浮標

 日没を迎えた上海は、きらびやかなネオンで彩られ、昼間とはまた雰囲気が異なる。
 繁栄という言葉を具現化したように、夜空を突き刺し、圧倒的な輝きを放つ超高層ビルとタワー。
 租界時代に作られた西洋建築の街並みも柔らかくライトアップされ、光の群れに加わっている。
 明時代の庭園を現代にまで残す豫園(ヨエン)はまるで竜宮城だ。
 メインストリートを離れて、観光客はあまり立ち入らない裏通りの盛り場もそれなりに眩しく、賑わっている。軒を連ねる屋台、路上にまで席を並べた雀荘、占い屋、ピンク色の灯りが扉の隙間から外に零れだしている妖しげなマッサージ店……。

 路地をさらに奥にと潜っていくと、違法な売春業が行われている区域もあり、水槽ほどの大きさの窓越しに女を選ぶシステムが主流だ。年々取り締まりが厳しくなっているため、そういった区域の位置する場所も流動的で、ちょくちょく変わる。流動的な売春──それは、ある意味では、セイの売られた『旅団』と同じなのかもしれない。
 楓と美砂子は、非合法の世界に堕ちたセイの手がかりを見つけるため、そんな非合法な路地に立ち入っていく。四方から感じる、道を行き交う地元の者たちがこちらの様子を窺っている視線、商品として置かれている者たちが窓越しに値踏みしてくる視線。それらはねっとりと絡みつくようだ。

 実は、楓たちは一度日本に戻り、ひさしぶりに視線の海を泳いでいる。ビザ無しで滞在できるのは15日間。セイを買いとった『旅団』の出没する上海近郊の街を回ったものの、手がかりは何も得られないまま、あっという間に2週間過ぎた。
 引き続き滞在したくても、中国国内でビザの申請をするのは難しいそうで、関空に帰って発行し、再び戻ってきたというわけだった。
 取得したビザの期間は3か月。それまでにセイを見つけることができるだろうか。

(違う……必ず見つけてみせる)

 美砂子の手を掴んで握りしめれば、驚いたように震える。
 それから美砂子は楓を見てきた。風にゆれる提灯、何処かで焚かれている香の匂いの下で。

「楓くん……」

 不安げな瞳だったが、強く頷いてくれたから……楓も頷きかえした。


   ◆ ◆ ◆


 帰国してビザを申請した際、発行までは数日かかるから、京都駅近くのホテルに泊まって待った。
 今の楓たちにとって、待たなければいけない時間というものはとても辛かった。早くセイを取り戻したいのに、足止めされている焦りと不安がこみあげて、色々と考えこんでしまって落ちつけるはずない。

 だが、ひさしぶりに葵と会うこととになり──ずいぶん気が紛れると、落ちあう前から楓は安堵を覚える。美砂子も笑顔を浮かべる、ホテルのロビーで待ち合わせた葵と、すぐ近くだという葵の行きつけの料亭まで歩いていく道程で。
 楓は美砂子の和んだ表情をひさしぶりに見た気がした。上海ではずっと悲しげだった。夜には布団の中で涙を零したりする、楓に知られないように、声を押し殺して。当然ながら楓は気づき、寝返りをうって抱きしめると美砂子はよけいに泣いてしまう……何もできない自分が腹立たしくてたまらなかった。
 早くまた日本を経ち、セイを探さなければいけないが、今日のような息抜きも必要だったかもしれない。セイを取り戻す前に自分たちが参って倒れてしまったら、もっと最悪な事態になるだろう。

 葵の予約してくれた店は、歴史ある料亭と言いつつも、改装されて現代的だ。黒壁の建物は夜闇に溶け、扉だけがうっすらと明るく浮かびあがってミステリアスな印象を受ける。何の店なのかが分かりづらく『一見さまはお断り』といった雰囲気を醸しだしていた。全席個室の店だそうで、そういった店を葵が選んでくれたのは、どんな話でも出来るようにとの配慮だろう。
 個室といえど、大きな窓が設けられて坪庭が望めるので、閉塞感はない。むしろこじんまりとした空間は、楓にとって居心地のいいものだった。
 海老に菊花の添えられた先付けを味わいながら、葵に微笑む。

「いいお店だな。こんなお店を知ってるなんて、さすがは葵だな」
「本当は……楓があの場所を出た、お祝いをしたかったんだけどな」

 葵は悲しそうに眉根を寄せる。それから……さっそく本題に入る。

「どうなんだ……セイくんについては──……」

 その声色は重たい。楓は無意識のうちに姿勢を正していた。

「売られた先は分かった。だけどその……売られた先の組織っていうのが、神出鬼没なんだ」

 楓は葵に、旅するように街から街を巡って、一定の根城を持たない『旅団』について打ち明ける。
 途中、店の人が料理を運んできたので、そのときは会話を中断しつつ、いま知っていることをすべて教えた……聞き終わった葵はため息を吐いて、しばらく宙を仰ぎ見る。

「……楓と会うと、俺の生きている世界は本当に狭いと思い知らされる……」

 やっと前を向いても、大きなため息を零してしまう。

「強大な闇に対して俺が、楓とミサちゃんにしてあげられることがまるでない。力になれないのが、悔しくてたまらないよ」

 美砂子はグラスの冷酒を手に優しく告げる。

「お気持ちだけで……とっても、うれしいです。ね、楓くん」

 美砂子に目線を送られて、もちろん、楓は頷いた。

「葵は十分すぎるくらい、俺たちを助けてくれてる。日本じゅうを逃げてるときだって口座や名義を使わせてくれたり……」

 逃亡中、会うことは叶わなかったものの、電話は時々していた。

「芙蓉館にいるときも、よく、お菓子を差し入れてくれたり」
「俺に出来ることは、それくらいしかないからな」

 雛屋のお菓子は客たちにもいつも好評だった。葵は苦笑してから、思いだしたように呟く。

「そうだ、芙蓉館といえば──越前谷家だけど、あまりいい状況じゃないらしいな」
「葵の耳にまで入ってるなんて、もう……」

 終わりだな……と楓は目を眇める。
 葵はお造りの刺身に箸を伸ばし、整った所作で醤油をつける。

「一応、取引先だからな。状況は知り得ておくよ」
「ずいぶん、若社長っぽいこと言うんだな」
「ふふ、これでも若社長だ」

 楓と葵は笑いあった。
 そして楓は、葵から秀乃の現状を聞く。セイを探す日々は目まぐるしく過ぎていて、越前谷家について気にする余裕はなかったが、予期せず知ることとなった。

「秀乃さんはもう遊郭には……本家にはいない。楓が上海に行ってからかな、正式にしばらく休養することになった。このまま引退なのかは分からないけど、いまは愛人に世話されてるそうだ」

 葵は「愛人っていっても、男だけどな」と付け足す。

 美砂子は箸を止めて俯く。心細そうに楓に尋ねてきた。

「秀乃くんのお世話なんて、ぜったいに大変だよね、大丈夫なのかな……? 秀乃くんも心配だけど、お兄ちゃんのことも心配……」
「ミサ……」

 楓も箸を置き、美砂子を慰める。

「きっとミサのお兄ちゃんなら、大丈夫だろうけど──克己か、那智に電話して、聞いてみる。どういう状況なのかを詳しく……」

 向かいの席では、葵がきょとんと瞳を見開いていた。

「お兄ちゃん?」
「あ……いや、それは……!」

 そういえば葵にはそのあたりの事情を打ち明けていないと気づき、楓はハッとする。美砂子の出生について細かく話すきっかけはいままでなかったし、安易に口に出来るような話ではない。
 美砂子はテーブルの下で、楓の腿を撫でてくる。

「たぶん、葵さんには教えてもだいじょうぶだよ」
「……ミサがそう言うなら──」

 頷く楓の隣で、美砂子は自ら、葵に告白した。

「秀乃くんの愛人って呼ばれている男のひとは、わたしとは、母親違いの兄なんです」

 言い終わるか終わらないかという内に、葵は喉の奥から素っ頓狂な声を漏らす。

「え……えぇえ……えぇええ?!」

 ……そんな葵を見るのは、楓にとって初めてだった。ものすごく驚いているんだな……と思う。
 美砂子の声は毅然と響いた。

「わたしは、相沢壮一の隠し子です。わたしの母は相沢家の家政婦で、兄はほんとうの奥さんの子……」
「えぇ……え……」

 葵は狼狽えていたが、しばらく経つと、ごくりと唾を飲みこみ、やっと少し落ち着いたようだ。

「…………ごめん、驚いてしまって……まさか、そんなことが……!」

 美砂子は気丈に微笑む。

「当然の反応だと思います」
「ミサちゃんも、大変な世界を生きてきたんだ」

 労うように告げる葵に、美砂子ははっきりと言いきった。

「楓くんが、幸せにしてくれました」

 楓はとても照れくさくなりながら、美砂子を向く。

「ミサ……!!」
「ははは……お似合いのふたりだ」

 笑顔になる葵の前、楓の頬は熱くなっていく。少しでも落ち着きたくて、グラスの水を飲んだ。
 美砂子も笑顔でいる。柔らかくなった空気のなかで、葵も打ち明けてくれる。

「ふふ、実はね……俺も結婚するんだよ」
「……あぁ、あの女性(ひと)と……?」

 楓には思い当たる存在がいた。話には聞いていた、数年前にお見合いをした相手。親同士が勝手に話を進めた縁談だったが、葵も彼女もお互いを気に入った。
 ……とはいえ、相手はキャリアウーマンで、結婚話は保留になって久しい……だが、葵も彼女も30近くなり、身を固めることにしたのだろうか。
 葵は切なげな瞳をする。

「俺にはもったいないくらいの女性だ。楓にも美砂ちゃんにも会わせたい、もちろんセイくんにも」

「それにな……」と、葵はさらに想いを語った。

「いつか、楓にはまた家に来てほしい」
「……家……」

 楓はぼんやりと返事をする。2度と敷居をまたぐことは出来ないと信じていたが、葵は、そうはさせないつもりらしい。

「親父や母さんが元気なうちは無理かもしれない、っていうのは、哀しすぎるけどな……それでも楓も揃って、家族で、またあの家で鍋でもしたいって俺は考えてるんだ……」 
「あぁ……いいな……」

 遠すぎる記憶が蘇る。まだ左目が茜のものではなくて、家族と雛屋の従業員たちとちゃぶ台を囲んだ頃。それは大切な思い出だけれど、同じ時間、茜は土蔵で独りだったことを考えると、胸が締めつけられて苦しくなる。
 楓と茜と葵は、兄弟そろって楽しく過ごせたことなんて無いかもしれない。
 翳りそうになる楓の心は、美砂子の笑顔に慰められた。

「みんなで鍋するの、楽しみだね、楓くん」
「……そうだな」

 楓は頷いた。そして思う、葵は、人生を呪いに蝕まれて命を絶った茜や、遊郭に堕とされて男娼として生きてきた楓とはまた違う苦労をしている。歴史ある舖の跡取りとして育てられ、重圧、強制、新しいことをしたいと思っても難しい、閉鎖的な環境。茜と楓はまた違う意味で自由の少ない少年時代だったかもしれない。
 楓の唇からは、労いの言葉がこぼれた。

「葵は──……俺を、大変な世界で生きてきたとか、苦労してるって言うけど──……葵だって、大変な世界で生きて苦労してるじゃないか……」

 だからただ願う、同じ屋根の下で暮らした時間はとても短い、たったひとりの兄の未来を。

「どうか、葵も幸せになって欲しい」
「楓……」

 葵は驚いた表情をしてから、目頭を押さえた。

「泣かせるつもりか?」

 それから微笑む。楓も唇をゆるめた。

「まさか」
「ありがとうな……」

 気づけば、葵の飲んでいる焼酎の水割りが、グラスの中で少なくなってきている。
 美砂子も気づいたようで、手を伸ばしてそのグラスを取り、また水割りを作ってくれる。人生の中で、度々水商売をしているからとても綺麗な所作だ……今夜も楓は見とれてしまうのだった。
 何年もずっと見飽きないままでいる。


   ◆ ◆ ◆
 
 
 上海郊外。
 今夜も裏路地を歩きまわり、聞きこみをして、相変わらず目ぼしい情報は得られないままで場末のバーに入った。
 店内に置かれた旧型のテレビはノイズ混じりにサッカーの試合を映し、酒を片手に眺めて応援する者たちがいる……一見すると普通の店でしかないが、裏の仕事に関わっていると奴隷商人のルイに教えられていた。彼に渡されたリストにしっかりと店名が記されている。
 上海語の行き交うにぎやかさを横目にカウンターに座ると、私服姿の店員の男はだるそうに注文を聞いてきた。楓はルイの名刺を見せ、すると店員は驚いて目を見開き、嘘のように顔つきが変わり、急に背筋も伸ばす。

 このバーに限ったことではなく、どの店の人間も、ルイの名を聞くと態度が変わる。
 ……ひょっとしたら、かなりの権力を持っているのではないかと楓は今さら感じるのだった。克己の父親のことも知っているようだったし……。

 店員はカウンターを出て、店の片隅にある簡素なドアへと案内してくれた。何も言われなければ、ただの掃除具入れか、備品をしまった倉庫だと思うだろう。
 だが、店員がドアを開け放つと、地下への階段がピンスポットライトに照らされていた。
 楓と美砂子はその階段を下りていく。
 地下フロアに響いているのは、やたら重低音を強調したダンスミュージックで、正直な感想としては楓の好みの音楽ではなかった。
 1階よりもずっと広い。足の長いスツールと円テーブルがばらばらと配置され、案の定、その間を少年たちが歩いて給仕している。
 カクテルや軽食の乗ったお盆を持って行き交う彼らはチャイナドレスを着ているが、ミニ丈だったり、胸元までスリットがあったりする。テーブルの下に潜りこんで男のものを咥えている少年もいた。
 女性客もいて、ちょうど紙幣の束を店員に叩きつけ、目当ての少年を買うところだ。少年は奥から私服姿で出てきて、女とは馴染みなのか、親しそうに腕を組んで店を出ていく──後は自由恋愛ということにして店は関与しないのだろう。
 席に着いた楓たちの元にも、さっそく少年が飛んできて、そつのない笑顔でメニュー表を見せてくれる。日本語でも書かれていたから、言葉は通じなくとも楓はウーロン茶、美砂子はノンアルコールのピーチフィズを注文した。飲み歩くために路地をうろついているわけではないから、上海の街で酒を頼んだことはない。
 飲みものが届くと、美砂子は手持ちぶさたにグラスを指先でなぞった。

「あの男の子たちとおなじようなことを、わたしだって、してきた癖に……」

 憂欝そうな瞳で、愛想を振りまく少年たちを眺めている。

「あまり見たい光景ではないって思っちゃう」
「まぁな……だけど……」

 子どもが、事情なく売春など始めない。必ずといっていいほど売らなければならない事情がある。それは生まれ育った家を追いだされた楓もそうだっただろうし、家族と暮らせず、実の親を公に出来ず、寂しい思いをしていた美砂子にも当てはまるだろう。
 買う側も、好んで少年少女を愛でる性癖に生まれついた訳でもない。一生抱えていかなければならない、ある意味で業だ。
 現代社会の法律・常識・価値観と性癖が合わなかったのも悲劇だ。歴史上、何千年も前から幼い子どもを愛でる者たちはいて、公然と抱ける時代も国もあった。
 何が正しいとされて、何が間違っていると糾弾されるのか、判断の物差しは一過性の流行でしかない。
 ……楓の脳裏によぎる考えを口にするまでもなく、美砂子は頷いてくれる。

「楓くんの言いたいこと、分かるよ──それでも見たくないなぁって思うのは、ミサがおかあさんになったのもあるのかもしれない」
「そうか……」

 楓はウーロン茶で喉を潤してから、美砂子と似た想いを呟いた。

「俺もやっぱり、いい思いはしないぞ。セイくらいの子が身を売っている事実には……芙蓉館で子どもたちに実技を教えたこともあるけど、複雑な気分になったな」

 仕事だから肌を重ねたが、自分には少年を愛でる性癖はないと再確認した。
 美砂子は瞼を閉じて、深く頷く。

「うん……」
「ミサ、どうした」

 美砂子はひどく気だるげで、それはただ憂いているからという理由ではなさそうだった。

「具合が悪いのか?」
「えっ……? そういえば、だるいかも……」
「大丈夫か」

 楓は腕を伸ばして、美砂子の額に触れてみた──熱っぽい。このところ街を歩いてばかりいるから、疲れが出てきたのかもしれない。

「今日は早めに引き上げよう。俺は店の人に話を聞いてくるから、此処で待っていてくれ」
「……ごめんね、楓くん……」

 申し訳なさそうに歪んでいく表情に、楓は首を横に振り、羽織っていたカーディガンを脱ぐ。席を立って美砂子の肩にかけてやる。この店の空調は効きすぎていて、肌寒い気がしたからだ。
 ……ふと気づくと、スーツを着崩した男が歩いてきて、楓の座っていたスツールに腰を下ろす。

「あんたたち、少しだけ、俺と話さないか?」

 ぎこちないイントネーションの日本語で声をかけられ、いきなり何だろうと戸惑いながら、楓は美砂子の肩を抱いたままでいる。
 男は簡潔に「李(リー)」と名乗った。中国ではよくある名字だ。
 チャイナドレスの少年はリーにも飲みものを薦めに来たが、上海語で断る……話の内容はよく分からなくとも身振りで楓にも理解できる、長居するつもりはないということだろうか。
 支配人らしき中年男もすっ飛んできて、挨拶をし、何度も頭を下げていった。
 楓は遊郭を出て、日本中を流浪していたとき、その土地における売春業の『元締め』と呼ばれる存在に何人も会った。ヤクザだったり、表向きはバーのマスターだったり、何の変哲もないタバコ屋の老婆だったりもした。ひょっとしたらこの男もそういった種類の人間なのかもしれない。
 とりあえず、カタギには見えない。鋭い眼光で楓たちを見てくる。

「最近この辺をうろついてる日本人だろう」
「息子を探してるんだ」

 楓が答えると、リーは大きく頷いた。

「噂は聞いている、ユー・ルイの口利きで立ち入っているとか、“ハカタのイチジョウ”とも繋がっているとか」

 ハカタ……博多のことだろうか。克己の父親について詳しくはないので、福岡を根城にしているのかどうかなんて楓には分からない。

「一条……ヤクザとは直接絡んでる訳じゃない」
「でも、イチジョウの息子、あんたの後輩らしい、ヒナセ カエデ……」

 情報の行き渡り具合に驚いてしまう。どうやって調べて掴んだのだろう。

「カエデは少年男娼だったと聞いた。足抜けも経験した、その歳で10歳の子どももいる」

 裏社会の情報網に驚きながらも、黙って見つめ返す楓に、根負けしたように男は笑った。

「ははは、肝座ってる、どれだけの修羅場を越えてきた?」
「貴方の方が越えてきたんじゃないのか?」

 思ったことを素直に言うと、リーはさらに笑う。それから、わざとらしく肩をすくめる。

「残念なお知らせ……カエデの息子は上海にはいないだろう」

 この街で聞きこみを始めてから、もっとも確信に満ちた言葉に聞こえた。美砂子が息を呑んだのが、楓に伝わる。楓は無意識のうちに美砂子の肩に触れる手にぎゅっと力を込めていた。

「じゃあ、いま何処に居るんだ『旅団』は──」
「カエデの息子は多分、精鋭だ」
「精鋭?」
「カエデ、上玉の男娼だったろう、母親のツラも悪くないね」

 リーは美砂子をチラリと見る。

「あんたたちの血を引いてるなら、当然、息子も上玉男娼……」
「何が言いたい……」
「『旅団』は、いくつかに分かれてる、若い女を連れたグループ、男を売るグループ……細かく枝分かれしている。ユー・ルイは大から小まで色んな組織に関わってて忙しい、旅団だけに関わってる訳じゃないから、旅団の細部まではよく知らない」
「複雑な組織構成なんだな」
「あぁ……あんたたちが思ってるより大がかり、そこらへんの大企業以上に」

 リーは姿勢を崩し、テーブルに片肘をついた。

「息子は上玉だろうとさっき話した、上玉は簡単に手放したくない……あんたたちならどうする? 大切な商品、どう守る?」
「守るために一か所に留まらず、各地を転々としているんだろう。これ以上さらにどうやって……」

 楓は眉根を寄せた。美砂子から指先を話し、腕を組む。

「さらに手が届かなくする……見つかりづらくする……のか?」

 リーは満足げに頷いた。

「その通り」

 そして、ヒントを出すように、とんでもないことを呟く。

「もっと遠くにやる……陸地を離れる……」

 具合の悪さもあってか、静かに話を聞いていた美砂子も、さすがに口許に手を当てひどく驚いた。

「り……陸地って……楓くん……?」

 美砂子は不安げに楓を向く。楓の困惑も増していく。

「何を言ってるんだ……」

 そんな楓の脳裏に、思い浮かぶ答えがあった。

「海……か……?」

 美砂子はまばたきを忘れてしまって、大きな瞳を見開いたままだ。

「海って、ほんとうに……?」

 リーは美砂子に頷いた。

「そう、精鋭は船に乗せられる、表向きは客船だから、堂々と渡航している」

 簡単には信じられない。眉間に皺を寄せ、腕組みしたままの楓に、リーは説明を続ける。

「金持ちの客を乗せて、船上で接待する。ただ身体売らせるだけじゃなく、芸仕込んで歌わせたり踊らせたり……そこらへんの子どもが日銭稼ぎに来てるこんな店とはレベル違う、完璧な娯楽提供する」

 リーがわざとらしく店内を見回したとき、近くの席に陣取っていた2人組の男もこちらに近づいてきた。彼らもスーツを纏っていて、リーは手短に「部下」とだけ紹介した。
 部下からタブレット型の端末を受け取って、地図の画面にする。

「海沿いの街、回ったほうがいい」

 楓と美砂子は画面を覗きこむ。沿岸部をなぞっていたリーの指先は、ある一点で止まった。

「中でもこの辺りには、比較的よく子どもを乗せた旅団の船来る」
「どうして知っているんだ?」
「一帯で、歌われてる童謡がある」

 リーは部下の脇腹を肘でつつく。するとひとりの部下は上海語ではない、他の都市の方言がかった中国語で歌いだし、もうひとりは手拍子を始めた……何事かと思うのは楓たちだけでなく、他の客や少年たちもらしく、唖然とした視線が遠巻きに男たちを見る。
 それでも歌い終えると拍手が生まれ、部下ふたりはおどけたようにお辞儀する。
 楓は呆気に取られたまま、訳が分からず、首を傾げた。

「……一体何の歌なんだ……」
「こう歌ってる。夜になると少年奴隷の船が来る、悪い子は乗せられて連れていかれるから、船に乗りたくなければいい子にしていろ。そんな歌だ」

 リーの説明を聞き、やっと合点のいく楓だった。

「年長者が子どもに歌う。そうすると子どもは怯え、家業の手伝いしたり、勉強する」

 美砂子は「怖い……」と呟いた。楓は美砂子に寄り添いながらも、気がかりなことを思う。
 海は広い。行こうと思えば何処までも行ける──だから尋ねてみる。

「ひとつ、聞いていいか」

 当然のようにリーは頷いてくれる。

「俺に答えられることなら」
「その船が停泊するのは中国だけか?」
「時にはアジアを離れると聞いたことがある」
「…………」

 嫌な予感は当たってしまった。美砂子は口を引き結び、テーブルに置かれたタブレットを見つめている。リーは親切に、スーツから取りだした手帳の紙を破いて、港町の名前を書いてくれた。

「とりあえずは、せっかく中国にまで来たんだから、この辺りを探してみるといい」

 そして美砂子に渡す。美砂子は今にも泣きだしそうだったが、それでもリーにお礼を告げた。

「いろいろ教えてくれて……ありがとう、だけどどうして、わたしたちに親切にしてくれるの?」
「実は、俺は童謡を聞いて育った」

 リーは席を立つ。

「あんたたちの噂聞いて、思い当たるものあったから、話しにきた。それだけのこと……」

 楓も「ありがとう」と感謝を伝える。お辞儀をすると、リーは楓の手を掴んで握手をしてくれた。

「息子……見つかるのを祈ってる。何処にでも、こんな街にも寺や教会ある、だから」

 神はいる、諦めるなという意味なのだろうか。
 微笑を残して、リーは部下を連れて去っていった。見送るためか、支配人は階段を上っていく彼らを追いかけていく……ひょっとしたら、彼らはチャイナマフィアかもしれないと楓は思った。
 楓たちもすぐに店を出る。楓と美砂子に対しても、店の人間たちは満面の笑顔だ。
 美砂子と手を繋ぎ、最寄り駅に向かう道を歩いていく、路地裏をすり抜けていく。
 夜風に揺れる提灯の下、美砂子は楓に視線を向けてきた。

「さむくない……? カーディガン、わたしが着ててもいいの……?」
「あぁ、大丈夫だ」

 美砂子の体調が心配だった。早く帰って休ませてあげたい。大通りに出たら、ぼったくりに逢う可能性もあるが、タクシーに乗ってみようか……考えをめぐらせる楓に、美砂子は尋ねる。

「……さっきのひとのお話、信じる……?」
「信じるもなにも──」

 行ってみるしかない。他に行くあてもない。海沿いを彷徨うしかないだろう。

「この街では他にいい情報は得られなかったし、他の場所に移るのもいい。俺の勘でしかないけど、嘘を言っているようには見えなかったな。信じてみてもいいと思う」
「そうだよね……」

 通りに出したテーブルで麻雀に興じたり、酔って笑いあっている人々の楽しげなざわめきの中で、美砂子は悲しげに瞼を伏せた。

「手がかりが、つかめたのは嬉しいけど……信じたくないよ……そんな船にセイが……」

 崩れ落ちるように、美砂子はその場にしゃがみこんでしまう。

「嫌だよ……セイ……、……嫌だよ……っ……、どうして……!!」
「……ミサ……!」

 楓もその場にしゃがむ。こんな美砂子を見ているだけで辛くなる。ただ髪や背中に触れるくらいしか出来ないのも辛い。かける言葉も『きっと見つかる』だとか『きっと大丈夫』だとか、何の保証もない言葉しか見つからない。
 自分が嫌になりそうだった。もっと美砂子を支えたいのに……力になりたいのに……海外の路上で泣き崩れさせるために、一緒に生きていく道を選んだつもりなんてない。
 しかし、現実はこれだ。
 嗚咽を漏らす美砂子を擦りながら、楓の脳裏にはまた、自分自身を責める言葉も溢れた。
 俺が男娼のせいで、美砂子も清志郎も巻きこんだ……。
 それを口にすれば美砂子もきっと、相沢壮一の子に生まれたから、夜の仕事をしていたからと言いだして己を責めるのだろう。
 責めあいの元を辿れば、結局、出逢わなければよかった──悲しい答えが導きだされる。

(俺は……ミサと……美砂子と出逢わなければ良かっただなんて、絶対に思わない……)

 お互いに、居場所のない子ども時代を過ごしてきた。楓にとって遊郭は楽しかったが、仮住まいの寮でしかなかった。だけど美砂子の隣は、初めて迷いなく安らげる居場所だと思えた。
 自分も美砂子の居場所でありたい。
 運命のように生まれてくれたセイの居場所でもありたい、両親のように棄てたりなんてしたくない、揺るぎない存在でありたかった。

(俺たちが、落ちこんでたってしょうがない……セイは今も、頑張っているかもしれないのに……!)

 芙蓉館を出た、過去を清算した、未来はこれからだ。
 此処から始めないといけない。
 楓は切なく微笑んだ。

「此処が底なら……後は昇っていくだけだ」
「楓くん……?」

 涙に潤んだ、不思議そうな瞳が楓を見る。

「これ以上の悲しさも辛さもないと思うんだ」
「……そうだね、そっか、いまが底なんだ……」
 美砂子も微笑う、そして目元を拭う。
「セイに会いたい……セイがつらい目に遭っているのなら、助けたいよ……」
「俺もそう思う、ミサ。3人で笑える日を取り戻しに行こう」

 楓は頷き、立ち上がる美砂子を支えた。心配そうに近づいてきた女性たちがいたが、美砂子は「大丈夫」と言って、身振りで断る。
 手を繋いで歩きだす。夜空は分厚い雲に覆われて、都心のネオンに薄められて、星の輝きは見えない。星座を見つけるのが好きな楓にとって、それは少し残念だ。
 ふたりで細道を抜けていく……昔にもこんなことがあった気がする。中学生の頃……セイが生まれる前……美砂子を公園に助けに行ったあの秋の日。思いだす京都の路地裏。
 いくらか広い通りに出ると、美砂子はじっと楓を見つめてくる。

「ごめんね、また、泣いたりして……どうして涙が出てくるのか分からないよ、でも、泣けちゃって……、……なさけないなぁ……」
「気持ちを溜めこむよりも、吐きだしたほうがずっといい」

 美砂子の手をぎゅっと握り締める。
 本当は抱きしめたかった。ホテルの部屋に戻ったら、そうしたい。

「ミサが泣いても、俺が何度でも涙を拭うから、大丈夫だからな……」

 やっと美砂子は唇をゆるめる。楓の好きな、いまだにあどけなさを残す微笑み。

「楓くんは、優しいね。出逢ったときから変わらずにそう思っているよ……」
「ミサだって優しいぞ……?」
「楓くんのほうが、優しいよ!」
「いや、ミサの方が……!」

 また妙な言い合いになってしまうから、楓も少しだけ笑ってしまった。
 結局、ホテルまでは電車に乗って帰る。
 上海の街は、今夜で見納めになるのだろうと楓は思う。実際よりもとても長く感じられる日々だった。この街を経つのは、さらなる絶望に向かう一歩ではなく、セイを取り戻すための前進だと、自分の心に言い聞かせた。