芙蓉館で過ごす日々も残り少ない。 もうすぐ、真希は実家に戻る。両親も高齢になってきたので、家業の畑を手伝うつもりでいる。 最後の日々だと思うと仕事のひとつひとつは妙に感慨深かった。シーツを洗濯したり、それを畳んだり、館内を掃除したり、ロビーでくつろぐ客にコーヒーや紅茶を出したり……。 天才的に不器用で、働きだしたころは何ひとつ満足に出来なかった真希も、今はちゃんとできる。 楓のおかげだ。 根気よくいろいろな家事を教えてくれた、メイドの指導なんて楓の仕事ではないのに。 客室の清掃を済ませたあと、窓から晴れた夏の空を見上げれば、入道雲は力強い。楓が去った桜の季節から時は流れた──…… (楓さんはいま、何処でこの空を眺めているんだろう……?) 船上にいることは、芙蓉館に連絡してくれたから知っている、けれど海はあまりにも広い。 突然男娼を辞めることになった楓と、ちゃんと別れの挨拶を出来ていないのは、とても心残りだ。お世話になった礼を面と向かって伝えたかった。 手を洗ってから、軽く化粧を直した真希はロビーに向かう。今日のロビーは午後から催しがあり、すでに多くの人々でにぎわっていて、顔ぶれは楓の客たちだ。さまざまな家具、雑貨、日用品、着物まで並べられ、光景はフリーマーケットに似ている。 すべて楓の部屋にあったもので『みんなで分けてほしい』というのが、楓の意志だった。 豪奢なソファセットや、楓自身が作成した蝶の標本類など、あげてしまうのはもったいないのでは……と思ってしまうものも多いが、取りに来る目途がたたないし、急に辞めてしまったお詫びもかねて譲りたいと、受話器の向こうで楓は言った。 品々の間を歩いて手にとるのは客だけでなく、芙蓉館の従業員の姿もある。紫色をした銘仙の着物を広げているのは若い男ふたりで、外の世界ではなかなか見かけない綺麗な雰囲気を纏っている。何度か、楓に会いに遊びに来た、楓の少年時代の同僚──源氏名は椿と紫雲。 物を渡したり、話をまとめたり、店員のように切り盛りしてくれているのは見るからにガラの悪そうな強面の男たちで、彼らは眞尋とその部下だ。眞尋は芙蓉館の従業員のエプロンをしていて、妙に似合う。那智の姿もあり、真希の姿を見つけると手招きしてくれる。 「ほらほら、早い者勝ちだからぼーっとしてると無くなっちゃうよ。真希ちゃん、このソファなんて実家にちょうど良いんじゃない?」 那智が腰かけるのはロングソファだった。真希は近づきながらも、那智に対して遠慮する。 「ちょっと大きすぎます……那智さんこそよく似合ってますよー!」 「それがねぇ、実は旅に出ることにしたから」 さらっと言われた一言に、真希は瞳を見開く。 「えっ?!」 那智はよく芙蓉館のロビーでお茶を飲んでいくが、これまで、そんな話は一言も漏らさなかった。 「しばらく決まった家は借りないつもりだから、無理かな」 ……驚いている真希の前、那智は椿たちに話しかける。 「椿ちゃんと紫雲はどう? このソファ」 椿は銘仙を置いて、紫雲に笑いかけた。 「せっかくだし、もらっていく、宗ちゃん? 新しいお家は広いし……」 すると那智は立ちあがり、椿の両肩を掴む。 「ほら、座って座って、座り心地を確かめてみて」 「あはは、那智さま、家具屋さんみたい!」 楽しそうに笑いながら、椿は那智に押しこめられるように、強引にソファに座らされている。 椿と那智を微笑ましげに眺める紫雲の手には、フランス語で書かれた天文学の古文書があった。 真希の脳裏には、客を取っていない休息の夜に、それをめくる楓の姿が鮮やかに思いだされる……ある夜、淹れて欲しいと頼まれたハーブティーを机に置いて、真希も本を覗きこんだ。 『楓さん、外国の言葉、読めるんですか?』 『いや、全然分からないけど、挿絵を眺めてるだけで楽しいんだ……』 屈託なく笑う、ガーゼの眼帯をしたあの顔。 ハッとして真希は振り返る。大階段から今にも楓が下りてきそうな気がする、裾の長いカーディガンを揺らし、少年のような細い足にスリッパをつっかけて、撫で滑るように手すりを触って── きっかけに溢れだすたくさんの思い出。 『そんなやりかたじゃ全然綺麗にならないぞ。掃除っていうのは……』 『包丁の持ちかたを、家庭科の時間に習わなかったのか? これは、こう持つんだ……』 『真希、外に鳥のえさを置いてきてくれ。あそこまで出歩くだけでも、四季彩の人たちはいい顔しないからな……頼んだぞ……』 誰も下りて来るはずのない階段を見つめ、真希は佇む。 (……楓さん……) 「かえくんのセンスって素敵だよね、僕、好きだなぁ」 弾む椿の声がして、真希はやっと現実に返り、そちらに視線を戻した。 「中学生のとき、蝉の抜け殻たくさんくれて……そのときは気持ち悪くてイヤだったんだけど、蝶々は綺麗だね」 隣で紫雲は苦笑している。 「抜け殻は俺も少し気持ち悪いな」 「こんなに集めてたよね、男子!って感じだったね」 椿は両手を軽く広げて量の多さを表現して、紫雲と笑いあう。 それから改めて、この場に集まっている人々を見回した。 「……お客さん同士がこんなに仲良くしてるなんて、あり得ないよ……」 椿の言うとおりだ。客たちは互いに顔見知りでもあるようで、雑談しながら、楽しそうに品を見ている。紫雲は頷いた。 「楓の接客方針と、人柄の成せる業だな」 楓に頼まれ、彼らを連絡して集めた那智は、今度は軽く紫雲にもたれかかる。 「だけどね、まだいらっしゃってない方がひとりいるんだよ」 真希は那智に首を傾げた。 「急用かもしれませんよ?」 「うーん……、どうなんだろうね、来るかどうか迷ってる感じだったし──……」 那智も首を傾げたとき、芙蓉館の入り口の扉が開け放たれる。 現れた人物は、真希の知らない人物だった。何処にでもいそうな、これといって特徴のない中年男。焦燥した顔つきで、歩き方も頼りなくおぼつかない。 彼に人々の視線が集まる中、近づいていくのは眞尋だった。 「おい、あんた……どっかで見たことある顔してんなぁ……?」 眞尋が肩に手を置いた瞬間、男はその場に崩れ落ちる。 「しっかりしろって! どうしたんだぁ……?!」 「楓くん、申し訳ない、申し訳ないっ……!!」 さらには、声を上げて泣きだす始末だ。 困惑するような空気が漂う中で、彼に向かって那智は歩いていく。 なびくブレイズと和柄の袖、ロングスカートの裾──後姿にどこか、威厳を感じる真希だった。 那智は真希が来る前、一時期だが、四季彩の当主を務めていたという。その事実が漂う背中は、嗚咽を漏らす男に優しく声をかける。 「来てくれたんだね、佐々木さん。あのときの当主はわたしだったからね、懐かしいよ……」 どうやら、彼が最後の招待客らしい。 佐々木と呼ばれた男は雑に涙を拭い、想いを漏らす。 「本当は、ほんとうは、もっと早くここに……芙蓉館に来たかった……! 謝りたいと思っていた……逢いたかった……だけど勇気が無かったんだ──……!!」 真希は戸惑う。いったい、何に対して謝るのか。楓に悪いことでもしたのだろうか。 佐々木にまたひとり歩み寄る男がいる……真希も知る、暮林という客だ。 「詳しいことは分かりませんが……今からでも遅くないですよ」 すると桐尾が、ロビーを見回して声をかけた。 「皆さんで娼年客船とやらに遊びに行きますか?」 当たり前のように、同意する返事で溢れる。 「買春ツアーみたいですな」 「実にいかがわしい、私たちにぴったりだ!」 「僕も行きたい!」 真希のそばで元気よく手を上げるのは椿だった。真希も小さく挙手する。 「でもお高いんですよね?」 極上の少年だけを乗せた船というから、乗船すれば法外な金額を取られそうだ。心配な真希に、楓の客たちは優しい。 「メイドさんのぶんは皆でカンパするよ。退職記念の旅行だ」 「新しい船出に! 船だけに!」 響きわたる人々の笑い声。眞尋に支えられ、佐々木は立ちあがり、涙を拭っている。 ほがらかな雰囲気の中で、紫雲だけが唖然とした様子で、真希をちらと見た。 「売春船が、記念旅行……それで本当に良いのか?」 「えっ、嬉しいです!!」 頷く真希のとなりで、椿も笑っている。 「宗ちゃんも行くよね?」 「あぁ、まぁ……楓には会いたいけどな──……」 |