多くの組織の集合体である『旅団』は、それぞれの組織において、自治が認められていた。 組織ごとに意志を持ち、別個に動いているというわけで、実態が掴みづらいのも頷ける。 また、ひとつの組織が捕まったとしても、横のつながりはほとんど無いから、芋づる式に全て捕まって壊滅することもない。そうして都市伝説のような存在を維持している。 実によくできた仕組みだと思いながら……楓はグラスを拭いていた。拭き終わったグラスはカウンターに置く。隣では美砂子も同じ作業をしている。こんな時間を過ごしていると、旅ばかりしていたときの引っ越しの荷解の記憶がなんとなく蘇る楓だった。 楓と美砂子は船に残ることを許され──セイと再会し2ヶ月経つ。 台湾の近くを通るタイミングに合わせて船を降り、中国から台湾に飛行機で渡り、其処から船に乗り直した。台湾領にはビザなしで90日間滞在できる。 とはいえ、いずれは一度日本に戻り、日本からこの船に乗りたい。 そうすればビザ云々など気にせずにずっと乗船していられる。 美砂子はグラスを置いて、大きく伸びをした。 「はぁー……! つかれちゃったぁ……!」 「ちょっと休憩するか」 「うんっ、そうしよう、楓くん」 美砂子は満面の笑みを向けてくれる。セイと再会してから、元気な姿を取り戻しつつあり楓は嬉しい。笑顔の美砂子が一番良い。 カウンター内で、美砂子はグラスに氷を入れて、紙パックのコーヒーを注いでくれる。 楓は手を洗って客席のソファに座った……此処は雑居ビルの小さなバーやスナックを思わせる、こじんまりとした空間。天井にはレトロな雰囲気のシャンデリアがゆらめく。 自由に仕事をしていいと、空き店舗を与えられたのだった。 のんびりと掃除をしながら、どんな店にしようか考えているが、まだ何も決まっていない。だから今の楓は船内の雑用を請け負って過ごしている。掃除から電球の交換まで、仕事はたくさんあった。 美砂子はホステスを揃えたラウンジで働き、楓ははじめ『少年を売る船なのに、女の人の店もあるのか』と疑問に思ったが、長く船に乗っていると、たまには女性と戯れたくなる人もいるようだ。 いたれりつくせりの豪華客船は、そんな我儘にも応えてくれる。 煙草を吸っていると、グラスをふたつお盆に乗せて美砂子も来る。 となりに腰を下ろし、楓のキャスターホワイトを抜いて咥えた。ライターで火を点けてやれば、美砂子は「ありがとう」と笑む。 コーヒーを一口飲むと、美砂子はこんなことも言った。 「ねぇ、楓くん、男娼のお仕事もしていいんだよ」 「……嫌だろう」 妻子がいるのにいつまでも身体を売るなんて、常識外れだ。しかし、美砂子はこれまでと同じように今も気にしていない。 「嫌どころか、尊敬しているよ、だって楓くんはプロフェッショナルだもの」 美砂子はきらきらとした笑顔を向けてくれる。 「楓くんの接客に対しての考えとか、お客さんを大切にしてるところとか、ミサも見習わなきゃって思うところばかりだよ。それに楓くんも、ミサがホステスしていても、気にならないんだよね」 「あぁ……確かにそうだけど……」 浮気したいから夜の街に行っているわけではなく、仕事自体が本当に楽しそうで、人と接することが好きで……美砂子がドレス姿で輝いていると楓も嬉しい。 美砂子は「それとおなじだよ」と頷いた。 ……だが、美砂子は身体を重ねているわけではない。一方、自分は男娼だ。最後まで至ってしまうぶん、何と言われても楓は負い目を感じてしまう。 気にしていない美砂子は、さらに尋ねてくる。 「芙蓉館のお客さんが来たらどうするの?」 「……うーん……」 楓は歯切れのいい返事ができない。 「そうだな……どうするのか、まだ決めてないんだ」 「楓くんのお客さんたちは、楓くんとはただ単にエッチだけしたい!って感じじゃなくて、そういうところも、ミサね、楓くんのお客さんたち好きだよ」 「ははっ……、ありがとう」 客たちを褒められると嬉しい。だが……楓が引退を考える理由は、美砂子に対する想いだけでなく年齢もある。 「俺は……賞味期限切れじゃないか?」 ガラスの灰皿に吸殻を潰し、尋ねると、美砂子は大きな瞳をさらに見開いた。 「えぇえっ?! 何言ってるの? ほんきで言ってるの?」 「おかしいことを言ったか?」 「男の子好きなおじさん、まだまだぜんぜんだませるくらい、24歳には見えないよっ!」 ミサこそ25歳には見えないんだけどな……と返したかったが、最近の美砂子は大人の女性になりたいらしく、子どもっぽいと言うと拗ねる。 「いや、でもやっぱり、肌とか……歳を感じるから……」 「そんなことないよ、きれいだよー!」 美砂子に頬をすべすべと撫でさすられながらも、楓は確認した。 「本当に……本当にまだ身体を売っても、嫌じゃないのか?」 「うん、何度も言ってるよ、ミサは楓くんが何屋さんでも関係なく好きで、それをいけないこととは思わないもの」 「そうか……」 積極的に自分からは売らないが、会いにきてくれた客に身体を開くくらいは良いのかもしれないと、楓は考えを軟化させる。 「……船にいる間は、たまには、してもいいのかもな……」 「そうだよ、まだ、男娼の楓くんでいてもいいんだよ」 それだったら──この店は表向きにはコーヒーやお酒を出す場所にして、親しい客だけに『接客』しようか……奥の倉庫も改装して、ベッドを置いて……やっと構想がまとまり始めた。 コーヒーを味わいながら、美砂子と雑談を楽しんでいると、扉がノックされる。 楓と美砂子は同時にそちらを見た。ゆっくりと開き、顔を覗かせるのはセイだ。 「ここにいたぁ、おかあさん、おとうさん」 セイの顔を見て、美砂子は嬉しそうに唇をゆるめる。 「休憩じかんなの?」 「うん、ちょっとだけ空きじかん、おれもなにかのみたいー!」 店内に入ってきたセイは、楓と美砂子の間にすべりこむように座る。Tシャツにハーフパンツ姿なのは、昼は恥部を隠させるという船の方針からだ。いつも丸出しだと羞恥心が麻痺してしまう……とのことで、性奉仕する少年たちの育て方はさすがに上手い。 少年たちは集団生活で管理されているため、当然ながらセイも彼らと寝起きし、楓たちと一緒には暮らせない。だが、同じ船に乗っているのでちょくちょく顔は見れるし、時間が空いたときセイからもこうして来てくれたりする。 少年の生活はなかなかに忙しい。品質維持のための身体検査は毎日行われ、それぞれの飼育方針に合った食事を出されるブランチの後、性的な訓練、各国語の勉強を行う。 夕方からは順番に風呂と手入れ、おめかし、夜になれば仕事……長く船に泊まって船旅をする客もいるので、その客に気に入られて昼夜付きっきりで奉仕する少年もいるらしい。 また、船の生活が長くなってくると、訓練や勉強に割く時間を減らし、昼間も船内の店で働く子も多いそうだ。 セイは大変な環境に巻きこまれてしまった、その事実は覆らないが、家族で過ごす時間があるだけでも、楓は嬉しく思う。 美砂子の作ったアイスカフェオレを飲むセイも交えて、3人で話して過ごす。 こんなひとときはとても幸せだ。 ふとした瞬間、セイはグラスを持ったまま楓に擦り寄ってきて、不思議そうに見つめてきた。 「最近のおとうさんー、バニラのにおいしないねっ……『ふようかん』にいたときはしたのに……」 確かに、あの部屋ではシャワージェルもリネンウォーターも、バニラの香りで統一していた。 「おれあのにおい好きだったよ、あれは男娼のにおいなの?」 「そういうわけでもないけど……」 「おれにいろいろ、なんでおしえてくれないのー? 男娼のえっちおしえて!!」 「駄目だ」 ……どうもセイの倫理観は薄い気がする楓だった。美砂子もそれほど強くないし、似てしまったのかもしれない。自分も男娼をしているので言える立場ではないが……親としては心配だった。この船で育ったらさらに薄くなりそうな気もする。 きっぱりと否定した楓の気持ちなど分かるはずもなく、セイはグラスを置いて抗議する。 「けち!! おとうさんのけちー!!」 「親子でそんなことをするなんて絶対駄目だ」 「あのね、船にね、したことあるって子時々いるよ!」 「よそはよそ、うちはうちだ」 「あぁ! でた! そのせりふー!!」 「そんなことより、俺からの宿題はやったのか?」 楓は話題を変えてやった。セイはぼそぼそと言い訳をする。 「算数できなくてもー、いやらしいことはできるもん……」 船内での教育は、英語を含めた各国語は教えてくれるが、他の科目は子どもたちの自習に委ねられている。普通の日常を送っていた頃からセイは算数の成績があまりよくなく、楓はその点が気がかりで計算ドリルを渡したが、ほとんど進んでいない。 すると美砂子が、セイに問いかけた。 「セイ、楓くんみたいな男娼になりたいんじゃなかったの?」 「なりたいー!!」 無邪気に元気よく両手を上げるセイに、楓は肩をすくめた。 「中学の途中までなら、お父さんだって行ってたんだ。小学生の問題も出来ないんじゃ、俺みたいにはなれないぞ」 あまり説教してはいけないと思いながらも、ついつい口うるさくなってしまう。 「いいか、清志郎、男娼はただ性的な奉仕だけをしていればいいって訳でもないんだ。色々他にもすることがたくさんあって、むしろ、エッチなこと以外が重要で──……」 「あー、たぶん、そろそろけいこの時間だー!」 セイはカフェオレの残りを一気飲みすると、勢いよく立ちあがり、扉に向かって駆けだす。 楓もつい立ちあがってしまった。 「こらっ、話はまだ終わってないぞ」 「ちゃんとするからぁー!」 廊下を遠ざかっていく足音。楓はため息をこぼしながら、開けっ放しにされた扉を閉め、ソファに戻った。 「ったく……元気なのはいいんだけどな」 「わたしも、親としてはちゃんと勉強もしてほしいなぁ……」 美砂子の呟きに同意し、楓は深く頷いた。 「勉強しろってうるさかった、那智の気持ちが分かるようになってきたな……」 「お兄ちゃんに似たのかなぁ」 セイがいなくなったからか、美砂子は2本目の煙草に火を点ける。 「お兄ちゃんもね、算数苦手だったって、聞いたことがあるの」 それを見て楓も煙草を咥える。今度は美砂子がライターを近づけてくれた。 「体育が得意なところも、似たのかもしれないね」 「そういえば、ミサのお兄ちゃんは空手もやってたしな」 全国レベルの選手だったと、楓も話には聞いている。 「俺は理数系は得意なんだけどな……それは、似なかったみたいだ」 学校こそ行っていないものの、楓は自分で数学・化学・物理あたりは高卒程度の勉強を済ませた。 美砂子は煙を吐きだして、目を細めて微笑う。 「でも、背格好とかは、出会ったときの楓くんに似てきてるよ!」 「……そうか?」 再び扉がノックされる。その後に顔を見せるのはセイではなく……燈比だった。 「よぉ。掃除ははかどってるか?」 かしこまった口調で迎えられた最初の夜が懐かしい。楓は灰皿に灰を落としつつ、店内を見回してみせた。 「はかどってるように見えるか?」 「いや、全然」 燈比は笑って、楓たちと向かいあわせに腰を下ろす。抱えていた書類やタブレットをテーブルに置くと、燈比も煙草に火を点けた。 「さっきの会議で、近いうちに神戸港に向かうと決まった。一週間以上停泊する予定だ」 美砂子は吸殻を潰して立ちあがりつつ、顔をほころばせる。 「それなら、マンションに荷物取りにいきたいなぁ」 楓は頷いた。 「俺も……芙蓉館に行きたいな」 いつ戻れるのか分からなかったので、部屋にあったほとんどの品はみんなにあげてしまったが、まだ残っている荷物もある。 美砂子は燈比にアイスコーヒーを飲むか聞き、燈比はブラックがいいと答えた。カウンター内に歩いていく、ふわふわのスリッパを履いた美砂子の素足。 燈比はため息まじりに煙を吐きだす。 「何だか知らないけど……あんたたちを見ていると、前向きな気持ちを思いだすんだよな」 そして明かしてくれる、燈比の本音を。 「実は……とっくに借金なんて返し終わってるんだ、それこそ10代の頃に。だけど引きこもってる、総支配人なんてちょうどいい理由もあるし……いまさら外に出たってどうすればいいのか、何も思いつかないんだ」 いきなり連れてこられて、将来の夢もそれまでの生活も奪われたのだ。いまさら自由の身になったところで……と思うのは当然かもしれない。楓はかすかに眉根を寄せた。 だが、燈比は笑ってみせる。強い男だ。 「でもいつかは船を下りて、支配人とも男娼とも違う人生を始めるのも面白いかもしれない」 「あぁ、いいと思う、面白いぞ」 楓は外の世界で男娼のかたわら、ラムネ売りをしたり、マッサージ屋をしたり、他にも普通のバイトをしていた話をする。普通の世界から離れている燈比は興味深そうに耳を傾けてくれるのだった。 |