艶談

1 / 3

 次の日の午後には、越前谷家の居間でゆったりと過ごす。冷やした宇治緑茶を楽しみながら、早百合は籐椅子で黒猫を抱き、昼の連続ドラマを見ていた。隣の椅子に座る克己も、同じように茶を飲んでテレビを眺めている。

 陳腐なストーリーと思っている克己だが、毎日見ているうちに展開が気にはなるし、台詞まわしや女優の仕草には仕事にも使えそうなものがあるので、退屈はしない。

 こうして堂々と過ごしていても、早百合と克己の本当の関係には、だれひとりとして気づいていなかった。早百合は性愛の対象としてではなく、純粋に遊廓勤めの子供たちを可愛がっているので──克己もその一例だと思われているのだ。

「ねえ、克己ちゃん」

 CMにさしかかったとき、早百合に声をかけられる。ちらと見ると、早百合は掌をひらひらと振っていた。

「扇子を持ってきて頂戴」
「暑いですか? じゃあ冷房を……」
「いいの、わたくし、扇子がいいのよ。早く」

 早百合の膝の上の飼い猫はリラックスしたように鳴いている。克己は立ちあがり、台所へと赴いた。この母屋の構造も、どこに早百合が扇子を置いているのかもすっかり把握している克己だ。

 向かう途中、仏間の襖が開け放たれていたので、豪華な仏壇が視界に入る。

 べつに越前谷の一族とはなんの血縁関係もない克己なのだが、目にするたび心は騒ぎ、しめつけられた。

 ある出来事を思い出すからだ。

2 / 3

 あの真夏日、克己は十二歳だった。

 なにかの用事を言いつけられ、越前谷家の縁側を歩いていたのだ。ジワジワと蝉の声がうるさくて、すこしばかり苛立ちを感じながら。

 すると仏間の襖がかすかに開いていて、嗚咽が漏れてくる。蝉の音にまじっているせいもあり、気のせいかとも思ったけれど、近づけば本当にだれかが泣いているのだとわかった。
 
 一体、だれなのだろう。
 好奇心に負け、スキ間を覗いてしまい、克己は息を飲むことになる。

 泣いていたのは早百合だった。

 先代楼主であった、夫の名前をきれぎれに漏らしながら、ひどく泣いている。

 彼の死から、早百合が狂ったように夜遊びを繰り返している事実は少年時代の克己の耳にも届いていた。だからもう早百合は夫のことなど気にもしていないし、若くして見合いで結婚させられたのだから却って自由を手に入れられて嬉しいだろう、とまで人々の間では話されていたのだ。

 それなのに、どうして号泣しているのだろう。

 夫のことなど、もうどうでもいいはずではなかったのか。

『……だ、れ……?』

 長い髪も乱し、数珠を手にして崩れ落ちている早百合の瞳が克己に向く。逃げだすことも話しかけることも出来ず、固まってしまった克己だった。

 思えばあの瞬間からすべてがはじまったのだ。
 この、ふしだらな関係も──



「克己」



 ……台所の机にあった扇子を、掴んだところで声をかけられる。相手は、半袖のシャツを着たさわやかないでたちの秀乃だった。秀乃は早百合の長男であり、現在、この遊郭の主を務めている。

「おはようございます、秀乃様」

 その日最初に顔を合わせたときは何時でも『おはよう』遊廓の挨拶にのっとり、克己は会釈する。秀乃もおはようと返してくれた。

「ちょっといいかな。お前に、話があるんだ」

3 / 3

 早百合に扇子を渡してから、克己は秀乃と共に中庭へ出た。

 梅雨の合間の晴れ間はまだ、そう暑くない。けれども仕事上、日焼けを嫌う克己は陽光が気になる。敷石を踏み、池のほとりへと近づく秀乃に眉間をひそめた。

「どうした克己、そんな苦々しい顔をしてさ」
「あなたはご当主様なのですから。商品の管理に気を遣うべきではないのですか?」
「え、どういうことだ?」
「男娼を、紫外線の元に連れ出さないでください。肌トラブルの元になります」
「……あいかわらず仕事熱心だな、克己は」

 秀乃は苦笑してから、丸い形の石を拾って水面に投げる。それは何度かは跳ねたものの、向こう岸には辿りつかず途中で沈んだ。

「たまにはいいだろう。真昼に散歩も」
「用件を」

 急かすような克己に、秀乃は肩をすくめる。だが、すぐに本題を切りだしてくれた。

「話は二つ。まずは、お爺様の容体が思わしくない。克己も見舞いに行ってやってくれ。外出許可は俺が出す」

 わかりました、と克己は頷く。かつての四季彩当主は老衰が激しい。危ない状態が続いているということは、早百合からも聞いて克己は知っている。

「もうひとつは、繁殖の儀についてだ。克己、交配して──子を成せ」