1 0 月 1 1 日 1 5 : 0 0

 盆地の夏も盛りを過ぎて、秋を深めつつある頃。
 門前を掃き清めていると、見知った人影が歩いてきたから、春江はホウキの手を止めた。
 着物をリメイクした和柄の羽織りものを着て、スーツケースを引いた那智だ。目が合うと微笑まれる。

「こんにちは、春江さん」

 春江も微笑を返し、軽く頭を下げた。

「こんにちは……お久しぶりです、健次さまにご用ですか?」
「春江さんにも健次くんにも用事?かな。旅立つ前に挨拶しておきたくて。貴方たちには、うちの秀乃がとてもお世話になっているし」
「旅……?」
「しばらく日本に帰ってくるつもりはないの」

 少し寂しそうな目をして、渡される紙袋。

「あられとお煎餅の詰め合わせ。良かったら食べて」
「ありがとうございます、宜しければ家に上がっていただいて、お茶でも……」
「ごめんなさい、飛行機の時間があるから、本当にただ挨拶だけしに来ただけなんだ」
「……四季彩を離れるのですか?」

 差し出がましい気もしたものの、つい、尋ねてしまう春江だった。
 那智は頷く。

「わたしに出来ることはもう無いから……出来ることは全部したつもりだから、悔いはないよ」
「いえ、そんな……」

 春江には分からない、慰めたらいいのか、励ましたらいいのか……。
 那智は踵を返す。

「健次くんにも挨拶したかったけれど、いつかまた逢えるかな」

「さよなら」と短く言って、足早に去っていく。気丈に振る舞う、毅然とした後姿は凛としていた。
 どうすることもできずに見送った春江は、ホウキをその場に残し、貰ったお菓子をとりあえず居間に置きにいく。ふたたび外に出ようとして、玄関で草履を履いていると、健次が帰ってきた。
 引き戸を開けた健次と春江の視線が重なり合う。

「健次さま、いま、越前谷家の──」

 そこまで言ったところで、健次は春江をじっと見てきた。

「那智さまがいらっしゃって、しばらく日本を離れるからと、わざわざご挨拶に来てくれましたよ」
「……なんだ、秀乃のことじゃねぇのか」

 小さくため息を吐いて、健次は車のカギを掴んだ。
 異変を感じとり、春江は声をかける。

「どうなされました?」
「何処にもいねぇ。クソが……普段、アホみてぇに電話してくるくせに、出やしねぇ」

 精神的に参りきった秀乃は、春先から、ここから徒歩圏内の旅館で暮らしている。この数日珍しく連絡が無かったので、健次は様子を見にいったのだ。

「大方、実家に戻ったんだろうが、嫌な予感がする。トチ狂ってやがるからな、何するか……」
「…………」

 健次の勘は当たることが多いから、春江もひどく心配になった。
 最近の秀乃は嫉妬心もさらに強くなり、些細なことでも逆上するそうだ。春江は極力秀乃の前に出ないようにしていて、様子は健次から聞くだけだったが、こんな状態が続くなら……いっそ、私が身を引けば、丸く収まるかもしれない……とも思う。
 うつむく春江に、健次の声が響く。

「お前……相沢になるか」
「……え……っ……!」

 こんなときに何を言いだすのだろう、春江は驚き、勢いよく顔を上げた。健次の虹彩はただ静かに春江を映している。

「ずっとお前と生きてきた、ガキの頃から……俺にとって家族と呼べるのはお前だけかもな。それなら同じ名字でもいいのかもしれねぇ」
「私は……」

 春江は自分の胸をぎゅっと押さえ、健次を見つめかえす。

「私は貴方のおそばにいられるだけで幸せです」

 そして瞼を閉じて、噛みしめるように告げる。

「お世話出来るともっと幸せ……」

 壮一を殺してから、夢のような10年間だった。
 夫婦のようだと錯覚できる時間も多かった。昔は姉弟みたいに感じられたのに……。
 男らしく成長した健次はとても頼りがいがあって、逞しくて、春江をいつも守ってくれる、引っ張っていってくれる。

「遠慮ではなく、謙遜でも、蔑みでもなく、私は家政婦で良いんです」

 ……負い目もある。壮一に孕まされた美砂子を嫌悪し、棄てた。
 どんな理由があろうと健次の妹だ。そんな酷い女が愛されていいのだろうかと春江は迷うのだ。
 健次は春江を強く抱きしめた。

「駄目だ」

 祈りのように零される、健次の想い。

「俺にはこれからも春江が必要だ。家政婦として居て欲しいんじゃねぇ……」

 瞼を開く春江は、無意識のうちに涙を滲ませる。

「健次さま……」
「俺は面倒臭がりだからな……先送りにしていた、秀乃との関係も、お前との事も。だけど色々考えた。秀乃の為にも、このままでいいはずがねぇ」

 ゆっくりと解かれる抱擁。健次は悲しそうに微笑った。

「あいつを……初めからもっと突き放したほうが、良かったのかもな」
「そんな……それでは健次さまと若旦那さまの思い出が、無くなってしまいます」

 悲しくて、思わず口許を覆う春江だった。
 何をどうしたら最も正解だったのか、正しかったのか。今さら分かるはずもない。
 健次は外に出て、駐車場に向かって歩きだす。

「帰ったら、お前と色々話したい」
「はい、いってらっしゃいませ──……」

 午後の穏やかな光の中で、春江は頭を下げ、健次を見送る──