の腕には黒猫が抱かれている。
 それを見て、楓は、すべてを察した。
 茜は薄笑む。
「行くよ。僕たち……」
 楓は言葉を返せなかった。
「…………」
 今夜だったとあらかじめ伝えて欲しかったと思ってから、もし前もって教えてくれていても、それはそれで寂しさが募ったかもしれない。近々去るということはちゃんと聞かされてもいた。
「どうしたの?」
「いや……本当に行ってしまうんだなと思って……」
「左目を返すよ。これは楓の瞳だから」
 十年以上前のあのときとおなじように、抉ってしまう動作。楓にとって生まれたままの両目で見つめた最後の情景であり、記憶だった。
「あ……、ま、待ってくれ……!」
 ベッドを降りた楓は、あわてて茜に駆け寄る。
「──その目を克己にあげてくれないか……!」
 とっさに脳裏に浮かんだのは、両目を潰された克己の有様。
「いや……でも、そうしたら、茜は右目だけに……ごめん、なんでもないんだ」
「あはは……! 本当に楓らしいね、他人の心配ばかりだ」
 茜は心底楽しそうに顔を崩して笑う。
「成仏してしまうから、ひとつ目がなくても困らないよ。これからはずっと母さんと伽羅がそばにいてくれるしね」
 茜は瞼からそっと指を離す。
 蜜はというと小さな手で優しく、老いた猫を撫でている。
「僕は構わないよ、克己君に目をあげても。でも楓は……せっかく普通の瞳に戻れる最後の機会なんだよ……?」
「もう、この目が、俺の目だ」
 自らの左瞼を触る楓だった。
「茜にもらった琥珀色の目を、これからも大切にしていきたい。茜の目は俺と生きていくんだ」
「楓……」
 茜は驚いたような顔をしてから、ほっとしたように微笑い、それから泣きそうな表情になる。いつのまにこんなに感情豊かになったのか、兄として楓は感慨深い。
「分かった。この瞳は克己君に贈るね……やっぱり、楓っていい人すぎるから、心配だよ」
「俺は、べつに、いい人じゃないぞ」
「いい人だよ!」と言い返してから、茜はうつむく。心配そうに蜜が見上げた。
「……泣かないって決めてたけど……やっぱり、楓と話してたら、だめだ」
 茜は苦笑のあと、両手で顔を覆った。
「生まれかわっても……楓の弟がいい」
 絞りだすような声で告げられ、楓は頷く。
「そうだな……俺も。また、双子でもいいな」
「今度は……こんどは……ちゃんと生きて、いっしょに学校に通ったり、ごはんを食べたり、昼間の外で遊んだりしたいんだ」
「あぁ、そうしよう、また会おう。いつになるのかは分からないけれど。そのとき、俺も、茜も、おたがいを覚えてないのかもしれないけど……それでも……また会うんだ」
 楓は茜を抱きしめる。氷を抱いているかのように冷たくて、体温のなさがまた楓を切なくさせる、胸を締めつける。
「此処を出たら、茜と母さんの、墓参りに行くからな」
 泣きじゃくる茜からも腕をまわし返されれば、楓の涙腺もじわじわとゆるんでくる。ぎゅっと強く力をこめたあと、腕を離せば、茜はごしごしと涙を拭っていた。
 カーディガンの袖を引っぱられ、楓は蜜を見る。
「……?」
 琥珀色の両眼は引き込まれそうなほどに美しい。
『ありがとう、いきぬいてくれて、あかねをだいじにしてくれて』
 唇を動かさないまま、蜜は言葉を伝えてきた。
『かえでは、ほしがすきだから、おくりもの』

 彼らの姿が消えたあと、窓の外には数えきれないほどたくさんの輝きが降り注いだ。
 流星群だ。
 芙蓉館の窓から、楓は眺める。あまりにも綺麗な世界を食い入るように見つめてしまい、頬に零れていく涙に気づけなかった。
「ありがとう。俺だってそう思っているんだ。琥珀の瞳を分けてもらってよかった、この運命に感謝しているんだ……」
 語りかけると、まるで返事をしたかのように夜空がまたたく。
 楓は忘れないよう両目に焼きつける、圧倒的な情景を。
 
 幻想的な星の雨は長く続いた。