4 月 2 7 日 1 0 : 3 7

 鴨川沿いのハイグレードホテル。
 此処に来たのは初めてでなく、何度も訪れたことがある。泊まって抱かれたこともある。秀乃の常宿のひとつだからだ。
 静謐な神殿のようなロビーを抜けると広がるラウンジは、町家建築をアレンジした意匠で、どことなく和を感じさせる。ゆったりとスペースに余裕を持たせて配されたソファ席、活けられた季節の花、そんな空間で歓談したり、コーヒーを飲んでいるのは日本人の姿より、外国からの旅行者の方が多い。
 ……秀乃の姿もあった。何をするでもなく窓の外の川辺を眺めている。秀乃もコーヒーを注文していたが、ほとんど飲まれていないと、健次は近づいてみて分かった。
 ぼんやりとした虚ろな瞳が、健次を見る。

「あぁ、健次……」

 どうせすぐ、秀乃の泊まっている部屋に行くのは分かっているので、健次は座らない。予想通り秀乃は席を立ち歩きだす。コーヒーカップの隣に、書店カバーの掛けられた文庫本を置き忘れたままで。
 健次はその本を手に取る。秀乃を追って歩き、エレベーターの前で追いついて、秀乃に押しつける。眼鏡の奥の瞳は驚いたらしく、かすかに見開かれた。

「しまった、俺としたことが……ありがとう」
「おい……ボーッとしてんじゃねぇ」

 心外そうに秀乃は薄笑む。

「えっ? 嫌だなぁ、たまたま忘れただけだよ、俺はしっかりしてるじゃないか」

 何処がだ、と健次は顔をしかめた。
 到着したエレベーターにふたりで乗りこむ。秀乃はカーディガンのポケットからルームキーを出す。キーをかざしてからでないと、宿泊階のボタンは押せない。グレードの高さに見合う、セキュリティのしっかりしたホテルだ。
 5階にある秀乃の部屋に──京都は建築の高さが厳しく定められているから、この建物においては最上階となる──入室すると、窓から見える鴨川の景色はラウンジとそう変わらないが、当然1階よりも眺めは良い。
 秀乃は窓際のテーブルに文庫本とルームキーを置き、眼鏡も外す。

「やっと来てくれたんだね……電話してもずっと出てくれないから、心配だったんだよ……」

 まるで恋人であるかのような口ぶりだ。
 健次はうんざりしながらも、そのテーブルをはさんで2脚置かれているチェアの片方に腰を下ろした。ジーンズから煙草を取りだしかけて……そういえば此処は全室禁煙だったと思いだす。
 秀乃は自分の家で過ごしているかのように慣れた様子でコーヒーメーカーを操作し、健次に深煎りのブラックを淹れてくれた。秀乃はカフェオレを飲むらしい。
 それらを持ってきた秀乃は、健次と向かいあわせに座り、さっそく質問を投げかけてくる。

「ねぇ……いったい、何処に行ってたんだ?」

 健次はコーヒーを一口啜り、悪くない味だと思う。それから、秀乃の食い入るような視線を感じながら答えた。

「野暮用だ」

 途端に、秀乃の顔は険しくなる。

「何それ……仕事じゃなくって?」
「俺にも用事はある」
「どうせ女と旅行だろ……!」

 本当のことなので健次は答えない。秀乃はカップを手に、拗ねた視線を健次に向ける。

「お土産も無いのか? ねぇ、もっと俺を大事にしてくれても良いだろ?」

 土産なんて渡したらどうなることか。嫉妬に狂われるのは目に見えている。一方、春江は最近の秀乃を心配している。今日も『若旦那さまのお話を聞いてあげてください、そばにいてあげてください』と言って、送りだされた。
 健次はため息を零しながらも、一応聞き返してやる。

「用件は何だ?」
「……俺だって……俺だって……健次をこんなに愛してるのに……」
「用が無ぇんなら帰るぞ」
「どうして怒るんだよ……? ただもう少し、俺のことも大切にして欲しいだけなんだ……」
「怒ってねぇだろ」
「怒ってるよ、健次って、本当短気だよな……!」

 手持ちぶさたにライターを指先で弄りつつ、健次はますますうんざりしていく。昔から、嫉妬深くて粘着質な愛情を抱えている男だったが、ここまで酷くはなかった。
 近頃の秀乃を相手に、春江に言われた──そばにいてあげてください──を遂行するのは、健次には難しい。秀乃に対しては恩も情もあるが、苛立ちと不快さを我慢してまでつきあう義理はない。
 健次はライターをしまい、席を立った。
 途端に秀乃も立ちあがる。

「…………!! ちょ、ちょっと健次、待ってよ……っ……!」

 秀乃は腕をぶつけてカップを倒し、カフェオレを盛大に零し、大きな声を張り上げた。

「俺のそばにいてくれっ……!!! 健次……!!!」

 今にも泣きだしそうな顔でしがみつかれながら、健次は床に垂れていく液体を眺める。絨毯でなくフローリングで良かったなと他人事のように思う。

「零れたぞ……拭け」
「聞いてるの? 帰るなよ!! 来たばかりなのに……! 俺を振りまわして、楽しんでるのか?!」

 泣きついてきたかと思ったら、今度はヒステリーに声を荒げる。
 秀乃の精神状態は不安定すぎる。
 振りまわしているのはどちらなのか……健次は肩をすくめた。

「てめぇも、帰ったらどうなんだ。こんなところに閉じこもってる場合か」

 健次の身体に回されている腕の力が、少しゆるむ。

「お、俺の勝手だろ……」
「馬鹿か……勝手が通る立場か、お前はあの場所の責任者だろうが」

 健次は正論をぶつけ、絡む腕を振りほどき、振り向いた。秀乃はばつが悪そうに視線をそらす。

「てめぇが顔も出さねぇから、クソジジイどもが、好き勝手やってんだろう。半月前に受けた仕事もそうだ、てめぇは知りもしなかったそうだな……」

 艶やかな黒髪に、柔らかな白い肌、小動物のように潤んだ瞳を持つ、生まれつきに淫らだったあの少年……セイを誘拐しろと四季彩から依頼された頃すでに、秀乃は遊郭の仕事に身が入っていなかった。
 やっと顔を上げた秀乃は、どことなく不安げな目をする。

「半月前……? 何……?」
「はっ……」

 健次は苦笑した。やはり、秀乃は何も知らなさそうだ。
 形ばかりの跡継ぎと成り果てそうな男に、健次は宣告する。

「遊郭の当主が、お前だから関わってやってんだ。お前の関与しねぇ四季彩につきあう義理は無い」
「……いいよなぁ……健次は……」

 秀乃は羨ましげに見つめてくる。憧れを含んだ視線は、じっとりと湿っぽい。

「……そうやって簡単に行動できる、縁切れるんだからな……」
「お前も切れ」

 健次は言いきる。秀乃は予想していなかったことを聞いたという様子で、真顔になる。

「えっ? 健次……?」
「向いてねぇんだ。分かりきってたけどな……」

 残酷な仕事を仕切る気概も、各界の権力者を含む顧客とつきあう世渡りの巧みさも、静間には及ばない。それでも、秀乃は賢い男だから、当主の仕事を全う出来るだろうと健次は感じていた。
 しかし、健次が思っていたよりも秀乃の心はずっと繊細だったのかもしれない。
 秀乃は自嘲気味に笑った。

「健次の言うとおりさ……もう嫌なんだよ、無理やりに連れて来られた子たちを閉じこめて、泣き叫ばれても厳しく管理して……恐ろしい当主様を演じるのには疲れたよ……健次のことだけが好きなのに、健次しか欲しくないのに、遊郭の子とセックスしないといけない日もあるし、跡継ぎを作るために結婚しろってしつこく言われて……」

 秀乃の言い分は分かる。だからこそ健次は言い捨てる。

「辞めるなら辞めろ。続けるなら続けろ。ハッキリしねぇ奴は嫌いだ」
「嫌い……そんなこと言わないでくれよ……頼むよ、健次に捨てられたら……!!」

 その場に崩れ落ちた秀乃は、うつむき、ついに嗚咽を漏らしだす。
 健次は眉根を寄せる。会話もまともに成り立たない。
 出直すか、いっそ強制的に遊郭からさらに引き離すか、どうしたものだろうか……遊郭から引き離す、の選択肢を選べば、克己はきっと健次を笑うだろう。本当にお優しいですね、などと言って。
 思考を巡らせる健次の前で、秀乃は呟いた。

「……抱いてくれ……」

 何を言われたのか、一瞬、分からない。
 理解すると、呆れさえ覚える。突然何を言いだすのだろう。秀乃は健次を組み伏せて犯すことはあっても、犯してくれと請うことは高校生の頃から一度としてなかった。

「……てめぇ……本当に狂ったのか?」
「抱けるだろ? 俺を受け入れてくれてるなら……」

 秀乃は顔を上げて薄く笑う。涙で瞳を潤ませながら。

「嫌いじゃないなら、逆も出来るだろ……? あの女を抱くみたいに俺のことも抱けよ……──」
「勘弁してくれ……」

 健次は両手で顔を覆い、うつむき、ため息をこぼす。
 同性に性欲なんて湧かない。抱かれることが出来るのは慣れているのと、身を委ねていれば良いからだ。
 特に秀乃には──数えきれないほど犯されてきて、組み伏せられてきて、いまさら抱く側になんて回れない。イメージできない。自分に犯される秀乃の姿を想像するだけで気持ち悪く、吐き気さえ込みあげてきそうだった。
 秀乃は床に座ったまま声を荒げる。

「何だよ……それ……犯すのは無理なんだ……そうだよな、メスだもんな、オンナだもんな、健次は!! 毎晩毎晩レイプされて育ったなんて生まれつきに男を誘惑してるんだよ!! 俺も誘惑されたのか!!? あぁ、遊郭の女郎も驚くくらいの売女だな!!!」

 罵倒されるほどに秀乃に対して哀れみを感じていく。
 健次もその場に腰を下ろし、秀乃の両肩を掴む。

「頭を冷やせ」
「めちゃくちゃに虐待されて、ド変態に調教されて、よく生きてるよ!! 普通なら自殺してるんじゃないのか!? あんな地獄で生きてた癖に!!!」
「落ち着け……」
「なんなんだよ……どうして、そんなに、強くいられるんだよ……!! 俺には届かない……出来ない……叶わない……!! どうして……っ……!!!」

 秀乃の頬には雫が伝い、子どものように泣きじゃくる。

「……殴れよ……酷いこと言ってるだろ、殴れってば……!!」
「オンナ……確かにな……あれだけヤられりゃそうなるだろ」
「……け、健次……」

 健次を見る秀乃の瞳は、怯えたように歪む。怯えるくらいなら初めから言わなければいいのにと、健次は苦笑してしまう。

「けど俺は──何をされようが、メスに堕とされようが、心までは明け渡してねぇ。俺の心は俺のものだ」
「健次、格好良い、やっぱり……!」

 秀乃は罵声を浴びせたのが嘘のように、甘えるように健次の首元に頬を寄せてくる。

「健次は俺のあこがれなんだよ……本当だよ……大好きなんだ……!」

 感情の起伏がおかしな秀乃の肩を掴んだまま、健次は諭した。

「いいか、辞めるならちゃんと辞めろ」
「……う、ん……」
「ちゃんとジジイどもに話せ。ズルズル逃げるな。区切りをつけろ」
「うん……健次……区切り……」
「分かってんのか?」
「…………」

 秀乃の体温を感じながら、健次は、ふいに悟りのように思った。
 ──俺は間違っていたのかもしれない──
 本当に秀乃を想うなら、もっと昔に、酷く突き放すべきだったのだろうか。それこそ高校生の時にでも。
 そうすれば、秀乃には違う人生があったのだろうか。いつまでも健次に叶わない恋心をひきずることもなく、相思相愛となれる男を見つけ、その男と幸せな人生を過ごせたのか。
 愛しあえる相手がいる秀乃は、遊郭の仕事に病むこともなかったかもしれないし、とっくに引退していたかもしれない。

「……健次……? どうしたの……何考えてるの……?」

 涙で潤んだ瞳が、不思議そうに瞬く。
 心までは渡せない。それでも、秀乃には身体くらいは好きにさせてやろうと決め、抱かれつづけてきたツケが、これなのか……健次は笑った。笑うしかなかった。