盆地の夏も盛りを過ぎて、秋を深めつつある頃。 門前を掃き清めていると、見知った人影が歩いてきたから、春江はホウキの手を止めた。 着物をリメイクした和柄の羽織りものを着て、スーツケースを引いた那智だ。目が合うと微笑まれる。 「こんにちは、春江さん」 春江も微笑を返し、軽く頭を下げた。 「こんにちは……お久しぶりです、健次さまにご用ですか?」 「春江さんにも健次くんにも用事?かな。旅立つ前に挨拶しておきたくて。貴方たちには、うちの秀乃がとてもお世話になっているし」 「旅……?」 「しばらく日本に帰ってくるつもりはないの」 少し寂しそうな目をして、渡される紙袋。 「あられとお煎餅の詰め合わせ。良かったら食べて」 「ありがとうございます、宜しければ家に上がっていただいて、お茶でも……」 「ごめんなさい、飛行機の時間があるから、本当にただ挨拶だけしに来ただけなんだ」 「……四季彩を離れるのですか?」 差し出がましい気もしたものの、つい、尋ねてしまう春江だった。 那智は頷く。 「わたしに出来ることはもう無いから……出来ることは全部したつもりだから、悔いはないよ」 「いえ、そんな……」 春江には分からない、慰めたらいいのか、励ましたらいいのか……。 那智は踵を返す。 「健次くんにも挨拶したかったけれど、いつかまた逢えるかな」 「さよなら」と短く言って、足早に去っていく。気丈に振る舞う、毅然とした後姿は凛としていた。 どうすることもできずに見送った春江は、ホウキをその場に残し、貰ったお菓子をとりあえず居間に置きにいく。ふたたび外に出ようとして、玄関で草履を履いていると、健次が帰ってきた。 引き戸を開けた健次と春江の視線が重なり合う。 「健次さま、いま、越前谷家の──」 そこまで言ったところで、健次は春江をじっと見てきた。 「那智さまがいらっしゃって、しばらく日本を離れるからと、わざわざご挨拶に来てくれましたよ」 「……なんだ、秀乃のことじゃねぇのか」 小さくため息を吐いて、健次は車のカギを掴んだ。 異変を感じとり、春江は声をかける。 「どうなされました?」 「何処にもいねぇ。クソが……普段、アホみてぇに電話してくるくせに、出やしねぇ」 精神的に参りきった秀乃は、春先から、ここから徒歩圏内の旅館で暮らしている。この数日珍しく連絡が無かったので、健次は様子を見にいったのだ。 「大方、実家に戻ったんだろうが、嫌な予感がする。トチ狂ってやがるからな、何するか……」 「…………」 健次の勘は当たることが多いから、春江もひどく心配になった。 最近の秀乃は嫉妬心もさらに強くなり、些細なことでも逆上するそうだ。春江は極力秀乃の前に出ないようにしていて、様子は健次から聞くだけだったが、こんな状態が続くなら……いっそ、私が身を引けば、丸く収まるかもしれない……とも思う。 うつむく春江に、健次の声が響く。 「お前……相沢になるか」 「……え……っ……!」 こんなときに何を言いだすのだろう、春江は驚き、勢いよく顔を上げた。健次の虹彩はただ静かに春江を映している。 「ずっとお前と生きてきた、ガキの頃から……俺にとって家族と呼べるのはお前だけかもな。それなら同じ名字でもいいのかもしれねぇ」 「私は……」 春江は自分の胸をぎゅっと押さえ、健次を見つめかえす。 「私は貴方のおそばにいられるだけで幸せです」 そして瞼を閉じて、噛みしめるように告げる。 「お世話出来るともっと幸せ……」 壮一を殺してから、夢のような10年間だった。 夫婦のようだと錯覚できる時間も多かった。昔は姉弟みたいに感じられたのに……。 男らしく成長した健次はとても頼りがいがあって、逞しくて、春江をいつも守ってくれる、引っ張っていってくれる。 「遠慮ではなく、謙遜でも、蔑みでもなく、私は家政婦で良いんです」 ……負い目もある。壮一に孕まされた美砂子を嫌悪し、棄てた。 どんな理由があろうと健次の妹だ。そんな酷い女が愛されていいのだろうかと春江は迷うのだ。 健次は春江を強く抱きしめた。 「駄目だ」 祈りのように零される、健次の想い。 「俺にはこれからも春江が必要だ。家政婦として居て欲しいんじゃねぇ……」 瞼を開く春江は、無意識のうちに涙を滲ませる。 「健次さま……」 「俺は面倒臭がりだからな……先送りにしていた、秀乃との関係も、お前との事も。だけど色々考えた。秀乃の為にも、このままでいいはずがねぇ」 ゆっくりと解かれる抱擁。健次は悲しそうに微笑った。 「あいつを……初めからもっと突き放したほうが、良かったのかもな」 「そんな……それでは健次さまと若旦那さまの思い出が、無くなってしまいます」 悲しくて、思わず口許を覆う春江だった。 何をどうしたら最も正解だったのか、正しかったのか。今さら分かるはずもない。 健次は外に出て、駐車場に向かって歩きだす。 「帰ったら、お前と色々話したい」 「はい、いってらっしゃいませ──……」 午後の穏やかな光の中で、春江は頭を下げ、健次を見送る── |