6 月 1 0 日 1 3 : 5 2

 都心の街並みをすり抜けるように走る、真っ白なBMW。
 走りなれているのか、裏道も良く知っている。
 入っていくのはオフィス街で、平日の昼下がり、会社員のランチタイムも終わったらしく、歩く人影は少ない……だが、克己の目的地はオフィスではなく、官公庁と企業の建物ひしめく一角にある、それなりに大きな病院だった。
 やがてBMWは病院の出入口前、タクシーも待機している車寄せに停まり、克己は運転手の怜に頭を下げた。

「行きのタクシー代が浮きました、ありがとうございます」
「いいって、俺もこの辺に用事だからさ〜」

 怜はハンドルから手を離し、長髪を掻きあげる。それから、途中寄ったコンビニで買ったジャスミンティーのストローに口をつけた。
 怜の用事の予想はだいたいつくので、克己は尋ねない。
 大通りを挟んだ向こうには歓楽街がある。早番の風俗嬢の仕事がそろそろ終わる頃なのか、出勤前の水商売の女と食事でもするのか。
 ただ、予想がつかない事柄もある。
 脱いでいた春用のトレンチコートを、ワイシャツの上に着ながら、克己は尋ねた。

「FAMILYが無くなったら、貴方はどうしますか?」
「ナニ? 急にどうしたの、克己くん」

 突飛な質問に驚いたらしく、怜は目を見開く。
 だが、そんな表情はすぐに消えて、あっさりと言ってのける。

「キミはある日突然いなくなりそうだよね。そうなったら、俺たちも解散だろうね」

 ジャスミンティーをドリンクホルダーに戻し、怜は前を向く。

「そうだねぇ、どうしようか。専業主夫もいいよね、こう見えて俺のゴハン、美味しいんだよ? 洗濯物の干し方にも柔軟剤にもこだわりがあるしね〜」

 窓の外を通りすぎていくのは、家族のお見舞いに来たのか、白髪の女性と孫らしき女の子だ。手を繋いで歩くとても微笑ましい光景で、克己と怜にはわりと無縁な世界だった。
 彼らをちらと見た後、怜は言った。

「意外に、昼間の普通のシゴトも上手く出来ちゃったりして……でも似合わなそうだよね〜」

 克己は唇をゆるめ、微笑を作っておく。
 愚問だった。突然に今の立場を失ったとしても、この男ならそつなく生きていくだろう。
 心配などする必要はない。

「似合うかどうかは──ノーコメントにしておきます」
「へぇ……? 黙秘かい? キミらしいね」

 わざとらしく肩をすくめる怜に、いくらか本音を交え、克己は伝えた。

「いつか、そういう日も訪れるということを頭の隅にでも置いておいて下さい」
「は〜い、りょうか〜い」

 克己はドアを開ける。昨日用意しておいた、籠入りの林檎を抱えて降り立った。怜はシンプルなブレスレットを揺らして手を振る。

「じゃあね、克己くん」

 克己は会釈をし、歩きだし、正面玄関から建物内に入った。
 相手が入院したこんな機会なら、たまには顔を見せてもいいと思った──お互いに遊郭を出たあと、それほど遠くない場所で生活しているのに、普段はまったく会わない。
 かつて同じ場所で生きていた『水蓮という源氏名だった女』。
 案内板を見ながら、そう苦労することなく辿りついた、小綺麗なひとり部屋の病室。
 壁には松葉杖が立てかけてあり、ベッドに腰かけた水蓮の左足はギプスで固定され、痛々しい。
 それでも、浴衣姿にカーディガンを肩にかけ、長い髪をゆるく結った姿には色気があり、美しさは健在だった。一般人とは雰囲気からして異なるから、きっと病棟では美貌が噂されていることだろう。
 克己は見舞いの品をテーブルに置き、ベッドに近づいていく。

「どうですか、お身体の具合は」

 久しぶりだとか、そんな類の言葉はかけない。克己が入室しても、水蓮は気にせず窓の外を眺めていたが、やっと克己に視線を移してくれた。

「大した怪我ではない」

 あの頃の妖艶さを残す微笑みを浮かべ、水蓮は左足に触れる。
 骨折の原因は、パート先のスーパーマーケットの倉庫で、脚立から落ちたせいだと那智に教えられた。電話でそれを聞いたとき、克己は聞き間違えたのかと思った。
 働くという行為も、スーパーという場所も、まるで水蓮とは結びつかない。克己よりも世間ずれして、箸よりも重いものを持ったことが無いような女だったはずだ。

『たまには顔を見せてあげたらいいのに……克己がお見舞いに来たら、きっと喜ぶよ?』

 那智にはそう言われたが──喜んでいるのかは、目の前の表情からは窺い知れない。四季彩で肌を重ねていた頃と変わらない、気位の高そうな、ツンとした顔だ。
 水蓮は足に触れたままで嘆いた。

「彼は働かずともいいと言うし、生活に困っている訳ではない……だが、経験してみたかったのだ。経験して、一般人の日常にも随分慣れてきたと思ったんだが、まだまだなのかもしれないな」
「いえ……貴方が労働をしているだなんて、俺にとっては驚天動地の大事件といいましょうか、にわかには信じがたいですし、十分すぎるほど一般社会に慣れたと思いますよ」

 思ったことを素直に告げると、水蓮は楽しげに目を細める。

「相変わらず、その口は失礼なことを喋るのだな」

 窓に寄った克己は、水蓮が何を眺めていたのか、勘づいた。
 此処からは小さな中庭が見下ろせる。ベンチに座ってソフトクリームを食べる女の子と、隣には父親らしき男の姿がある。
 水蓮を身請けした男と、水蓮の娘だろうか。
 水蓮の夫は自営業で、時間に自由が利く身だとは克己も知っていた。だからこそ昔も、平日の昼間から遊郭で遊べる身だった。
 子どもは4、5歳くらいだろうか。遠目に見てもとても美しく……水蓮の夫には似ていない。
 克己は自分でも意識していないうちに、彼らを凝視してしまう。
 流産は嘘だったのかもしれない。
 まさか──……

(あれは俺の子なのか?)

 ハッとして水蓮を見れば、水蓮も克己を見ている。

「邪推するな……」

 水蓮はゆっくりと首を横に振った。

「私と彼の子どもだ」

 とてもそうは思えない。観察すれば観察するほど似ていなかった。
 初めから遊郭に子どもを残す気などなかったのか、なりゆきで外で育てることになったのか。
 克己の脳裏には、那智の顔も浮かんだ……暗躍していそうだ。克己と水蓮の子を生まれながらの娼婦にしないために、工作しかねない。
 水蓮を身請けした男は理解者であり共犯者なのかもしれない。

(……人が地下牢で死にかけている間に、勝手なことをしてくれる)

 克己は笑ってしまった、幸せそうな父娘を眺めながら。真実も血のつながりもどうであれ、水蓮と夫と娘が幸せならそれでいいと思う。
 窓辺から離れる克己に、水蓮は告げる。

「お前はお前の人生を歩めばいい」
「……えぇ、言われなくとも、そうしますが」

 克己の心はまだ困惑と驚きでざわついていたが、平静を装った。
 トレンチコートを脱ぎ、ベッド横の簡素な椅子に腰を下ろす。水蓮はまた、ちらと窓の外を見た。

「お前が来ると言ったら、絶世の美男子に会うのは恥ずかしいと、娘を連れて逃げてしまった」
「恥ずかしい? 何故ですか」
「両刀でな」
「成程」

 克己は頷く。そして水蓮の横顔は、このごろ関係者の間で噂になっているあの話題に触れた。

「近頃……危ういそうだな……四季彩は」

 辞めた人間の耳にまで届いているのかと、克己は眉根を寄せる。
 本当に、もう、終わりが近いのだろう。

「よくご存じですね」
「かつての同僚と連絡を取ることもある……しかし、私にはもう関係のないことだ」
「近いうちに、俺もそう言う立場になることでしょう」

 水蓮は意外そうに目を見開き、克己を向く。

「足を洗うのか?」
「早百合さまの後添えになる覚悟を決めたんですよ」
「それは……冗談が過ぎる……!!」

 吹きだした水蓮は、無邪気な少女のように笑い声を響かせた、とても楽しそうに。

「お前が、家庭に収まる男であるはずがないだろう」
「貴方に言われたくは無いですね」
「それは確かに、一理あるな」

 水蓮はまだ少し笑っている。克己も唇をゆるめ、本音を伝えた。

「後添えは冗談ですが……早百合さまと高飛びして、しばらくのんびりしたいとは考えています。それから先のことは分からない、特には決めていません」
「そうか。まぁ、先のことはゆっくり考えればいい」

 ずり落ちたカーディガンを肩にかけ直し、水蓮は瞳に穏やかさを湛えている。

「……5年後……いや、10年後でもいい、また顔を見せにきてくれないか?」

 こんな表情をする女だっただろうか。克己が気づかなかっただけか、家庭を持って変わったのか。

「会いに来なかったら、死んだと思おう」

 身も蓋もなくきっぱりと言い捨てるのは、相変わらずだった。克己は薄笑む。

「妥当な判断ですね」
「ふふ、あぁ、楽しいな、お前と話していると」

 変わった女だと心の中で呟きながら、見舞いの品を指差す克己だった。

「林檎剥きましょうか」
「いいのか? 頼む」

 籠を抱えてミニキッチンに向かう克己に、水蓮は小さく呟く。

「……ありがとう」

 晴天の窓の外からは、かすかに子どもの笑い声も聞こえた。