1 0 月 1 1 日 1 6 : 3 0

 母家の離れ、板張りの床に寝転がって、最期の瞬間を待っている。
 ひさしぶりに袖を通した和服は着心地が良くて、やはり身に沁みついているなと感じた秀乃だった。昔ながらの日本情緒を大切にする生活が。時代錯誤な遊郭の暮らしは、思い返せば、決して悪い面ばかりではない。
 けれどもう……終わらせると決めた。
 こんなところは無いほうがいいと。反吐が出る。当主を継いで日々を過ごすほど、その想いは強まるばかりだ。
 娼妓たちは幼い頃から淫らに股を開き、醜く歪んだ欲望を受けとめさせられて育つ。毎晩の宴に溢れる札束、下品な笑い声、酒に酔った歌声、狂った性愛。
 そんな場所を道連れに眠りたい……。
 ぼんやりと天井を眺めていると、響いてくる土足の足音。
 何かと思い、秀乃は視線だけを動かした。

「よぉ根暗」

 覗きこんできた顔にこれ以上ないほど驚き、秀乃の息は止まりそうになる。飛び起きた弾みで眼鏡が落ち、裸眼で健次を見つめた。

「な、な、け……健次っ……何でいるんだよ……死んじゃうじゃないか……!!」
「お前もな」

 健次は秀乃の隣に座って、あぐらをかく。
 最愛の男が現れたことを信じられないまま、秀乃は力なく首を横に振った。

「……俺は……いいんだ」

 自虐の笑みもこぼれてしまう。

「この腐った遊郭を終わらせて、責任を取って俺も死ぬんだからさ……」
「大層なことだな」

 皮肉げに言い捨てる健次に擦り寄って、その肩を掴む秀乃だった。

「遊郭と一緒に死ぬのは俺だけでいいんだ、健次はここに居ちゃいけない、早く出ていってよ……!」
「もう間に合わねぇだろ」

 健次は赤LARKのパッケージを取りだすが、1本も入っておらず、空だったので投げ捨てる。

「目の色が左右で違うヤツ……あいつもてめぇを探してたぞ。帰したけどな」
「……?」
「ここの男娼だった……美砂子の男だ」
「楓のことか……?」

 どうして楓がいるのか、不思議に感じた。那智に聞いた話では、実の息子を追って海上娼館とやらに居るはずだ。芙蓉館に荷物でも取りに帰ってきたのか。
 秀乃は力なくうなだれる。

「楓に合わせる顔なんて無いよ……俺は楓にも酷いことを言ったし、したし、芙蓉館なんかに放り込んでさ……あぁ、それだけじゃない……」

 秀乃の預かり知らないところで、遠戚の老人たちは楓の息子を売り飛ばした。事の顛末を鑑賞して愉しむために……。
 健次は事もなげに言ってのけた。

「あいつはてめぇの落ち度なんか、気にしてねぇんだろ」
「俺が気にしてる。いつだって残酷な当主ヅラして……ていうか……」

 こんな話をしている場合ではないと、秀乃は健次の両肩を揺らす。

「なにやってるんだよ……! 逃げろって言ってるだろ、健次!!」

 健次は鬱陶しそうな顔をして、秀乃の手を外す。

「今さら楽に死のうとは思わねぇ」
「え……?」
「10年前、親父を殺した……親父の連れも何人か殺した」
「それは、健次が悪いわけじゃないよ」

 行き場のなくなった手を床につき、秀乃は健次の目をじっと見た。

「あんなに酷いことをしていたんだ、殺されても当然だよ……」
「それでも殺しは殺しだろ」
「……健次は悪くない……」

 秀乃は拗ねるように呟いて、膝を抱えこむ。
 こうしている間にも体感温度はどんどん暑くなっていく。風向きのせいか、離れはまだ焔に呑まれていないが、時間の問題だろう。
 壁にもたれた健次は、遠くを見つめて呟く。

「親父を殺してから……幸せな10年だった……それまでの17年は地獄だった」

 人生を思い返すように告げてから、ゆっくりと秀乃を向く。

「秀乃……お前は、努力と我慢を履き違えてんだ」

 何を言われているのかよく分からず、秀乃も健次を見た。

「我慢すれば幸せになれる? 笑わせるな……」

 健次は苦笑する。

「我慢の後に何が待っていると思う。ただ人生の時間を無駄にした絶望と、疲れ切った精神と肉体だけだ。俺はガキの頃の地獄を、無駄な時間としか思わねぇ」
「健次には……思いきった行動するのが怖い人間の気持ち、分からないだろ……?」

 秀乃は目をそらして、心の中の澱みを吐きだす。

「常識に沿って、前例に沿って、言いつけを守って従って……そうやって生きれば安心できるんだ。普通の社会に生きている人たちにもそういう人は多いはずさ……」

 眺めるのは、板張りの床に映る自分の陰。

「常識や言いつけを守って生きるために、心が悲鳴を上げたとする。それでも、必死に現状を生きる『理由を作る』んだ……家族のためにだとか、世間体のためにだとか、安定のために、将来のためにだとか……自分に言い聞かせて……」

 本当は遊郭なんて飛びだしたかった。継いだのを何度も後悔した。
 その一方で、立派に成し遂げたい気持ちもあった。祖父のように立派な当主になりたかった。
 なれなかった自分は、やはり向いていなかった。

「新しい行動をする力も無ければ、反抗する勇気も、逃げる勇気も無いんだ……!!」

 気づけば声を荒げて、顔を上げ、健次を見つめていた。
 健次は秀乃の視線を受けとめ、事もなげに言ってのける。

「そんな生き方をするためには心なんて無いほうが楽だな」
「……本当にそうだよ……」
「お前が心を放棄しようが、我慢の人生送ってようが、知ったこっちゃねぇ。選んだ人生だ」

 健次らしい言い草だ。
 あぁ、俺はこういう健次が好きなんだと、改めて思う秀乃がいる。

「その末に全て嫌になって自殺だ──それだけの話だ」

 遠くの方で、燃え落ちた建物が、派手に崩れる音がした。

「お前につき合うと決めたのも俺の勝手だ」
「健次……」

 どうして健次が、そんな決断をしたのか、秀乃には理解できない。
 死んでしまうのに嬉しくもなる。一緒に死ねるなんて、結ばれない相手との結末としては最高かもしれない。土壇場で春江から健次を勝ち取れたような優越感さえ覚える。
 それなのに……健次を自分のものに出来るのに……秀乃は表情を歪ませてしまう。
 火を放ったことでさえ、勇気を振り絞った行動ではなく、ただの逃げだったのかもしれない。
 行動、決断、迷うことさえも放棄した末の、多くの人を巻きこんだ愚行。癇癪を起こした子どもが、積み木の城を壊してしまうかのような……。

「……や……っぱり……本当は死にたくない……」

 秀乃の唇からは本音がこぼれた。

「ここまでやっておいて、何言ってるんだって自分でも思うけど、死にたくない……」

 滲む涙を拭う。この涙さえも、狂った慣習で媚薬に変えられてしまった。それでも秀乃は四季彩を憎みきれずにいる。たとえ此処が腐った場所だとしても……遊郭を灰に返すなんて正しかったのか……不安定な秀乃の心はまた迷いだし、後悔の念すら溢れだす。

「俺……自分がこんなことをするために生まれただなんて、こんな最期を迎えるために生まれたなんて……やっぱり、嫌だよ……!!」

 両手で顔を覆う秀乃を、健次は鼻で笑った。

「馬鹿だな……」

 それでも、厭味はなかった。むしろ柔らかな声だ。

「本当に馬鹿だな、お前は」

 健次は身を起こして、秀乃に手を伸ばす。

「立て」
「えっ……」

 戸惑う秀乃は、潤んだ瞳で健次を見上げた。

「もう逃げられないって、健次が言ったんだよ……?」
「死んでもお前だけは逃がしてやる」

 健次の手を取ると、力強く引き上げられる。

「死んでもお前を選べねぇ代わりに、死んでも──命を懸けて逃がしてやる、それで勘弁しやがれ」
「……えらべない……って……」

 解かれる指先。歩きだす健次の背中を追いながら、秀乃は自虐的に笑う。

「はっきり言わないでよ……知ってるけどさ……!!」

 離れの外に出ると一面の焔で、熱い……燃える遊郭の景色は、夕暮れの空色と相俟ってとても綺麗だった。
 かろうじて歩けそうな隙間を縫うように進む。
 秀乃は眉間に皺を寄せつつ、後ろ姿に尋ねた。

「そんなにも春江さんを愛してるの……?」
「べた惚れだ」

 健次はきっぱりと言い放つ。

「死んでも俺は春江を選ぶ、あの女以外、考えられねぇ」
「…………」

 秀乃の記憶が正しければ、健次の口からそこまではっきりと想いを聞かされたのは初めてだ。

「健次からそんな言葉、聞きたくないよ!」
「てめぇが聞いたんだろ」
「俺だって、俺だって……健次を愛してる……!」

 痛切な感情を、胸に手を当てて訴えた。

「あ……愛してるんだ……こんなに……愛してるのに……!!!」

 かたわらの屋根が崩れて、轟音を立てて倒れ落ちてくる。建物を支えていた柱が、焦げ朽ちたのかもしれない。秀乃は思わず悲鳴を上げたが、痛いほどの力で抱き寄せられる。
 健次のお陰でぎりぎり避けれたらしい……背後に崩れる音を聞く。

「イロイロ……言葉足らずで悪かったな……」

 ばつが悪そうに呟き、健次は腕を解いた。

「てめぇは1から10まで言ってやらねぇと、分からねぇし、記念日やら、プレゼントがどうやら、こだわりやがるし、腐った女か……」

 オレンジ色に照らされながら、健次は再び歩きだす。

「どうにも苦手だ……春江とは何も言わねぇでも通じるから、余計に……」

 もちろん、秀乃もついて行こうとしたが、踏み出した途端に軋む右足。秀乃がその場に崩れると、怪訝な目で健次は振り返る。

「どうした」
「……捻ったみたいだ……はは、情けないな、健次と違って運動不足だから……」

 空の笑いを浮かべると、健次はため息をこぼし、秀乃に背を向けてしゃがんだ。面倒臭そうに秀乃の手首を掴んで、自分の肩に置く。
 秀乃は状況が理解できないまま、軽々と背負われてしまう。秀乃の瞳からはまた溢れていく涙。
 自虐ではなく心の底から伝える。

「健次……もういいよ……俺のことは放っておいてくれ……」
「逃がしてやるっつったろうが」
「いいよ……健次だけでも逃げてほしい、頼むよ」

 健次は首を縦に振らない。
 秀乃を背負って、炎の隙間を越えていく。
 あまり燃え方の酷くないところでも、舞い上がる煙は容赦なかった。母屋を抜けたあたりで、健次はもう少しだけ想いを漏らしてくれる。

「分かれ……それでも……俺は……恋愛……情は、無ぇ……けど秀……のことは、大切には代わり……な……」

 途切れ途切れに聞こえるのは、健次の呼吸が乱れてきたせいか、自分の意識が霞んできたのか、燃える音がうるさいのか、秀乃にはもう分からない。

「お前だけが、やり方はどうで……あれ、俺をあの家から……本気で逃がそうとしてくれたな…………嬉しかった……」

 健次は「嬉しかったんだ」と、噛みしめるように呟く。
 秀乃の涙は止まらない。拭うこともできずに、健次の首元を濡らしていく。
 構わずに進んでいく健次は、鼻で笑った。

「なんだ……静かだな……、死んだか……?」

 ぶっきらぼうな口の悪さに今までどれだけ救われてきたのだろう。 
 ずっと聞いていたい声だった。

「てめぇが……死……だ、ら、意味、ねぇ……だろ……」

 煙に巻かれて不明瞭になっていく意識の中で、健次の声だけを聞く。

「あぁ……熱……い……な……」

 また崩れ落ちる音がする。ごく近くだ。爆発音のような轟音も響く。

「親父もこう……って……死んだ……のか……、……俺の地獄……比べ……ば……ぬるい……もっと……苦しめ……やれば……よかっ……」

 健次もその場に崩れ落ちた。秀乃の身体はすべるように地面に倒れ、煤に塗れる。
 腕を伸ばして、へたり込んだ健次の頬に触れた。

「け……んじ、健……次……ごめ……ん……」
「いままで……ずっと……わるかっ……」
「どうして健……次が……あやま……るの……」

 幸せになって欲しいと願ったはずなのに、何を間違えてしまったのだろう。もしも、ここから抜けだすことが出来たなら今度こそ、一歩引いて見守りたい。
 見返りなどは望まずに、ただ愛そう。
 春江のように。

「今日も綺麗だ……健次……、あ……いしてる」

 焔の中で唇を奪う。健次は舌先を絡めてくれた。
 痺れていく秀乃の意識は遠のき──ゆっくりと闇に覆われる。