正鵠

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 水蓮が身ごもったという報告が、克己の耳に届いた。

 これでもう、彼女と交わることは二度とない。それに対して特になにも思わない、感慨は沸かない。
 秀乃には「おめでとう」と言われたけれど、なにがおめでとうなのかも、克己にはわからない。
 仰せつかった役目を果たしただけのこと。

 また、時期を同じくして──大旦那の静間の容体が思わしくない、という話も教えられた。

 克己はある日、越前谷家の使用人により、彼のいる病院に連れだされる。

 静間が、克己を呼ぶように命じたという。

 越前谷一族の付き添いなしに、克己が外出をするのははじめてだ。なぜ、あえて自分だけに来いと言うのか。向かう車内で妙な胸騒ぎを抑えられない。

 それでも、そんなふうに戸惑う内心は表さない。いつもどおりの優雅さで、駐車場から建物までの僅かな距離も日傘を差す。今日は和装ではなく、シンプルなブラウスにプリーツスカートをあわせ、パンプスを履いた。品の良いお嬢様といった装いで、髪留めは早百合から贈られたもの。

 初夏に早百合と訪れたこの病室。此処まで付いてきてくれた使用人を廊下に残し、克己のみが入室する。
 室内には病院の関係者も、静間に仕えている家政婦もいない。すべての人々が出払い、白く広い空間には、本当に克己と静間ふたりきりだった。

「静間様、克己でございます」

 ベッドに横たわっている老人に、近づいてゆく。

 夏に来たとき、切開された喉には酸素を送る管を通されていたが──今日は違う。代わりにカニューレという医療器具が嵌められている。喉を切る以前の、元通りの声は出ないものの、かろうじて発声を可能とする器具だ。

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「おお……克己……」

 良く来てくれた、と静間は言う。くぐもった声だが聞き取ることはできる。もっと近くに、と言われて克己はそばの椅子に座った。機械類に囲まれて横たわったままの静間は、目線のみを克己に送り、口許にかすかな笑みを浮かべる。

「静間様、お身体の具合は」
「どうしても、おまえに、話さなければならぬ」

 克己の問いかけは遮られた。静間は目を見開き、克己をジッと見る。病に弱ってからの静間ではなく、ひさしぶりに往年の凄みを放った眼光だ。

 思わぬ力強さに、克己は驚いてしまう。だが、これから克己に突きつけられる驚きはそんなものではない。
 衝撃的な告白が降りかかることとなる。

「おまえは、身を売るような、人間では、ない」

 苦しそうにきれぎれだが、はっきりと意志をもって紡がれた言葉。だが、意味がわからずに、克己は眉間に皴寄せてしまう。

「静間様……?」
「すまな、かった……。こうするしか、なかった、のだ。おまえは長原、克己、など、ではなく」

 克己は自分が聞き間違えているのかとも思う。
 もしくは、静間はすでに現実と非現実が混ざりあっているのではという考えにも駆られた。
 しかし、彼の様子はもうろくしているようには見えない。しっかりと言葉を発している。

「一条 雅葦( イ チ ジョ ウ マ サ ヨ シ )、もしく、は、越前谷 雅葦。それがおまえの本当の名」

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 理解できず、克己は静間の手をとったままで固まる。静間は克己の顔を見据え、さらに告白を続けた。

「おまえは、わたしの、孫なのだよ」

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 越前谷嘉代( カ ヨ )は、宗人の妹にあたる。何人もの子どもがいる静間だが、嘉代は末子、しかも娘とあり、可愛くてしかたがなかった。

 そんな嘉代が長じてから──婚約者として連れてきたのは極道の男。静間は猛烈に反対した。理由は、当時、男の周辺では派手な後目争いが繰り広げられていたからだ。

 男のそばにいれば、嘉代も危険な目に遭うかも知れない。抗争に勝ち抜いたとしても、幹部の妻にはさせたくなかった。いくら闇家業を商う越前谷家といえ、愛娘をまたもや闇の世界には送りこみたくないのが親心である。

 だが、嘉代は駆け落ち同然に男と結ばれてしまう。

 そして──……銃弾に貫かれ。
 命を落とす。
 目撃者の証言によると、夫を庇って。

 静間の杞憂は悲しくも的中してしまった。

 葬儀の帰り道。静間ひとりを乗せた車に、飛びだしてきた男がいた。梅雨どきの雨は窓ガラスを容赦なく叩き、黒いスーツ姿のその男もずぶ濡れだ。運転手は急ブレーキを踏んで停車し、静間はなにごとかと扉を開ける。

 それは、久しぶりに見た顔だった。遊廓で美貌の娼妓など見慣れているはずの静間でさえも、初対面の際には息を呑んだほどの、美しい男。
 
 妻が凶弾に倒れたその瞬間から、行方をくらませていたやくざの夫だ。

 静間は思いつくかぎりの罵声を浴びせた。自分が濡れるのもかまわず、男に掴みかかる。頬を伝うのは涙なのか、雨なのかわからない。

 だが、男が赤子を抱いているのがわかると、揺さぶる手を止めざるを得なかった。

『雅葦です、お義父様』

 駆け落ちした嘉代とは連絡を絶っていたため、孫をはじめてこの手で抱いた。対立する一派は赤子の命でさえも狙っており、そのため、預かって欲しいと言って渡される。

『匿っていると知れれば貴方のお命も、ご家族も、遊廓も危険に及ぶでしょう。出来ればこの子には別の名を与え貴方の孫という事実も伏せて下さい』

 滅茶苦茶な話だ。憤慨する静間の前から、男はすぐに姿をくらます。豪雨は叩きつけるようにさらに激しさを増し、静間の腕のなかで雅葦は泣きだした。

 静間は孫の命はもちろん、家長として、親族も、四季彩も護らねばならない。

 苦悩の末、赤子を遊廓の中庭、紫陽花のそばに捨て置いた。身を切られる思いで。

“発見”された雅葦は、長原克己という名を与えられ、娼妓として育てられることとなる。女児の装いをさせよ、遊廓の外には一切出さず敷地内だけで飼育せよと指示を出したのは、静間だった。