霧中

 新旧の建物が軋むように重なった街並みは、違法建築という言葉など知らないように見える、上海の下町。
 狭い路地、淀んだ空を埋めるのは混線した電線と、所狭しと干された洗濯物。近年は大気汚染に悩まされる上海だが、今日の空気は比較的澄んでいるらしい。絶好の洗濯日和なのだろう。
 雑多な洗濯物の交差する空の向こうに、発展し続ける都心の超高層ビルのそびえる光景は少し不釣り合いだ。しかし、近代的な風景と生活感、それらが混ざりあったさまもこの街の魅力だ。
 徒歩の楓は細路地を抜けて、車の走る大通りに出た。目の前には1階に多数の商店がテナントとして並んだ、横幅の広い、どっしりとした低層ビルがある。
 上海にはかつてイギリスやフランスなど欧米諸国の居留地──租界(そかい)と呼ばれる区域があった。租界の名残は多く残されているが、このビルも当時建てられたのかもしれない。瀟洒なレンガ造りの建物だ。
 1階の食堂の匂いに、そういえば空腹だったとを思いだす。軒先に立つ店員は声をかけてくれる。しかし、楓はそちらに目をやることなくエレベーターに乗った。
 最上階に、オークションでセイを落札した人身売買組織の事務所がある……表向きには貿易会社を名乗っているようだ。
 何気ない街角の、人々が気に留めない風景の中に犯罪の根城が息をひそめているのは、日本でも、どの国のどの街でもきっと変わらないのだろう。


    ◆ ◆ ◆


 美砂子も楓もパスポートを持っていなかったが、半日と経たずに発行できた。那智が四季彩の顧客を頼り、根回してくれたからだ。
 パスポートの早期発行は、海外で家族が倒れたり、ビジネスに大きな損害が出たときなど、特別な緊急時に限って出来るそうだが──今回も適応されるとは思わなかった。
 おかげで、始発で美砂子と合流した夕方には上海に到着する。
 緊迫した状況でなければ、生まれて初めての空港にも、飛行機にも、感激できたに違いない。
 けれど……今の楓の目にはどの景色も灰色に映り、楽しそうな人々の声もざわざわと耳をかすめていくだけだった。
 笑顔の家族連れを見ると心が締めつけられ、いてもたってもいられないような気持ちにもなる……美砂子も同じらしく、セイと変わらない年頃の男の子を見るとうつむき、目頭を押さえた。そんな美砂子を目の当たりにし、楓の心はさらに痛む。
 何のために、セイを産むという美砂子の決断を支えたのだろう。
 家族になったのだろう。
 セイを不幸な目に遭わせるためでも、美砂子を悲しませるためでもなかったのに。辿りついた現実はこれだ。
 荷が重いのは覚悟していたはずで、自分なりには色々と頑張ってきたつもりでいたけれど、セイが売り飛ばされる悲劇を想像していなかったのは、甘かったのか。
 ただ若かっただけでなく、追われて囚われる身でありながら美砂子とセイと生きていくなんて到底無理な話だったのか……。
 芙蓉館に入れられてから、仕事の質にこだわることも自分の心身が病んでも気にせずに、ひたすらに早く違約金を払うのを目的にしていれば、もっと早く男娼を辞めることができて、こんなことにならなかったのかもしれない? 美砂子とセイを守れたのかもしれない……?
 一体、どんな風に生きるのが、正解だったのだろう……。
 楓の頭の中には、ぐるぐると様々な考えが渦巻いては消え、また渦巻いては消えを繰りかえす。
 パスポートを発行する待ち時間でも、機内でも、ホテルに向かうタクシーの車内でも、深刻に思考を巡らせてしまう。


   ◆ ◆ ◆


 チェックインしたのは、繁華街から離れた、蘇州河近くのホテル。
 高級ホテルや、租界時代の洋館で営業するクラシックホテルではなく、こじんまりとしたごく普通のビジネスホテル。観光で来たわけではないので贅沢をする必要はない。とりあえず眠れて荷物を置ければどんな場所でも良かったけれど、窓のある部屋にした。閉塞的な空間だとよけいに気が滅入りそうだったからだ。
 入室すると、美砂子はスーツケースを手放し、部屋の面積のほとんどを占めるダブルベッドに腰を下ろす。そして……何も喋らない。
 絨毯をぼんやりと眺めたまま、美砂子の瞳は潤んでいく。
 再会してから何度も見た光景だった。
 ふとしたときに泣いてしまうから、美砂子はアイメイクをしていない。素顔でも睫毛の長い大きな瞳は、ぽろぽろと頬に雫を落とす。
 楓も黙ったまま、荷物を置き、美砂子の隣に座った。
 美砂子だって突然に誘拐監禁された被害者だ──閉じこめられて、不安でたまらなかっただろう。解放された途端にセイの失踪を知って、その心は張り裂けそうだっただろう。
 どんな言葉よりも抱きしめるほうが、美砂子を安心させてあげられそうな気がするから、何度でも抱きしめる。
 楓の腕の中で美砂子は震えて、髪を撫でてやれば嗚咽を漏らして、楓にしがみついてくる。
 ……どれくらい抱きあっていただろうか。美砂子から抱擁を解いたとき、楓の唇からは自然に零れる決意があった。

「ミサ……俺ひとりで行ってくる」

 セイを落札した相手については、克己から詳細に聞いてきていた。
 居場所も分かる。これから直に会いに行く予定でいる。
 顔を上げた美砂子の言葉は、楓の想像通りだった。

「……ミサも……わたしも一緒に行く!」
「駄目だ……もうミサを危険な目に遭わせたくない」

 楓は首を横に振る。美砂子は再び、楓の腕を掴む。

「でも……わたしだってセイを助けたいよ……わたしの子どもなのに……」
「もし……俺に何かあったら、俺が戻ってこなかったら──誰がセイを助けるんだ」

 最悪の事態も想定した楓の言葉に、美砂子はびくっと震えて動作を止める。こんなときに脅すような言葉は言いたくなくて、悲しかったが、有り得ないことではない。
 楓は美砂子の両肩を抱いた。

「何が起こるか分からない、ミサは此処で待っていてくれ」
「……楓くんまで……いなくなったら……どうすればいいの……?」

 また潤んでいく美砂子の瞳を見つめていると、楓は本当に辛くなっていく。かろうじて慰めを口にした。

「……克己や那智を頼ってくれていいから……」
「そっか、秀乃くんはもう、頼りにならないんだったね」

 美砂子は力なく笑った。

「楓くんが殺されるなら一緒に死んでしまいたいし、ひどい目に遭うのなら一緒に遭いたいよ。でも……ミサはセイのおかあさんでもあるから、そんなことは言っていられないんだよね……」
「………………」

 ふたりで逃避行し、セイを育てた日々で、美砂子は強くなった。
 楓は、美砂子に強くなって欲しかったわけではなくて、正直なところ──強くならなくてもいい日々を送らせてあげたかった。

(俺がミサを守りたかった。だけどそんなのは理想でしかなくて……)

 唇を噛んでうつむいてから、顔を上げ、美砂子を見つめる。

「俺ひとりで行く、セイのことで何か分かったら、すぐに連絡する」

 美砂子はとても心配そうな顔をした。

「危なかったら、すぐに帰ってきてね」
「あぁ、分かってる」

 微笑を作って頷き、ミルクティーのペットボトルを取る。駅の売店で買ったものだ。キャップを開けて美砂子に差しだした。

「飲むか?」
「うん……」

 白くて細い手が受け取る。美砂子は一口だけ味わって、すぐに楓に返してしまった。楓も飲んでみたが、味はほとんど感じられない……明け方からずっとそうで、何を口にしても同じだ。
 肩を落とす美砂子に軽くキスをする。再び抱きしめる。
 溢れる愛おしさと切なさ……。
 セイのことも抱きしめたくなった。小学5年生になって、そんなスキンシップはそろそろ嫌がる年頃かもしれないけれど、再会したらぎゅっと強く体温と存在を確認したい。
 美砂子も同じようなことを考えているのは、言葉を交わさずとも楓には伝わってきた。


   ◆ ◆ ◆


 旧式のエレベーターで最上階まで上がる。低層ビルなので、最上階といっても5階だ。エレベーターには窓がなかったから、窓のある廊下に出ると夕日が眩しく、楓は目を細める。
 幾つかある部屋のうち、克己に教えられた『504』の扉の前でインターフォンを鳴らした。
 ほどなくして開く扉……開けたのは若い女で、事務員の制服を着て、とても人身売買に関わる組織のスタッフには見えない。
 女は上海語で何かを話す。相手は日本語が分かると聞いてきたから、楓は戸惑いながら、セイのことで話したいと日本語で伝えた。
 もし通じなかったら……筆談でも少しなら通じると、中国生活が長かった暮林に聞いたことがある。
 幸い、女はすんなりと奥に通してくれた。室内ではスーツ姿の男たちが電話を取り次いでいたり、パソコンに向かっていたりと、様子はごく普通のオフィスで、拍子抜けしてしまう楓だった。
 案内された先は応接室。言葉は通じないながら女は笑顔を浮かべ、氷の揺れるアイスティーを持ってきてくれる。
 ほどなくして、ワイシャツにスラックス姿と、やはり普通のサラリーマンにしか見えない男が入室してきた。
 向かいあわせに座った彼に名刺を渡される。印字されている名前は『宇睿(ユー・ルイ)』……中国名は、日本と同じく名字が先で名前が後なので、宇が名字で、睿が名前なのだろうと楓は見当をつける。
 楓も名乗り、セイの父親である旨も告げた。
 それを聞いてルイは苦笑する。とても流暢な日本語を発しながら、肩を落とす。

「ごめんね。迅速に仕事を済ませるのも考えものだ」
「どういうことですか?」
「さっき出勤してきたんだよ。明け方に引き渡した後、寝ていて」
「引き渡した……セイを……?!」

 楓の胸は鷲掴まれたかのように痛んだ。ざわつく鼓動。
 頭の中は真っ白になり、それなのに、逆に冷静になっていく自分もいる。あまりにショックが大きいと、人間はそうなれるのかもしれない。それとも、夜中から衝撃的な出来事が続いて麻痺してきたのか。

「誰に……渡したんですか……」
「いいよ、敬語なんて使わないで」

 そう言われても、急には口調を崩せないまま、楓は身を乗りだす。

「誰に、何処の誰に売ったんですか?」
「左目を見せて」
「えっ?」

 心なしか、ルイの表情は疑わしげなものになる。

「そもそも……貴方は本当にイチジョウの言っていた男娼本人なのかな?」
「イチジョウ……?」
「イチジョウ マサヨシ……シキサイの関係者で、美女みたいに綺麗な男だ」

(……あぁ、克己の本名か……)

 身元確認に厳しいのは、仕事柄だろうか。
 ルイは真剣な面持ちで告げる。

「左目が、ヒナセ カエデという人間の何よりの証明になると聞いた、見せてくれるよね」
「分かった」

 楓は眼帯を外した。途端に光が眩しくてまばたきをする。
 茜が成仏したあの夜から、左目の霊感は失われつつあった。心なしか、虹彩の輝きも鈍くなったように感じられる。
 それでも未だに琥珀色には変わりなく、ルイはじっと見つめてきて、興奮気味に声を上擦らせた。

「……これは、これは……凄い……! 本当に宝石みたいな瞳をしているんだな、生まれつきか?」
「7才のときに──当然変異だ」

 手短に教えた。片目の色が変わった経緯を詳しく話すと長くなる。
 正直に話したところで信じてもらえないことも多いので、こんな説明でいい。
 ルイはとても興味深そうな様子だ。

「突然に? 左目だけ色が変わった? そんなことがあるんだね?」

 まだ眺めていたげな男の視線を感じながら、楓は元通り眼帯を着け、右目だけの視野に戻る。
 セイについて酷く気になりつつも、楓は疑問に感じたことを尋ねてみた。

「克己を──……俺は雅葦じゃなくて、源氏名の克己って呼んでいるけど……知っているんだな」
「日本のヤクザと取引することもあってね。彼は幹部の息子だから、顔見知りなんだ」

 克己の父親は、週刊誌のゴシップ記事に載っていたり、暴力団関係のニュースに登場したりもする、広域指定暴力団のナンバー3。
 ルイは肩をすくめた。

「あの美男子は結局、父親のところに行くのか、エチゼンヤを継ぐのか、どちらなんだろうね?」
「男娼をしている間は長原克己だと思う」
「そうか、そうだね、でもそろそろ身の振り方を考える歳だよ。男娼は長く出来る仕事じゃない。昔は、日本でも中国でも重宝されるのは10代までで、20過ぎたら嘲笑の対象だったと言うし……」
「…………」
「あ……! 申しわけない!」

 楓と目が合うと、ルイは素で『しまった』という表情をした。

「貴方はとても若く見えるけど……息子さんがいるってことは……」
「24だ」

 長く続ける仕事ではないと楓も思っているから、反論しない。違約金さえなかったらとっくに引退しているはずだ。
 ルイは感心したように頷く。

「なるほど、20半ばには見えない」
「男娼は辞めてきたけどな……」

 楓は力なく微笑った。

「昨日まで男娼だった、いや、昨日じゃないか──今朝までは男娼だった」
「そうか……覚悟を持って息子さんを取り戻しに来たというわけだ」

 ルイは結論を口にした。

「……率直に言うよ、貴方の息子さんはもう何処にいるのか、分からない……」

 不可解さに、楓は表情を歪めてしまう。

「何処にいるかも分からないって……売った相手は分かるんだろう?」

 ルイの表情は真剣なものになる。決して、ふざけているわけではなさそうだった。

「息子さんを渡した相手は『旅団』なんだ。警戒心が強く、連絡先も分からない……俺たちのような裏組織も、仕事の際は、向こうから声をかけられるのを待っているしかない」
「旅団って?」
「……売春旅団さ……」

 ルイは声をひそめる。その挙動で、楓は、それが表の世界には明かせない存在だと分かった。

「アンダーグラウンドな性風俗は未だ跋扈しているとはいえ、年々摘発は厳しくなっている。そこで娼館や娼窟などを構えずに、旅をしながら売り歩く一派もいるってことだよ」

 まるで逃亡だ。逃亡しながら性を売るということなのか。
 とても確認したくないことを、楓は確認する。

「セイはそこに……?」

 ルイはとても複雑げな眼をして、楓をじっと見つめて頷いた。肯定の意味だ。

「……俺たちは……旅団に日本人の上物を寄越して欲しいと言われて、シキサイに連絡をした。薦められた少年が、貴方の息子だったというわけだ……そしてオークションで落札した」

 楓は、処刑台でギロチンを落とされたような気分になる。
 セイがそんな組織にいるという現実を突きつけられた悲しさ、見つけて取り戻すのは決して簡単ではないであろう厳しさ。
 この場に誰もいなかったのなら、泣きだしたい気分だった……。
 楓がうつむくと、しばらく場は沈黙になる。ルイも、どんな言葉を楓にかければいいのか、分からないらしい。
 楓は重くため息を吐いてから、ゆっくりと顔を上げる。 

「探すだけだ」

 自分を励ますように、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

「探して取り戻す……旅団と話をする」

 それしか、道はない。やるべきことはそれだけだ。
 楓の決意を聞き、ルイは頷いた。

「力になってあげたいが……彼らと会う直近の予定はない。今回も、ひさしぶりに声をかけられたんだ。俺にできるのは、近頃出没していたっていう街をリストにして、渡すことくらいかな」

 ルイは立ちあがり、応接室の扉を開け、デスクで仕事をしているメンバーたちに上海語で何かを言った。さっそくリストとやらを作るように命じてくれたのかもしれない。
 そしてルイは楓に振り返る。

「まだ遠くには行っていないだろうし、いまも上海に潜んでいるかもしれない。彼らは同業者に対しても警戒しているから、本当に居場所が掴めない、分からないけど……」
「ありがとう」

 楓は頭を下げる。

「……だけど、どうしてそんなふうに、良くしてくれるんだ……」

 自分に手を貸すことは、ルイにとって何の利もないばかりか、逆に不利益なことに思える楓だった。

「せっかく手に入ったのに返してくれって言いに来られたら……旅団はきっといい気はしない。今後取引してくれなくなるかもしれない」

 ルイは再びソファに腰を下ろした。

「自分から子どもを売りに来る親はまだしも、貴方みたいに取り戻そうとやって来る人は珍しいから、力になってあげたいよ」

 人身売買という闇に関わっていながら、ルイは悪人ではないのだろう、手を貸してくれる点からも。彼もまた様々な運命の巡りあわせで裏家業に関わっているに違いない。

「だけど、貴方みたいな人ばかりだったら、俺たちの仕事が無くなってしまうね……」

 そう言って、ルイは屈託のない笑みを浮かべた。