夏眠

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 ──大旦那である越前谷静間( シ ズマ )を見舞うため、外出することになったのは季節が初夏に差しかかったころ──

 日差しは、熱を孕みはじめている。

 八月の炎天にくらべれば優しい陽光だけれど、それでも、克己の顔をしかめさせるのには充分すぎる熱射だった。こんなにも紫外線の降りそそぐ日中に出かけるなんて、克己にとってはありえないほどにおぞましい。それが早百合に付き添われての、外出であろうとも。

 だが、命令ならばしかたがない。克己は四季彩に逆らう術を持たないので、気乗りしない本心は隠し通す。敷石を踏んで向かう道筋、すれちがう使用人らには完璧な微笑を作り、会釈をしてゆく。
 
「……あぁら、おはよう、克己ちゃん」

 指定された時間よりも早くにきたはずなのに、すでに早百合は待ち合わせ場所の、越前谷家の門前に佇んでいる。

 早百合も克己同様に和服を纏い、日傘をさした装いだが、克己とは豪奢さが違う。派手な夜会巻きに白鼈甲の髪留めが光る。ハンドバッグも上等なもの。

「すみません、奥様よりも遅くきてしまうなんて」
 
 詫びると、早百合は傘をくるくると回し、「いいのよ」と微笑う。

 そして『儀式』は順調かとも尋ねられる。

 ……交配はあの顔合わせ以来、水蓮の排卵日に二度行ったので、克己はそれを素直に報告した。

「わたくしも克己ちゃんに孕まされたいわぁ」

 克己の話を聞き、クスクスと笑う早百合の横顔は本気なのか、冗談なのかわからない。女狐のような高笑いも響かせる。

 なにか言い返してやろうと思った克己だったが、送迎の車が到着したので口をつぐんだ。運転手はうやうやしい態度で後部座席の扉を開き、早百合を車内に誘う。

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 窓越しに通り過ぎる景色は、克己にとっては物珍しくもある。

 けれど別段、惹かれることもない。
 
 自分には関係のない世界だとわかりきっているから。
 
 四季彩にいるどの男娼よりも真綿に包まれるようにして『大切に』育てられてきたゆえに、きっと一度もこうした街を歩かないままで人生を終えるのだろう。

 温室で無菌培養されているかのような厳重な飼育は、よほどのことがないかぎり遊廓の外に克己を出さない。その際も越前谷家の人間による監視は必須で、用件以外で車から降ろされることもなかった。

 やがて、車は都心の総合病院に到着する。運転手を置いて二人で下りると、泊まりこみで静間に付き添っているという家政婦に迎えられた。

 彼女に案内され、通り過ぎる吹き抜けのロビー。辿りついた病室も広く瀟洒で、あまり外の世界を知らない克己でもこの部屋が特別に豪華だということはすぐにわかる。

 ベッドに瞑目している白髪の老人こそが──静間。

 かつて纏っていた威厳などとうに失せている。痩せた朽木のような姿と化し、自発的な呼吸も難しい。切開した咽喉に管を通し、直接に酸素を送りこむことでかろうじて命を繋いでいるのだ。

「……大旦那様。お久しぶりです、克己でございます」

 克己は静間の傍らに寄り、その手に手を添えた。

 すると──瞼がかすかにひらく。

 瞳はうつろだったが、静間は克己に対して話しかけようとしている。

 なにかを伝えようとしているようだ。

 だが、喉を切られているせいで声にはならない。唇の動きから言葉を読み取ろうとしても、それは克己には難しい。

「お義父様、なにをおっしゃっているのかしら? ……千鶴代、ペンを頂戴な」

 早百合が命じると、家政婦はすぐに筆記具と紙を持ってくる。小康状態の日には筆談で応えることもあるという静間だったが、今日は辛いらしい。

 克己は早百合の隣に着席する。無言になった皴深い手を握りしめ、しばらく病室での時間を過ごした。

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 帰り道、早百合の要望で霊園に寄った。克己はもう何度も連れられてきたことがある。早百合の亡夫が眠る場所だ。

 早百合は夫を愛している。

 愛している様が、克己にとっては愛らしい。

 夫のことを話すときはまるで若い娘のように頬を染めて語る。こうして墓参りをするときも花束を抱いて歩き、うきうきと嬉しそうだ。そんな様子を見ていると微笑ましく、克己の頬も自然にゆるんでしまう。

 やがて見えてくる──浮金石を用いた風格のあるその墓所は、まるで庭のようにあつらえられた一角にある。裕福な家系が墓を連ねるというこの霊園内でも、越前谷家の敷地はひときわ目を引いた。

「宗人( ム ネ ヒ ト )さん、暑いわね、まだ七月になったばかりなのにねぇ……」

 花を新しいものに取りかえてから、運転手に運ばせてきた水を早百合は掛ける。線香に火を点け、それから息子たちの話などを楽しげに報告していた。

 狂ったように男漁りを繰り返す早百合だが、真実に愛しているのは宗人だけ。男狂いになった原因も、宗人を喪った淋しさに耐えきれずに。

 それでも、どの男と過ごしても、誰に抱かれても、満たされないと嘆く。

 克己と身体の関係を持つようになってやっと、一応の落ちつきを取りもどした早百合。

 克己は緑陰の下で目を閉じ、それから手を合わせた。

 群れをなす早百合の愛人たちのなかで、筆頭に、別格に、最上級で扱われているだけで克己は良かった。

 宗人とは立場も身分も違うから、嫉妬などは感じない。また、宗人の妻であり続けたい早百合を尊重したい。だから克己は、早百合に愛情を込めて「奥様」と呼びつづける。