終焉の彩

 半年ぶりに帰ってきた芙蓉館。
 白の軽トラックに、すべての荷物を積み終わった。
 楓は額に滲んだ汗を拭う。ほとんどの所持品は先日みんなに配ったが、客からプレゼントでもらったものは取ってある。それらを運送会社に持ちこんでマンションに送ることにした。
 作業を手伝ってくれた真希は感動で瞳を輝かせ、両手を胸の前で合わせる。

「楓さん、やっぱり力持ちですよね、さすが男の人はすごいです!」
「真希も結構たくましいと思うぞ……って、女の子に言っても、あまり嬉しくないか……?」
「えっ、嬉しいですよー! 農家の跡継ぎですし!」

 真希はすでに芙蓉館のメイドを辞めている。
 今日は楓を手伝うために、わざわざ実家から戻ってきてくれた、自分で軽トラックを運転して。
 地元には結婚予定の彼氏もいて、婿養子に来てくれるのだと、荷物をまとめる作業をしながら話してくれた。
 オーバーオール姿の真希は、芙蓉館の建物に入っていく。

「楓さん、出発の前にちょっと休憩しませんか?」
「あぁ、そうしよう」
「芙蓉館が、那智さんから預かったものもあるんです」
「……那智から?」

 一体何だろう……思い当たるものはない。
 那智の旅立ちは今日だった。本当なら少し会う予定だったが、楓の飛行機の到着時間が遅れて、入れ違いのように会えなかった。
 とはいえ、那智とはまたすぐに会えそうな気がする。ふらっと船にも現れそうだ。
 ロビーのソファに座り、楓はアイスオレンジティー、真希はアイスルイボスティーを頼んだ。
 従業員は飲みものと一緒に歴史を感じさせる古書と、那智の書いた手紙を持ってくる。

「これを楓さんに渡して欲しいって頼まれました」

 そんな言葉とともに、楓は受け取った。真希は複雑そうな表情で視線を落とす。

「那智さんは旅立つ前に、四季彩を辞める人の次の仕事とか、住むところとかを探したり、すごく熱心で……」
「あぁ……」

 楓の脳裏には世話を焼く那智の姿が、簡単に思い描ける。
 真希は顔を上げた。

「楓さんには、眼のことをはっきり教えてあげたいって色々探して、古い蔵で見つけたみたいです」

 ぱらぱらと古書をめくってみても、墨汁の崩し字で書いてあり、楓にはまるで読めなかった。
 解読出来ないので、手紙の封を開ける。那智の字を見るのはひさしぶりで、懐かしい。
 手紙には挨拶もそこそこに、書物の内容の要約が綴られていた。
 昔々──京に陰陽師がいた時代、この辺りに祀られていた一匹の霊猫の伝説。白い毛並みに琥珀色の瞳を持つ美しい猫で、里に災いがあるたびに現れ、救ってくれたという。
 時代は何百年か下り、霊猫を祀った祠で雨宿りをした女がいた。
 女は誰とも交わらずに子を身籠る。産み落とせば両眼は琥珀色で、女は祠の祟りだと恐ろしく震えあがり、赤子を四季彩に放りこんだ……その子は『蜜』という女郎になる。
 蜜は不思議な力を持ち、共に過ごせばたちまち福を招くとされ、大層な人気を博した。化けものどころか、招き猫、善き力だと、那智の字で書かれている。
 ……楓はハッとした。

「俺の実家が、雛屋が今も繁盛しているのも、呪いどころか、守ってくれていたんじゃないのか……」

 それなのに日生の家は、琥珀色の子どもが生まれるたびに惨く扱ってきた。

「愚かだな……。……それでもあの人は守り続けてくれたのか……」

 成仏する前、楓の前にも何度か現れてくれた、恥ずかしがりな少女の姿を思いだす。
 長年の謎が解けた楓は、なるほどと思いながら手紙を閉じる。
 事情を知らない真希は神妙な表情で、静かにルイボスティーを味わっていた。

「あ……悪い、俺だけ納得して……」

 楓は真希に手紙を渡す。真希はおずおずと受け取る。

「い、いいんですか? 私も読んでしまって」
「あぁ、べつに隠すことじゃない」

 このことは葵にも伝えて、琥珀色の眼の子どもたちの墓はいずれきちんと整えるべきだ。
 両親が生きているうちは難しいかもしれないが、やはり、いつまでも朽ちてぼろぼろの墓に入れておくわけにいかない。

(場所は、日陰のままでいいだろうけど……明るいところだと「眩しい」って文句言われそうだ)

 茜を思いだして、楓は微笑む。勝手に楓の浴衣を着て、遊郭の中を歩き回っていた茜。
 もう、茜も成仏したし、楓の左目も少しずつ輝きを失いつつある。
 寂しいけれど物事には終焉がある。
 ……那智はずっと引っかかっていたのかもしれない、少年時代の楓が時々、化けものみたいと悪口を言われていたのを。そうじゃないという証拠を実は長い間、探してくれていたのかもしれない。
 那智が気にすることではないのに……つくづく自分は優しい人たちに支えられているなと楓は微笑む。オレンジティーを味わいながら、窓の外青空を見た、今頃那智は空の上だろうか。

(ありがとう、那智、また会おう)


   ◆ ◆ ◆


「やっぱり凄かったんですね、楓さんの瞳って」

 四季彩の敷地内の竹林を抜けていく車内、真希は語調を弾ませる。
 楓は助手席に座っていた。慣れた運転をする真希の手元を見ながら、そのうち自分も免許を取りたいと思う。片目しか見えなくても、視力と視野に問題無ければ乗れるらしい。船にいるうちは無理そうだから、どれくらい先になるかは分からないが……。

「宝石みたいに綺麗だし、ずっと見ていたくなるくらい素敵なんですよー!」

 嬉しそうに笑う真希は「もう、言う機会もなさそうだから、伝えますね」と、笑顔のまま、楓が驚くことをあっさり告げる。

「私……実は、芙蓉館に来たばかりのとき、楓さんのこと好きだったんです」
「?!!」
「……あはは! びっくりしちゃいますよね、こんなこと言ったら」

 全く気づいていなかった楓は、とてつもなく驚きながら真希を向く。どうリアクションしたらいいのか、謝ったほうがいいのか……咄嗟にあれこれ考えるが、気の効いた言葉は出ない。

「そ、そうだったのか……」
「だけど今の彼氏のことを好きになって……気づいたんです」

 真希の瞳は眇められる。

「楓さんに対する好きは恋愛の好きじゃなく、お父さんに対する好きって感じなんです。私より背も小さいし……あっ、これは悪口とかじゃないですよ! 歳もあまり変わらないけど、楓さんはお父さんなんです」

 明るい表情から、だんだんと涙を滲ませていく、真希の横顔。 

「何にもできなかった私に、色々教えてくれて……おそうじ、整理整頓、お裁縫、料理も……」

 真希は車を停めてしまう。
 両手で顔を覆い、嗚咽交じりに告げる。

「ありがとう……ございました……!!」
「そんな、俺は礼を言われることなんか……」

 深く考えることなく自然に教えていたから、真希の想いの深さに戸惑ってしまう。

「俺の方こそ、芙蓉館でちゃんと仕事が出来たのは、真希のおかげもあるんだ」
「楓さんからは、そういった、お仕事に対する姿勢も学びました、感謝の気持ちでいっぱいです」

 溢れる涙をぬぐう真希。たとえ悲しみの涙でなくとも、女の子の泣き顔を見ていると切ない気持ちになる。楓はパーカーのポケットからハンカチを出して、真希に渡した。
 受けとって瞼を押さえる、真希の左手の薬指に光る指輪。予定通りに結婚し、いつか子どもを産んだら、真希はいいお母さんになりそうだなと楓は思う。

「真希、将来の旦那さんと幸せにな」
「ありがとうございますぅぅ、かえでさーんっ……!! お世話になりましたぁあ……!」

 涙を拭う真希を眺めて、楓は微笑む。
 しかし……ふと鼻先をくすぐる違和感に気がついた。

「……何か……焦げたにおいがしないか?」

 窓越しに外を窺いながら、真希に尋ねる。
 真希はハンカチから顔を離し、頷いた。

「そう……言われてみれ……ば……」
「何なんだ……?」

 楓は軽く扉を開けてみる。匂いは強くなった。
 真希の予想は楽観的だ。

「焚き木でもしてるんじゃないですか? 四季彩の人たちが…」

 とはいえ、楓にも思い当たる理由はそれくらいしかない。
 そうだなと頷いて、すぐに閉めた。
 真希の涙は落ち着いて、ふたたび車を走らせはじめる。

「ハンカチは洗って返します」
「いや、気にしなくていいんだ、そんなの──……」

 雑談しながら竹林を進んでいくが、何かが燃えている匂いは強くなっていくばかりだ。
 楓は首を傾げる。

「やっぱり……これは焚き木じゃないぞ……?」

 小径からいくらか広い道に出ると、疑いは確信に変わった。
 遊郭の方角から、たくさんの車が敷地の外に向けて走り去っていく。自分の足で駆ける使用人の姿や、まだ幼い子どもたちの姿もあった。リュックサックなど荷物を抱えた子もいる。彼らの表情は必死で、恐怖や怯えも滲んでいた。泣き声も響く。
 楓が導きだした答えは至極当然のものだ──

「火事……か……?!」

 楓の呟きに、真希は車を端に寄せて停め、スマートフォンを出す。

「でしたら、消防車を……!」
「呼べないんだ」

 楓は制止するように、真希の手首を掴んだ。

「こんなにたくさんの人がいるんだ、呼べるならとっくに呼んでる……!」

 遊郭の存在を外部に知らせる訳にはいかない。売春の事実、多くの著名人・権力者が出入りしている記録を公にしてはいけない。現代社会の闇を白昼に晒してはいけないのだ。
 皆まで言わずとも、楓の言いたいことを真希は理解したらしい。

「だけど、そんな……じゃあどうしたら……! 逃げることしかできないんですか……?!」

 こうしている間にも多くの車や人々が、悲痛な様子で、楓たちの横を過ぎ去っていく。
 真希の電話が鳴った。画面に映る、着信相手の名前は芙蓉館。不安げな表情をして、楓を見つめたまま真希は耳に当てる。

「はい……! はい……私たちなら平気です……! はいっ……!!」

 通話はすぐ終わった。内容は大体予想できるが、楓は一応尋ねる。

「何て言っていたんだ?」
「やっぱり四季彩が……火事を……起こしたって……芙蓉館に連絡が来たそうです」

 真希の顔色は蒼白になっていく。

「距離があるので、芙蓉館まで巻き込まれることはなさそうだけれど、一応館内の全員で避難するって……」
「こっちの道じゃなくて、裏道を使ったほうが早く敷地を抜けれる──……って、そんなことは分かってるか」
「はい、きっと……芙蓉館は大丈夫ですよ!」

 真希は頷いた。
 楓は扉を開けて、避難の列の途切れた道に降りてみる。
 焦げた匂いは強くなるばかりだ。長い間何事もなく営業していたのに、どうして急にこんな災いに見舞われたのか。竹林に覆われて建物は見えないが、楓はその方角を睨む。
 真希も車を降りて、楓を心配げに見つめる。

「……楓さん……」

 今度は数人の男女の子どもたちと、使用人らしき女が走ってきた。子どもたちは泣きじゃくり、何度も振り返り、逃げるのを迷うかのように足を止める。
 女性は辛そうな顔をしながらも、子どもたちを急かす。

「もういいから! 立ち止まらないで……!!」
「でも、でも、ひでのさまが……!!」

 秀乃?

 楓はとてつもなく嫌な予感を感じながら、彼らに声をかけた。

「……秀乃がどうかしたのか……?」

 問いかけに、女の子は今も頬に雫をこぼして教えてくれた。

「ひ、ひでのさまが……母家に入っていくのを見たの……!」

 楓は息を呑む。

「なん……だって……?!」

 避難と逆の行動だ。何かの冗談だと思いたい──……

「どうして……秀乃の他には、もう人はいないのか?」

 女はこの中で一番幼げな男の子の両肩に手を置き、楓に頷いた。

「私たちできっと最後です……当主様を除いては……あの、失礼ですが……貴方は?」

 楓の言葉を待たずに、その少年は笑む。幼すぎて、大変な事態だということをあまり分かっていなさそうだ。

「ひでのさま、きょうね、ひさしぶりに四季彩にきてくれてうれしかったよ……」

 他の子どもたちも、訴えるように、一斉に楓に話しだす。

「いつも勉強教えてくれたんだよ」
「本当は怖い人じゃないってみんな知ってるよ」
「秀乃さま……死んじゃうの? どうすればいいの? そんなの嫌……」

 彼らの声を聞き、使用人の女性は耐えられなくなったとばかりに瞼を押さえ、嗚咽を漏らす。
 楓は子どもたちに頷いた。緊迫した事態なのになぜか……微笑ってしまう。

「あぁ、秀乃は怖くなんてない」

 ひょっとしたら火を放ったのは秀乃自身かもしれない。当主の座に就く秀乃なら防火用のシステムを切ることも、人を出払わせることも可能だろう。

「とても優しい男なんだ……」

 繊細な秀乃は思いつめた果てに、こんな行動に出たのか。
 楓の唇から自然にこぼれる言葉。

「……真希、先に行ってくれ、この子たちを乗せて」
「楓さん!!」

 真希は血相を変えて、しがみつくように楓の身体を掴む。

「駄目です、だめですっ!! いけません!! そんなっ……!!」
「少しだけ……探すだけだ」
「でも、でも、楓さんには奥さんも子どもも……万が一のことがあれば……」

 悲痛に歪んでいく真希の表情。やっぱり女の子を泣かせるのは嫌なものだなと楓は思った。
 だから、意識して唇をゆるめる。

「大丈夫だ。本当に危なくなったら俺も出る──後悔したくない」

 楓はガーゼの眼帯を外した……眩しい。琥珀色の左目に少しでも不思議な力が残っているのなら、秀乃のところに導いてくれるかもしれない。セイと巡り逢えたのも、きっと力を貸してくれたのだと楓は思っている。
 眼帯を手渡すと、真希は泣きながら頷いた。子どもたちは楓を見て驚く。

「お兄さんの瞳の色、すごい……どうして……?」

 使用人の女性は楓の存在を聞いて知っているのか、合点がいったらしい。

「もしかして……貴方は……!」

 楓は踵を返し、駆けだした。
 子どもたちの声が小さくなっていく。

「……わぁあ……トラックのうしろ……初めてのったぁ……!」

 多くの人々が避難していた道ではなく、朽ちかけた石塔や地蔵を目印に、竹林の小径を横切る。
 眞尋に教えてもらった抜け道だ。しょっちゅう脱走していた眞尋は、笑える話だが、この山の獣道まで熟知しているのだ。まさか、こんなときに役立つなんて思わなかった。
 ……こんな役立ちかたをして欲しくなかった。
 鮮やかに脳裏に浮かぶ、女物の襦袢をひるがえして走る、少年時代の眞尋の姿……。

『そんでよぉ、こっちだ! すげぇだろ俺様ぁ! 忍者みてぇじゃねぇ?!』

 思い出の切なさに胸がしめつけられる。
 思い出の眞尋は、竹林の終わりで立ち止まり、手招きする。

『ほら……楓、来いよ……ここから四季彩に出れんだ!!』

 間近で見る火の粉に抱かれた和風建築の連棟に、呆然とした。

「……遊郭が…………」

 本来なら重要建築物に指定されているはずの、荘厳な意匠は、今まさに燃え朽ちていくところだ。
 このまま眺めているわけにもいかない、何の為に来たのか分からない。楓は竹藪を掻きわけて、遊郭の建物に踏みこんでいく。
 何年ぶりだろう、此処を訪れたのは……それでもすぐに分かる、造りを覚えている、母屋に向かって走りだす。

「秀乃!!」

 燃える匂いだけでなく、身体に熱を感じながら、楓はこれ以上ないほどの大声で叫んだ。

「何処だ、秀乃!!! 返事をしてくれ!!」

 返事など聞こえない。

「秀乃!!!」

 靴を脱いでいる余裕なんてないから、スニーカーで縁側を走る。
 気づけばかたわらに広がっているのは、中庭──
 10年前、宴の夜、美砂子と語りあった中庭だ。
 あの夜の楓は南の空を指さす。

『スピカだ』

 あの頃はまだ生きていた遊郭の黒猫、伽羅の毛並みを撫でながら、美砂子も顔を上げた。

『なあに、それ……?』
『星。肉眼でも見えるんだ』

 説明すると、美砂子は眉間に皴を寄せて真剣な表情で空を睨むから、楓は笑ってしまった。

『はははっ。なんだ、その顔』
『え〜っ、分かんないよ、どれ?』
『あの明るい星。アークトゥルスも見える。獅子座のデネボラと合わせて、春の大三角形っていうんだ。6月だからもう、春の星座はだいぶ西に傾いてきてるけど……』

 美砂子はやっと、スピカを見つけた。
『いちばん明るい星だね』と言って指をさして嬉しそうにする。

 あぁ、ここから恋が始まった……

 風に舞う火の粉の中で、楓は表情を歪める。辺りを見回すほどに悲しくなる。それでも走っていく、秀乃の名を呼びながら。
 先程の女性が言っていたように、誰の姿もなかったから、それには安心もする。
 確かにもう、留まっているのは秀乃だけなのかもしれない。
 渡り廊下をふたつ渡ったところで、楓は足を止めた。
 此処から望める母家は踏みこむのを躊躇うほどの炎に包まれていた。呼吸を乱し、額の汗を拭うと、煤で汚れる。
 これ以上進むのはもう無理だ……とても近づけそうにない。
 まさか、もう秀乃は生きてはいないのでは?
 最悪の予感に震えたとき、背後で、板張りの床を踏む足音がした。
 楓は振り返る。
 歩いてくる人影は、楓よりずっと背が高い。程よく引き締まって男の色気を滲ませる身体。炎に照らされてオレンジ色に染まった黒髪。手には吸いかけの煙草がある。とても火事の真っ只中にいるようには感じられない、気だるそうな姿だった。
 揺れる薄い唇。

「何だお前は……?」

 印象的に耳に残る、淡く低い声だ。楓を見る切れ長の瞳は、すべての物事を端から諦めているような、例えるならまるで地獄を見てきたことでもあるかのような目だった。
 楓は仕事を通してたくさんの人と接してきたが、こんなに昏い目をした人間を見たのは初めてで、驚いてしまう。相手は楓の存在など気にすることもなく足早に通り過ぎようとしていく。

「死にたくねぇなら、さっさと逃げろ」

 すれ違う瞬間、男は少しだけ目を見開き、立ち止まる。

「……その眼……?」

 間近で重なる彼と楓の視線。

「まさか……お前、あのガキの──清志郎の父親か」
「どうしてそれを……」

 不意打ちで言い当てられ、楓はたじろぐ。男は煙草を吸い、煙を吐きだしてから告げた。

「そんなもの、調べればすぐに分かる、此処にはしょっちゅう出入りしてんだ」

 楓の思考はパズルのピースを当てはめていき、答えを導きだす。
 体躯、纏う闇、煙草、薄い唇。セイを知っている。この炎の中、母家に向かっている。
 遊郭の跡継ぎである秀乃に、高2の時に献上された……相沢健次。

「まだガキは生きてんのか」

 彼の言葉は、楓の予想が当たっていることを裏付ける。
 健次だと分かったとたんに、楓に渦巻く複雑な感情。裏で糸を引いていたのは長老会だとは分かっていても、睨んでしまった。

「当たり前だ」

 そんな楓に、健次は納得したように頷く。

「俺と血が繋がってるだけあって、なかなか……骨のあるヤロウだ。少しのことじゃ死なねぇな」
「セイの……俺の息子の、初めての相手が貴方だったのは、不幸中の幸いだったかもしれない」

 半ば自分に言い聞かせながら話す楓だった。そうでも思わないとやりきれない。

「何処の誰と知れない男にレイプされるよりはいい」
「ふ……随分と前向きだな」

 指先で吸殻をはじくと、健次は燃える母家を眺めながら、ぽつりと呟く。

「妹を頼んだ」

 そういえば……楓は健次を凝視してしまう。セイに対して血が繋がっているとはっきり言った。

「ミサを──美砂子の存在を知ってたのか?」
「女は隠してるが、そんなもん、相当昔に気づいてるに決まってんだろう」

 健次の視線の先で、木造の母家は焚き木のように音を立てて崩れはじめる。

「いよいよ危ねぇな」

 何でもないことのように、興味すらなさそうに言って、健次は踵を返す。

「じゃあな」
「じゃあなって……」

 唖然としながら、楓は思わず追いかけた。腕を掴む。
 面倒臭そうに立ち止まられ、ちらと見られる。

「……独りで逝かせるわけにいかねぇだろ」
「……正気なのか……!?」

 楓は自分の耳を疑う。一体何を言っているのか、理解に苦しむ。表情を歪めて健次に訴える。

「秀乃と死ぬ気なのか……!! 駄目だ、そんな……そんなこと……!!!」
「死のうが構やしねぇんだよ」

 健次は楓の手を振り払った。

「どんな理由があったとしても親を殺した……因果応報だ」

 炎に照らされながら聞く健次の声は、こんなにも緊迫した事態なのに心地良かった。

「ただ還るだけだ、焔の中に」

 楓は祈るような気持ちで、何度も首を横に振る。せめて健次だけでも説得して連れ帰るべきなのだろうが、従ってくれるはずない。
 覚悟の質が違う。
 連れて逃げるために此処まで来た楓と、秀乃のそばに行くつもりで来た健次は、似て非なる者だ。
 健次は財布を取りだし、その中からお守りを抜きとった。

「美砂子に渡せ」

 平然と差しだされる。

「相沢家に縁のある寺だ。親父もそこにいる。墓参りするんなら、俺の女に見つからねぇようにするんだな……それから」

 楓はやめてくれ、引き返す理由を作らないでくれと思う。聞きたくない。まるで遺言だ。

「姉貴に会ってみろと伝えておけ。案外、気が合うんじゃねぇのか」

 健次はお守りを差しだしたままでいるから、楓には受け取るという選択肢しかない。
 泣きたい気持ちになりながら、震える両手でそれを貰って、結局……頷いた。

「……は、い……伝えます……」

 ゆっくりと離れていく健次の指先。楓は精一杯深く頭を下げる。

「美砂子は、俺が一生守ります、清志郎のことも」
「──……早く行け。ここも燃える」

 思いがけず優しげな声を聞いた。
 顔を上げれば、健次は微笑っている、火の粉の舞う情景で。
 柔らかな表情をされるとセイの言っていた通り、確かにほんの少しだけ美砂子の面影が漂う。
 健次は背を向け、焔に呑まれつつある母家へと消えていった。